忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

声でかいやつ嫌い

 

    タイトルの通りなんだけど、声でかいやつ嫌いなんだよな。嫌いな理由を述べます。

    まず、怒ったりする時に声を荒らげる人が苦手。と言うより怖い。感情的になってるのはわかる。そうさせたのは俺だから申し訳ないとは思うが、別にでかい声で言われなくとも反省もするし、ちゃんとわかる。俺はそこまで馬鹿じゃないから。

    それと学生時代、大して面白くないのに、ノリの良さと声のでかさだけでスクールカースト上位に位置づけてた野球部が嫌いだったのも理由の一つだと思う。今で言えば、飲みの席で面白くないのに声のでかさでその場の空気を支配して中心になれる奴。まあこんなのは中心になれない人間の僻みも含まれるんだけど。

    とにかく声がでかい奴が嫌い。

 

    声がでかいと言えば、少数派は声がでかい。まあ声がでかくなる道理もわかる。多数派ならば、声を大きくせずとも唱える人数の母数が違うのだから、声をでかくする必要がない。少数派は多数派に対抗するために、或いは声を届けるために、唱える人間の母数を一人一人が声をでかくすることでカバーする他ない。

    この方程式に当てはめると、様々な意見に別れるテーマは少数派が乱立するので、そういうテーマの話をすると全員声がでかくなる。そう、政治とかに関する話です。俺は政治に関する話が嫌いです。

 

    人間誰しも一つや二つはきっと譲れないものがあって、それが個人の暮らしや人生に関わる話となると尚更譲れなくなる。そう、政治とかに関する話です。

    政治という言葉で一括りにしてるだけで、実際は昨今の社会情勢とか国際関係とか歴史とか全てを包括した話でもあるんだけれど。やれ偏向報道やら、LGBTQやら、税金だとか、戦争だとか、陰謀論やら。とにかくそういうやつ。

 

    週末働いてるスナックに半年くらいに1度訪れてから、気に入ってくれて毎週金曜にやってくるTさんってお客さんがいる。その人はいいお客さんなんで、俺も割と好きなんだけど、政治関連の話になると突然声をでかくする。

「日本はアメリカの植民地だ!!」

 「コロナはメディアの嘘だ!!」

ユダヤがどーだこーだ!!」

 ユダヤに関する発言はあまりに聞き流してなくて覚えてないけど。とにかくそういう話をする時のTさんはあまり好きになれない。

 

    声をでかくするって、先にも書いた通り、自分の声を届かせるためだと思うんです俺は。でも別に、無理に声をでかくせずとも、聞きたい人、或いはそれに関しては興味がある人は聞こえるとかろまで自ずと近づいてきてくれるんじゃないだろうか。それをわざわざ声をでかくしてまで、遠くにいる人まで聞かせようとするのはエゴスティックな気がしてしまう。“俺は正しい”“正しいからわかってない奴らに教えてやらねばならない”みたいな傲慢を感じてしまう。そんなエゴイズムが嫌い。

 

    声のでかさに、主張を通しきる精神、自分優先主義めいたものを感じてしまうから、俺は声がでかい奴が嫌い。聞かれたときだけ言えばいいのに。もしくはこんな風にブログでたまたま見てくれる人がやって来るような場所でやればいいのに。街頭演説とかやってる人も、ひっそりとブログやればいいのに。賛同者が多ければブログが伸びて、多分街頭演説するより効果あるだろうしね。

 

    余談だけど俺は人と話してない期間が少しあると、第一声の声のボリュームをミスして声がでかくなる時がある。たまたまあった友人に声かけられたとき、「久しぶり!」と返したら、「声でか」と真顔で言われたあの日のこと、多分走馬灯に出るくらい覚えてる。

いけるっす、いかせてください!

 

 二年ほど前からなにか違和感めいたものを抱えながら生活している。その違和感はどうも上手く言いようがない。虚無感でもないし、空虚とも違えば、かと言って憂鬱ってわけでもない(基本的には気が沈みやすく憂鬱寄りなのでそれよりさらに憂鬱ってほどではないという意味で)。強いて言うならば、遅くまで飲んだ次の日の朝、ポケットに入れてたはずのタバコがない時のような、どうせ吸うからまた買えばいいのになんだか腑に落ちなくて気になってしまう感覚と似ている。とにかく”違和感めいたもの”としか表現できずにいたが、昨日やっとその気持ちの正体を突き止めることができた。それは昨日二ヶ月ぶりにカウンセリングを受けたからだ。

 

 カウンセリングはいつもだいたい近況報告から始まる。そしてその時の自分の感じたこと思ったことなどの心の動きを話す。この自分の思考や感情を言語化して伝えることが結構大事で、いろんな気づきを得られる。人間、自分のことは自分が一番わかってると言うのは一理あるが、実際は人が誰かのことを分かるはずがないんだから、自分のことを分かることができるのは自分だけだろってこと。加えて、人には自分でさえ知覚し得ない自己の心理や思考が内在していたりする。それを明らかにするために言語化を行う。取り留めなくとにかく自分の思考や心理を言語化することで、客観的に自分のことを見て得られる気づきがある。まさに昨日の俺がそうだったように。

 

 ここ最近の俺は精神状態の起伏がとにかくなかった。それは安定しているようにも聞こえるが、俺の場合常に低いところで真っ直ぐな線を描いてるので、別に幸福感があるようなそれではない。毎日毎日決まったことを淡々とこなすだけの日々。つまり刺激がない。久しい友達と会って酒を飲むなどといった瞬間的に楽しく感じる時はあるけれど、あるだけでしかない。一度、解散して帰路につけば、ジェットコースターのように気持ちが冷めていく。明日も学校(はたまたバイト)か、などと憂鬱な気持ちで頭がいっぱいになる。なんの目標もなければ充実感も伴わない、ただ無心で消費するだけの一日。「よし!明日はあれをするぞ!」みたいな前向きな気持ちは一切ない。だから、継続的な幸福感や充実感を求めずにはいられない。

 そんな日々が続いて気付けば三年の月日が経とうとしている。同い年の友人は今日も立派に働いているし、中には子育てに奮闘しているやつだっているんだから、本当にみんなすごい。俺は俺なりに事情はあったつもりだけど、それを理由に怠惰に過ごしていた面もあって、未だに学生をやっている。

 一般的には大学や専門学校を卒業して就職する人口の割合が最も多い。俺の場合は大学生なので本来の卒業からすでに三年ほど長く大学生を継続していることになる。これは非常に息苦しい。俺が花ならそろそろ芽がでるかなといった頃合いに、道路工事で上からコンクリートで固められてしまうようなもの。あと少しのところで日の目を浴びれそうだったのに、それが無念に終わる。昔、ど根性大根と言うアスファルト突き破る大根を見たことがあるが、残念ながらそんな根性は俺に備わっていない。ちなみに、俺の場合は不可抗力で日の目を浴びれずにいるんじゃなくて、ただ怠惰なだけだろという意見は一切受け付けない。何も言わないでください。あとできれば優しくしてください。

 

 小学二年生くらいにポケモンにハマっていた。手持ちのパーティーには必ずジグザグマを入れていた。ジグザグマは本当に便利なやつで最初の草むらで容易にゲットできるにも関わらず、ストーリーの進行に必要なひでんわざを4つも覚えることできる。「いあいぎり」「かいりき」「いわくだき」に並んでなんと「なみのり」まで覚える。

一体どこになみにのれる要素があるんだ

 今になって思えばジグザグマはきっとあんなひでん要員として使われるなんて思ってなかったに違いない。先頭で奮闘するアチャモを見て「よし俺だってやってやるんだ」とやる気に満ちていたはずだ。しかし待てど暮らせど自分が場に出てバトルをすることなく、いつの間にかひっかいていただけのアチャモは口からひのこを吐いている。そんな折に、飼い主(俺)に告げられた「いあいぎり覚えて」。ジグザグマはきっと喜んだ。自分と同じくらいのレベルで同じ時期にパーティーに参加し、共に日の目を浴びることはなかったポチエナと明確に差がついたのだから。ジグザグマは嬉々とし木をいあいぎり続けた。

 そしてしばらくして、アチャモがいつの間にかワカシャモになった頃。今度は「いわくだき覚えて」。ジグザグマはもちろん覚えはしたけれど、本当にこれでいいのかと頭を抱えた(多分ギリギリ頭に届いてないだろうけど)。最初はそう変わらなかったレベルもすでにパーティーの他のモンスターたちと大きく差がついている。一度もバトルで活躍することなく一番後ろで飼い主(俺)のゆく道はばむ障害物をどかすだけの毎日。ついには「かいりき」や「なみのり」を覚えるために鳴くことも尻尾を振ることすら許されなくなった。マッスグマに進化することすら叶わず、今や自分でできることは物を拾って来るだけ。それでもたまにいいアイテムを拾った時に飼い主(俺)に褒められて嬉しくはなるも、その後は喜んでしまった自分が本当に惨めに思えて悔しかった。これならいっそ野生で暮らしていた方がマシだったと思っていると、気付けばどこからか拾ってきたキズぐすりを咥えている。「せめて拾うならいいキズぐすりくらい持ってこいよ!」と言い、乱暴に咥えていたキズぐすりをぶん取る飼い主(俺)。心に使えるキズぐすりがあればいいのにな・・・。そう思いながらジグザグマは今日も枕を濡らす。

 

 じゃなくて。いやなんか幼い俺がしたこととは言えジグザグマに本当に申し訳ないけど、ジグザグマの話がしたいんじゃなくて。きっと日の目を浴びたいジグザグマが夢(マッスグマになること)や希望(バトルで活躍すること)に満ちていた頃は、常に「僕いけますよ、いかせてください」と思っていたに違いない。俺も結構前からもう「俺いけるっすよ、いかせてください(社会に)」みたいな状態なのに、まだいかせてもらえないんです。いけないんです。ジグザグマで言うならもう二つめのジムリーダー戦くらいの頃だ。「もう俺だけ出さないノリも流石に長いですよ飼い主〜(笑)」の頃だ。笑って冗談ぽく言うが、実のところあまりのノリの長さ(この頃はまだそういうノリだと思えている)に僅かながらストレスを感じている。

 

 俺の飼い主(父親)が大学だけは卒業しろというのに対して、未だ卒業していない俺が悪いんだけど、そろそろ追いつくことも叶わないようなレベルの差が周りとつきそうな焦りが俺の気持ちだけを前に前にやってしまうのだからしょうがない。一旦全て自己責任だろということわ棚に上げて包み隠さず言わせてもらう。

 

 もう飽きたこの生活!!!!!

 

 辟易している。違和感めいたものの正体は辟易とした気持ち。新しいステージに行きたくて仕方がない。学生から社会人へと進化したくて仕方がない。だって単純に大学生活が苦しい。常に一人。オールウェイズアローン。「さっきの講義の小テスト難しくなかった?」とか話してこその学校生活であるべきなのに。なんなら留年生であることがバレてグループワークなどで気まずくならないように下手なことを言わないように気をつけなければないという人狼ゲームめいたことを常に強いられている。一言で言えば苦行。もうなんかなんのオチもつけれそうにないし、違和感めいたものの正体も明らかにしたのでここで終わりにしようと思うんですけど、今年一年でとりあえず卒業するために頑張っている最中なので、優しい人は応援してください。そんで、来年以降はこのブログで就活の話とか仕事の話が書ければいいな。マッスグマにさせてやれなかったジグザグマの分まで頑張るよ俺。

オワオワリ

 

   自分は割と物事を客観的に考えられるほうだと思う。自分の肉体から心だけ切り離して後ろにやるようなイメージを心がける。すると、まるで自分のことが他人に思える。なので、思わず感情的になってしまいそうなことに自分が巻き込まれても、「あーまたなんか俺の体面倒くさそうなことに巻き込まれてるよ、まあ俺には関係ないからいいけど」なんて具合に大抵のことには寛容になれる。

   自分のことも他人のように思えるということはつまり客観視ができているということだと思う。肉体と精神を切り離して生きる習慣を続けていると、最近では自分の精神状態に対して敏感になった気がする。多分、人間は自己の精神状態を知覚するのが下手だ。気疲れよりも肉体の疲労のほうがわかりやすいから、多少精神が参っていても先に肉体の疲れを感じてしまう。診断されるまで自分がうつ病だなんて思わなかったという人が多いように。

 

   うつ病と言えば、うつ病と診断されて週に一度ほどカウンセリングを通うようになってから、カウンセラーにとにかく休んでくださいとよく言われる。うつ病とは心のエネルギーの低下状態が慢性的なことらしい。俺は寝る時間も惜しむくらいに常に何か行動してることが多いので、休んでくださいと言われるのも当然と言えば当然だ。

   心のエネルギーが低下状態で何かに取りかかってもいい結果は残せないし、そのことに対して自己否定して、更に心のエネルギーをすり減らす悪循環に陥ってしまう。まさに自分がその中で長い間もがき苦しんでいることに気がついてから休息と無理しないことを心がけるようにした。

 

   繰り返すが俺は客観視が少し上手い。だから、以前なら多少無理して頑張っているような局面でも、最近では「いや俺疲れてるし休もう」と思うことが割とできる。長い目で見た時に、自分の体に鞭打ってなにかし続けるよりも、充分に休息をとった万全な状態でサクッと結果だけ残すほうが圧倒的に効率がいいし。

   最近は朝起きた瞬間にまず自分の状態をチェックして、それでもまだ疲れがとれていないようなら、「よし今日は休む!」とするようにしている。

 

   ところがここからが問題だ。どれほど休んでも体が休まってくれない。それどころか、眠気はあるのにいくら寝ようとしても体が寝てくれない。長い間肉体と心を切り離して生きてきたせいで、肉体だけが独立してしまった。体が心の支配下にない。肉体が休まってくれないと、心も休まらない。無理はしていないからこれ以上の疲労を抱えることはないが、しかし休まることもない。

   休んでも疲れがとれないなら休む意味ないじゃん。そう思って、以前今まで通りの休息なしの生活に戻ってみたことがある。結果はさらに疲れた。メンタルクリニックで入院させられかけた。やはり無理はいけないらしい。

 

   そういった次第で、ここ最近は休まることもないけど疲れることもない、特に何もしてない暮らしを続けている。肉体の疲労も以前なくなりはしないが、動き続けている状態に比べてはマシなので、そういう意味では休まっているのかもしれない。

   しかしだ。何もしてない暮らしというのは、休まってるわけでもないのに休憩至上主義に託けた、すべき事を放棄しているだけの状態だ。休まりも疲れもしない暮らしの中で、常々「やらなきゃいけないことあるのになあ」と感じている。そう思いながらも、無理をしてはいけないし、かといって休まってもないので、じゃあどうすればいいんだと苦悩している。なんならその苦悩のせいで心にジワジワとダメージが蓄積されている。俗っぽい言葉で言うと、何もしてない暮らしは終わりの暮らしだ。

 

   単純な疑問なんだけど、終わりに終わりは訪れるのだろうか。新たな始まりを求めるしかないのだろうか。でもまた新たな終わりが始まったらどうしよう。でもこのままだと終わり続けていくだけだし。何言ってるんだろ俺。わけわからんくなってきた。もうこの話終わり!

沖縄行きたい!!!

 

    京都を離れて沖縄に移った高校時代の友人が、数日帰ってくるということで会うことになった。以前は半年に1回のペースで帰省してして、その度に会っていたけれど今回の帰省は1年以上ぶりということなので、1年半ぶりくらいに顔を合わせた。

 

   待ち合わせ場所について、久しぶり、なんて言いながらランチを食べる道を2人でゆっくり歩いた。1年半ぶりだからそれなりに積もる話もあるはずなのに、軽く近況の話を済ませると、店を出て鴨川沿いで2人並んで座っている時にはただ何も喋らず川のせせらぎを聞いていた。

 

   「川の音って落ち着くよな」

 

    不意に思っただけのことを言ってみた。すると相手は

 

「わかる、この間寝る時雨の音を流したらよく寝れたしそれから寝る時雨の音流してる」

 

   と言った。

 

    「え、俺も。なんなんやろなあれ」

 

   「α波かなんかなんちゃう?」

 

    「そういうもんなんかー。まあなんでもええけど。」

 

    こんな身も蓋もない会話を時折交わしたくらいだった。別に仲が悪いわけではない。むしろ安心しているからこそそれくらいの会話でいいのであって、そうじゃないなら沈黙も耐えられないし、間を埋めるにももう少し会話が続くような話を選ぶし。

 

    「そういや会う前は何してたん?」

 

    なんとなく気になったので聞いてみた。

 

    「神社にいってた。京都を離れてから気づいたけど、沖縄の人達は自分の住んでるところをちゃんと好きで誇りに思ってるから沖縄のことをよく知ってはるけど、京都に住んでたら有名な神社もお寺も、いつでも行けるからこそなかなか行かへんし、金閣寺とか清水寺も小学生の頃社会見学で行ったことがあるだけで実際何も知らんようなもんから、行きたいなと思って。」

 

    「たしかに小学生で社会見学で寺とか神社行ってもまだ良さに気づける歳じゃないもんなあ。俺高校生でも無理かもしれん。せやし、俺もたまに今の歳になって誰かとそういうとこ行った時、めちゃくちゃええとこやなって気づくし、行くの好きやわ」

 

    「じゃあこのあと鈴虫寺一緒に行く?」

 

    「ええな。行く。俺も前から行ってみたいと思ってた所やし。」

 

    「でもまだお腹いっぱいで動くんしんどいやからもうちょい後やけど」

 

    「それはたしかに

 

    そこからまたしばらく川のせせらぎをただ聞いていた。俺は川沿いを歩く鴨が可愛かったのでただそれをぼうっと見ていた。お尻が薄い俺は、ちょっと座っている状態がしんどくなってきたいたけど、もし座っているのが川べりの地面じゃなくてフカフカのソファだったらこのまま何時間でも過ごせるなと思った。無言でただ並んで座っているだけなのに、それほどに心地よかった。

 

    「ごめん、やっぱり1人で行くことにする」

 

    唐突に相手がそう言った。

 

    「どしたん急に」

 

    「いやあ、神社とかお寺って1人で行くほうが落ち着かへん?」

 

    「それはまあわかる」

 

    「それになんか今日はあんまり自分の波長が人と過ごすのが向いてない波長になってる気がする」

 

    「ああ、そういうことな。その波長もすごいわかるから、それならそれは1人で行ってき。」

 

    「年末帰ってくるかどうかはわからんけどまあいつかは絶対帰ってくるしまたその時会えたら会お。帰る予定決まったら連絡するし。じゃあね、ばいばい。」

 

    「おっけー、じゃあそんな感じで。じゃあね、ばいばい。」

 

    そう言ってあっさりと解散した。1年半ぶりに会って、1時間半くらいの間一緒にいながら、時折会話を交わすくらいしかなかったけど、それなのにとても充実していた。1年半ぶりに会って、また次いつ会えるかわからないのにのに短時間であっさり解散したことは少し寂しくあったけれど、まあ今度はもう少し長く会えたらいいやと思うことができた。いい関係を築けている気ようなした。

 

    思っていたより早い解散だったので、時間を持て余したからたまに訪れるカフェに入った。ふと、ご飯を食べている時に聞いた相手の沖縄での暮らしについての話を思い出した。

 

    「沖縄はさ、みんな必要以上に干渉してこないから合ってると思う。毎日楽しいし。」

 

    「多分、私は社会不適合者の側なんやと思う。でもやからこそ、必要以上に干渉されなくて、みんながそれぞれ好きに生きてて、それを別にいいじゃんってみんなが思えてる今の環境がすごくいい。」

 

   「こっち戻ってきてみんなが下見ながら足早に歩いてるん見て私はこうはなれへんしなりたくないなと思ったし。」

    

    小学5年生の頃、家族で沖縄に旅行したことがある。その時、なんか時間の流れが独特な場所だなと感じた。時間がゆっくり流れているわけでもなければ、早いわけでもない。言い表し難いけど、言うならば時間の流れが不安定みたいな。でも不安定なのに居心地が悪くない。むしろ良い。

    多分、みんなそれぞれ自分の好きなように生きててそれを許容しているから、せっかちな人もいればそうでない人もいて、でもそれにお互いが無関心(尊重している、許容しているとも言える)だから、時間の流れを一般化してそこにみんなを当てはめていない分、時間の流れが統一化されてないんだろう。不安定なのに居心地が悪くないのも、きっと自分の時間の流れ方を確保されているからだ。沖縄という場所ならどこだろうとそうなってるとは限らないだろうけど、土地柄の特徴とか民族性?にそういう傾向があるんだろうな。

 

    いいな、沖縄。まだ俺はもう少し頑張れそうだけど(何に対して頑張ろうとしているかは自分でもわからない)、完全に疲れきったら沖縄に移り住むのもありかもな。

ビーフシチューと人生の話

 

 

    突然ですが想像してください。とある休日の昼下がり、普段あまり自炊をしないあなたは唐突に美味しいビーフシチューを作って食べようと思い立ちました。ネットで美味しそうなビーフシチューのレシピを調べて、必要な食材を買おうと近くのスーパーへと向かいます。最高のビーフシチューを作るため、食材の善し悪しを見る知識もきちんと頭に入れてきました。

    冷房の効いたスーパーの中をカートを押しながら、食材を丁寧に吟味して1つずつカゴへと入れていきます。ふと、ビーフシチューにはバゲットだよな、と思い立ったあなたはパン売り場のコーナーへと足を伸ばします。パン売り場でバゲットを見つけて、手にとり、これくらいあれば充分だろうと考えますが、同時に、うんと美味しいビーフシチューを作るのならバゲットもいいものにしたいなと思いました。バゲットはパン屋で買うことにして、手に取ったバゲットをそっと元の場所へと戻します。

    会計を済ませて、スーパーを出た後、パン屋へと向かいます。閑静な住宅街の中にある、小さなパン屋は、近所でも評判でした。あなたはそこでバゲットを無事買うことができました。家に帰って調理に取りかかるのが楽しみで仕方ありません。足取りも軽くなります。

    家に着いたあなたは、さっそく調理に取り掛かります。窓の外が暗くなった頃には最高のビーフシチューを味わっている自分の姿を思い浮かべるとワクワクが止まりません。その為には、少しのミスも許されないので、慎重に調理に取り掛かります。レシピに記載されているグラム数は正確に。大さじや小さじといった表記も、いつもなら大体これぐらいだろうと感覚に頼りますが、今日はきっちりと測ります。1つ1つの手順を丁寧にこなして、あとは煮込むだけとなりました。火を弱火にして、蓋をしてタイマーをセット。タイマーが鳴った時、ようやく完成です。

    ミスは許されないという緊張感が抜けて、肩の力が抜けました。煮込み時間は20分程度。リビングのソファに座り込んで、お気に入りの音楽をかけます。窓からはオレンジ色の光が射し込んできて、暗い室内を優しく包みます。キッチンからはビーフシチューの芳醇な香りが微かに漂ってきて、とても心地の良い空間です。1度大きく息を吐いて、ソファの上で横になったあなたは、キッチンタイマーが鳴るその時を楽しみで仕方ありません。

 

 

 

    ピンポーン    ピンポーン

 

    想定外の間の抜けた機械音でハッと気がついたあなた。もう1度、ピンポーン、と音がしてそれがインタホーンの音だとわかり慌てて玄関へ向かって扉を開けます。すると宅配業者の男性が立っていて、ここに判子をお願いします、と一言。1度、判子を取りに部屋戻る時、何かが少し焦げたような匂いがしました。荷物を受け取って、すぐにキッチンに戻ってビーフシチューを確認しますが、残念ながら僅かに焦げていました。

 

    さてここで問題です。この時あなたはどうしますか?

 

    最後の最後で気を抜いて失敗してしまったことを反省しながら、次は上手くやるぞと意気込んで少し焦がしてしまったビーフシチューを食べますか?

 

    それとも、なにくそ!と思ってまた1から作り直しますか?

 

    俺は、全部捨てます。ビーフシチューはもちろん、余った食材も、手つかずのバゲットも。調理に使用した器具まで捨てたいくらいです。

 

    前置きが非常に長くなりましたが、この時俺がどうしてそんな行動をとるかについて書きます。

 

ーーーーー

 

    まず、上記のシチュエーションの「あなた」を「俺」に置き換えて話を進めます。

 

    俺は美味しいビーフシチューを作ろうと思い立った時、美味しいビーフシチューを作ってそれを味わう数時間後の自分を目標と定めます。その為に、レシピを調べている時、食材の目利きの知識も入れてスーパーで食材を1つずつ丁寧に吟味している時、バゲットをスーパーで買うのでなくわざわざパン屋まで赴いて購入を決めた時、家に帰ってレシピ通り正確に調理をしている時、そのどれもが俺にとっては充実した時間となります。自分が定めた目標に向かって、各手順を正確且つ確実に遂行していると、自分が最初に定めた目標が更に洗練されている感じがして、目標を達成した時の達成感や満足度を想像するとワクワクが止まらないのです。

 

    早い話、俺は完璧主義者です。なので、どこかの行程でミスした瞬間に全てがどうでもよくなります。そこから修正して、、完璧ではないもののなるべく完璧なものにするなんていう発想はありません。自分が思い描いた目標とそこに至るまでの過程に1ミリのズレが生じた瞬間に俺にとっては意味がありません。

 

    余った食材を別の料理で使ったり、手つかずのバゲットを単体で美味しく食べれることくらいは俺にだってわかっています。実際、別の用途にも使えるのにそれを捨てるなんて勿体ないことでしかありません。ただ俺にとっては食材もバゲットも、完璧なビーフシチューのためだけのものでしかないので、最後の最後でビーフシチューを少し焦がしてしまった時点で、なんの意味も持たないモノになります。

 

    以前、ビーフシチューではありませんが、別の料理を作ろうと思い立ったた時、途中で失敗してしまい、途端にやる気がなくなって全てを投げ出したことがあります。その時は余った食材を勿体ないので、また次何か料理する時に使おうととっておきました。その数日後、昼食を作ろうとしました。調理の準備をしながら、その時も俺は完璧に作り上げた料理を味わう少し先の自分を想像してワクワクしていました。1つずつの手順を思い描いた通りに完璧にこなしていき、気分が高揚していたのに、前回の料理で失敗した際にとっておいた余った食材を使うので冷蔵庫から取り出そうとした時、目に入ったその食材から前回の失敗の経験が思い起こされて途端に気が滅入りました。

    俺が余った食材やバゲットを捨ててしまうのは、またそれが目に付いた時に以前の失敗の経験を思い出してしまうのが嫌だからです。せっかく切り替えて前に進もうとしているのに、以前の挫折が脳裏にチラついて別のことにまで影響されるのが嫌だから、捨てます。俺にとってはそれが、失敗をリセットして前に進むための手段だからです。

 

ーーーーー

 

    俺がどれほどに完璧主義者で妥協を許せない人間か、少しお分かりいただけたと思います。完璧主義者であることは、上記のビーフシチューの話だけに関わらず、俺の人生にも大きく関わります。

 

    小さい頃、ふと自分の将来の理想像を思い描きました。それは、25歳くらいには素敵な人と出会い、結婚して、子宝にも恵まれ、仕事は大変だし毎日忙しいけれど、それでも毎日が充実していて幸せというものでした。

 

   さて、問題は俺が次の誕生日で25歳になるということです。いや、それが直接の問題ではありません。本当の問題は、次の誕生日で25歳になる今の自分が、結婚もしていなければ、未だに学生で働いてないということです。

 

   ビーフシチューの話になぞらえて言えば、今の俺は、最後に少し焦がしてしまったどころか、食材も悪ければ調理の全肯定でミスしているようなものです。

 

    毎日が苦しいです。日毎に生き辛さが増しています。思い描いた理想の姿と僅かどころか大きくズレています。

 

    これがビーフシチューならもっと早い段階から投げ出してやめてしまっているはずですが、これはビーフシチューではなく人生の話です。ビーフシチューは投げ出しても、また別の機会に挑戦することは可能ですが、人生はそうではありません。来世があって人に生まれることができるよと保証されているなら、すぐに投げ出して、また1から挑戦しますが、そんなものは夢見話でしかありません。

 

    今はただ、全ての失敗が上手く噛み合って奇跡的に美味しいビーフシチューができるような展開を願うばかりです。その時のために、俺はいろいろ失敗したけど結果的にはいい未来を迎えられたからOKと言えるように、少し焦げてしまったビーフシチューを食べる練習をしておこうと思います。

 

    完璧主義者だったり理想家ほど、損なことはない気がします。妥協とか、なんとか修正しようとするバイタリティを持てるほうが、人生もビーフシチューも上手くいくんじゃないでしょうかという話ですこれは。俺が言えたことではありませんが。それでは。

R4.5.10

 

    時刻は午前7時前。前日22時からの夜勤もあと10分ほどで終わるという頃に、しかめっ面をしたおじいさんがレジに新聞を1部持ってやって来た。マニュアル通りの挨拶を済ませてから、レジの画面から朝日新聞(¥160)を選択して、お客様側の画面から支払い方法を選択して支払いを済ませていただくように案内する。おじいさんは現金支払いを選択して、自動レジへと5000円札を投入する。いつもならここで確認ボタンを押してもらうと、自動で精算が済んでお釣りのある場合はお釣りが出るようになっている。

 

    確認ボタンをお願いします。そう言おうとする前にピーッと音が鳴り、こちら側に見えている画面にエラーの表示がされる。何故かはわからないがよく5000円札だけレジに詰まることが多く、こういうエラーが起きた場合は一度レジを出てお客様側に見えている画面から操作をしてレジの復旧作業に努めなければならない。

    退勤前にどうしてこんなことを。そう思いながら一度レジを出てお客様側から見える画面からレジ復旧作業へと入る。この時体が無意識に「申し訳ございません、少々お待ちください」と言葉を発していて、このバイトも始めてからもう1年も経つんだなと思っていた。

 

    レジの復旧作業は時々やっていて慣れているので、いつも通りに手順を済ませてレジ復旧確認ボタンを押すと、画面には「レジ復旧不可」の文字が表示された。この時、既に一瞬パニックに陥りかけたが、機械のことだからそんなこともあるだろうと思って、もう一度レジ復旧作業の手順を踏み直してレジ復旧確認のボタンを押したが、レジは復旧しなかった。頭が真っ白になりそうになるが、まだどこかに見落としていた札詰まりがあるのだろうと思い、「申し訳ございません」と言いながら再度レジ復旧作業へ取り掛かろうとした。すると、

 

    「もう立て替えしてくれ!こっちも会社に行く時間があるんだ!」

 

    と、怒鳴られた。この時点で頭は真っ白になった。落ち着いてやればできるはずのレジ復旧作業もできなくなれば、体が覚えていて意識しなくていても出る接客マニュアル通りの言葉すら出てこなかった。レジ復旧作業に務めているフリをしながら(実際は頭が真っ白だったのでただレジ内部を開けて見ているだけだった)、1分ほどの時間を要してから「少々お持ちください」とだけ言って事務所にいる社員に助けを求めに行った。

    それから社員と同期のバイト友達の助けによって問題は解決したが、俺の心臓は終始鼓動が早くなっていた。他意はないとわかっている他人の行動に恐怖を感じるのは本当に辛いし、しんどい。

    社員と同期の友達には「泣きそうだった」と言って心配させないよう自虐気味に笑って言って見せたが、本当のところかなり辛かった。

 

   退勤を済ませ、その件を自虐気味に話しながら同期と店を出たが、俺の病気、うつ病を理解してくれてる同期の優しさの言葉に申し訳なさと辛さでいっぱいだった。

 

    本来ならば、今日(R4.5.10)も授業が入っているので、一限と二限だけだけれども夜勤終わりとはいえ頑張ろうと思っていたが、一気にその気がなくなってしまった。とは言え、ここで家に帰って寝て嫌なこと全て忘れてしまおうとしたら、いつまで経ってもだらしのない俺のままでいる気がして、勇気を出して改札を抜けて家とは反対方向の学校の方へと向かう電車が到着するホームへと向かった。

 

     ホームに降りてからしばらくしてから来た電車に乗って、終点駅で降りてから途中にあるコンビニの前の喫煙所で一度気持ちを落ち着けてから、乗り入れ先の別の路線の改札へと続く階段を下った。この時、周りに人がたくさんいたことで、恐怖感と不安な気持ちに襲われていた。

 

    階段を下って改札が見えると、途端に不安が強くなった。この改札を抜ければ、電車に乗って学校の最寄り駅で降りてたくさんの知らない人に囲まれて授業を2個も受けなければいけない。そう思うと中々改札をくぐれずに、改札の近くの柱に寄りかかりながら、改札の方を見て、自分で自分の頭、こめかみの部分を殴りながら自分を奮い立たせていた。こんな所誰にも見られたくないけれど、誰か今のこの俺の異様な様子に気付いて勝手に俺を助けてくれ。そう思ったけれど、無情にも周囲の人は俺を一度チラッと見ては素通りして行った。

 

    そのまま10分ほど挙動不審なままでいて、仲のいい友人に今の状況を連絡することで一度冷静さを取り戻してなんとか改札を抜けることが出来た。電車を待っている間、周囲の人がどんどんと増えていくにつれて鼓動が早くなり挙動不審さが増していったが、友人と連絡をリアルタイムに取り合うことでなんとか冷静さを保てていた。

 

    電車に乗って学校の最寄り駅に近づくに連れて、さらに鼓動は早くなっていた。逃げ出したい気持ちが強くなっていた。しかし無情にも電車は目的の駅へと近づいていくし、乗ってしまった以上途中の駅で降りて引き返すという選択肢は俺にはなかった。

 

    降りる駅に着いて、改札を抜けて駅から出て学校へと歩いて行く。学校の門の前の横断歩道の信号を待っている時このままずっと赤信号が続いてほしかった。或いは警備員のおじさんが俺の異様さに気付いて声をかけて欲しかった。しかしその願いは叶わず、俺の体はどんどんと学校の内へ内へと近づいていく。何度も途中立ち止まったが、ここまで来たのに帰ってちゃ意味ないだろと自分を叱りつけて、無理に体を動かした。しかし、やはりどうしても恐怖感や不安を拭いきれなかったので、そのまま学校を抜けて最寄りのコンビニで缶チューハイのロング缶を買って人目につかないところで飲み干した。酒が飲みたかったわけではない。ただ、少しでも酔って気を紛らわすことができればいいと思っただけだ。人目につかないところへ移動したのは、今の自分を誰にも見られたくないからと思ったからだ。助けてほしい気持ちはあるのに、人目のつかないところに赴くなんてひどく矛盾している。あまりに滑稽だ。

 

    飲みたくもないのに飲む酒は不味かった。でもその分アルコールはいつもより回っている気がして、500mlの缶を飲み干した後にニコチンを取り入れることでブーストをかけた。自分は一体何をしているんだろうと悲しくなった。

    まだ授業の開始までに時間の余裕があったので近くの牛丼チェーン店で腹いっぱいに飯を食べた。美味かった。こんな時でも飯は美味く感じれることにまだ少しばかり余裕が残っているんだなと気付いて頑張る気持ちになれた。

ある1人の男の話

 

  ある所に1人の男がいました。その男には悩みがありました。それは年々自分がどういう人間かわからなくなってきていることです。男がこれまで生きてきた人生は決して華やかというものではありませんでしたが、そんな中にも僅かに本当に心から楽しい期間が少しばかりありました。 男はその頃の自分があるべき自分の理想の姿、或いは自然な姿であるという気がしてなりません。そして、その頃の自分と現在の自分を比較しては、日を追う事に生きづらさが募っていくのでした。

 

    いっそ死んで楽になりたい。そんな安直な考えがいつも男の脳をよぎりますが、何かをきっかけにこの先また楽しい時間が待っているかもしれないという希望を捨てれずにいて、楽な方に流されるなと自律しています。

 

    男は25歳にも関わらず、未だに大学生です。同窓の友は既に社会に出て頑張っているという事実が男を焦らせます。一刻も早く遅れを取り戻さなければと男は思いますが、目の前のやらなければならないことができません。その理由は男にもわかりません。やりたいのにできない、そしてその理由もわからない。この2つの事実が更に男を苦しめます。男はそれなら他のことを上手くやってバランスをとろうと考えました。

 

    ですが、男は何をしたらいいかはわかりませんでした。とりあえず思いつく限りの自分の好きなことをしてみましたが、どれもしっくりきません。男は頭を抱えました。次に自分が何をすればいいかわかりません。考えに考えた結果、今自分が抱えている悩みを少しでも解消すれば少しは気楽に生きれるんじゃないだろうかと気付きました。人格形成は他者との交流の中で育まれるものです。男は失いつつある昔の自分を取り戻す為、或いは今の自分を知るため友人達に会おうと決めました。

 

    たまに会う昔の友人を除いて、最近男が頻繁に交流を持つのは週に2、3回ほど勤務するバイト先の人達でした。一旦、学業に集中するため遠のいていたバイト先は、久しぶりに戻ると新しい人がたくさんいました。男は新しい人達と以前から知っている人達が仲良くしている輪にうまく馴染むことができませんでした。自分の居場所の1つだと思っていたところが、なんたが落ち着かない場所になっていて、男は少し悲しくなりました。さながら浦島太郎の気分の男は、それでももう一度ここに居場所を作ろうと強く思いました。

 

    男は積極的に話しかけようとしましたが、うまく言葉が出ませんでした。何を話せばいいかわかりませんでした。唯一男に出来たことといえば、話しかけられた時にだけ対応するということでした。以前の自分なら容易に出来たことが出来ない今の自分が本当に嫌になって、男は悔しくて情けない気持ちでいっぱいです。今の自分はこんな風になっていたんだと気付いて、もうこのままでいいやと諦めかけました。

 

    毎日頭をよぎる死にたいという気持ちが一層強くなりました。しかし同時に、その気持ちを封じ込めようとするもう1つの気持ちも大きくなりました。ここで死んでたまるか、乗り越えてやる。男はそう思って奮い立ちます。男は諦めだけは悪いのでした。無様だっていい。ひどく不器用な自分だけれど乗り越えてやる。その為にはもう少し力を溜める期間が必要ですが、それでも男は足掻きます。きっとこの先何度失敗しようと足掻きます。足掻き続けます。今はまだ、この男の未来がどうなるかはわかりませんが、もう少し見守って見ましょう。そしてまたいつかこの男の話の続きを語りましょう。それではまたいつか。