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無題

タイトルとか考えるのが恥ずかしい

「幸せ128円が1点、幸せ206円が1点、計2点334円でございます。」

 

常日頃からどこか満たされてないなあというような、モヤモヤした気持ちを抱えて生きている。携帯を開けて友人達の私生活を覗き見れば、皆キラキラとしており、閉じた携帯の黒くなった画面に映る自分は全くキラキラしていない。埋まるべきところが埋まっていない。どうにかして埋めたいものだが、何で埋めればいいのかもさっぱりわからない。新しい服を買っても、最初は気持ちが弾むものだが着慣れてくるとそんな気持ちは失せていく。友人とカラオケに行ったりご飯を食べたりしても、楽しいのはその時だけで家に帰ると楽しかった気持ちは蒸発して煙になって消えている。毎日服を買ったり、常に友人と遊び続けるほどの財力は僕には到底ない。結果毎日コンビニに通い細々と金を消費するのに落ち着いた。金を使う、つまり身を削ることで、少なくとも僕は何かをした、今日は生きた意味がある日だ、と思えるのだ。バイトとして働いて稼ぐというのも、時間と労力を消費して金を生産しているという点では、充足感が得られるはずなのだが実際に稼いだ金が手元に来るのは毎月一度の給料日のみですぐに結果として得られないのがどうも煩わしい。そういうわけで、ほぼ毎日コンビニで買い物をしている。しかし僕が毎日コンビニで買い物してるのはあくまでも充足感を得たつもりになりたいだけで、本望ではない。もっと低コストで充足感を得られる方法があるならば迷わずそちらに移行するし、正直コンビニの商品のほとんどを一度は消費済みなので飽き飽きしている。レッドブル191円(税込206円)、アイスの実129円(税込139円)をカゴに入れていってはいるが、本心は「あるから買っているだし…」なんて具合だ。毎日通っているから、何が陳列されているか知っているはずの棚を何故か全て見て周り、何かいい商品を探しているつもりではいるが、僕の目は無いはずのものを探している。幸せである。「何故か全て見て周り…」と言ったが、自分でも分かっている。幸せを探している。「期間限定!幸せ119円(税込128円)」とか「新商品!幸せ123円(税込132円)」とかないかなあ。お金で買えたらいいのになあ幸せ。

 

それじゃあ。

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エイプリルフール卒業。贈る言葉。

4月1日。晴れ。桜の木は、今か今かと花を咲かせるその時を待ち遠しそうだ。窓から射し込む光が照らすそこは、壇上である。そしてその真ん中に立っているのが僕だ。

 

「在校生、起立!!」

 

ザッという音を立て在校生が立ち上がる。

僕は卒業生代表として彼らに言葉を残す大役を預かった。

 

本日は4月1日。エイプリルフールです。僕は今日を持ってエイプリルフールを卒業しました。あれほど努力して志望校を決めた奴が、そこをやめたと言い驚きました。春から東京で新生活を迎えた後輩が、引越し業者に家を傷付けられたと言っており親身にアドバイスしました。突然リンクを見ろと言われ、見たら開けただけで通信制限になる画像だと言われました。最後の1つ以外全て嘘でした。どうしてこれほど僕が騙されたのでしょう。それは僕がエイプリルフールを卒業したエイプリルフール卒業生だからです。エイプリルフール在学生の皆さんは恐らく今年も嘘で人を騙し、そして自分は騙されずにいようとしていることでしょう。その意識があることで君たちは人の嘘に気付けるのです。しかしエイプリルフール卒業生の僕は、人を騙そうなんて考えてなかったし、ましてやみんなが嘘で僕を騙してくるなんて思わなかった。僕だってエイプリルフール在学生の頃は如何にして人を騙そうか考えていたし、人の嘘を見破っては浅はかだと鼻で笑っていた。しかし卒業して気づいた。たくさん騙されてようやく気づいた。こんなの絶対間違っている。嘘をついて人を騙し優越感に浸る君たちが僕は正直怖くて仕方が無い。いいか、よく聞いてほしい。嘘で人を騙していい日がある訳がない。どうか、どうか嘘をつかない人間なってほしい。以上、送る言葉でした。

 

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惰性とアイデンティティVSハートマーク

 

Apple Musicを知っているだろうか。Apple Musicというのは月々定額支払うことでApple Music内に存在する曲なら聴き放題ダウンロードし放題といったサービスである。かくいう僕もApple Musicユーザーの1人だ。以前はコブクロしか聴いていなかった僕も、中学生時代に買ってもらえたスマートホン、高校時代に買ってもらったMacBookを駆使して様々な音楽に触れるようになった。それからは所謂サブカルという領域に属されるアーティストを(やや)好むようになり、TSUTAYAに行っても目当てのCDが得られない僕はApple Musicに大変お世話になっている。

Apple Musicにはお気に入り機能のようなものがある。曲にハートマークをつけることが出来るのだ。このハートマークをつけると、情報が送信されそれに似た曲がユーザーに推奨される。

「お、この曲いいな。よし、ハートマークつけとこう。」

「お、ハートマークつけてるってことはその曲好きなんですね?でしたらこの曲もお気に召されると思いますよ。」

といった感じを思い描いてくれればいい。大変便利で素晴らしい機能だ。

 

僕は音楽は好きになった曲だけを聴くタイプではない。僕は様々なアーティストの好きな1曲1曲をまばらにプレイリストに登録するのではなく、好きになったアーティストの楽曲全てをプレイリストに登録するタイプなのだ。たとえあるアーティストの1曲が非常に好みでも他の曲があまり趣味に合わないとプレイリストには入れないのだ。つまり僕のプレイリストに入ってる楽曲は、その全てが僕がファンだと自覚しているアーティスト達の曲である。だから僕にとってプレイリストに存在する曲は全て好きな曲である。

この僕的プレイリストに入れる曲の選び方は、僕にハートマークを用いた優劣を付けれなくする。というもの、それには僕が考える音楽シーンにおけるファンの理想像が関係している。

僕が考えるファンとしての理想像は、曲をしっかりと受け止めた上で、時に厳しい評価もするが、結局のところ根本的にはそのアーティストの曲は全て好きでいれる人間だと思っている。しかしあくまでこれは理想なのである。実際のところアーティスト1つ挙げても、そのアーティストの楽曲全てが平等に好きな訳ではなく、そこには確かに嗜好に基づいた優劣がある。相対性理論なら、「LOVEずっきゅん」は2番目に好きな曲で、一番に好きな曲は「ミス・パラレルワールド」だ。チャットモンチーなら「バスロマンス」が2番目に好きな曲で、「恋の煙」が一番に好きだ、といった具合だ。

好きの優劣だけで済めばいいのだが、本音を言うと、そこまで好きじゃない曲が数少なくではあるが僕のプレイリストに数曲存在する。例えばPerfumeの「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」。あれとかまじで耳が痛くて正直聴くのしんどい。それでも聴くのが正直キツい曲をプレイリストに登録しているのは完全に惰性が1つと、もう1つがアイデンティティを一貫性するためである。僕はPerfumeとても好きだし、実際彼女達の楽曲のほとんどが好きな曲であるからたった数曲の聴くのがキツい曲のために全曲プレイリストに入れないくらいならば、聴くのがキツい数曲を入れてしまおうというのが惰性。プレイリストにとりあえず入れておくことで、プレイリストにある=好きな曲→つまり僕にPerfumeで好きじゃない曲なんてない!てことは(前述した僕の個人的ファン像に基づいて)やっぱり僕はPerfumeのファンなんだと自分を騙すのがアイデンティティの保護。

しかしどうしても脳は騙せても体は騙せない。シャッフル機能で「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」が流れてくるとスキップしてしまう。だから僕は「不自然なガール」や「ナチュラルに恋して」(どちらも僕の好きなPerfumeの曲)にハートマークをつけたとき、惰性と、アイデンティティの保護のために「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」にハートマークをつけて、似たような曲が推奨されると思うとハートマークが押せない。そういう話。

 

そういえばこの前Apple Musicの期限が切れて、Apple Musicからダウンロードしていたミュージックが全てプレイリストから消えた。「MUSICVIDEO」や「FRIENDS」が好きなばかりに半分ほどはまだあんま聴いたことのない岡崎体育がプレイリストから一時的に消えてくれたことには少しホッとしてる。

 

それじゃあ。

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言葉の限界

 

突然ではあるが1つ宣言をしようと思う。女性が好きだ。僕は女性が好きだ。街を歩いているときには自然と通り過ぎる女性の顔を見てしまうくらい好きだ。タイプの人が前から来て横を通り過ぎて行ったならば進行方向を180度変えてしまいそうなくらい女性が好きだ。とにかくそれほど女性が好きということだ。

おっと身構えないでくれ。もう少し話を聞いてほしい。突然の告白の対象にされた女性読者諸君が嫌悪感のあまり通報しそうになる気持ちも分かる。しかしまだ続きがある。もう少し聞いてくれ。僕は女性を見るとき、女性を性的対象として見ているわけではないということだ。僕はただ女性の中に芸術性を探しているだけなのである。だから僕は「可愛い」よりも「綺麗」を好むし、「綺麗」よりも「美しい」を好む。流行りのメイク、流行りのファッションでデコレイトされた女性よりも、化粧っ気はなくありのままで、さらにどこか独特の雰囲気を併せ持った女性がいいのだ。そして極めつけは僕は女性とどうこうなろうとは考えてないということだ。もし僕がすごくタイプの人と出会えて一緒に食事に行ける関係になり、食事に行くことになってお洒落なレストランでディナーを楽しんで、それでそのあともう1件どうなんて誘われて先程のお洒落なレストランから一転大衆居酒屋に連れていかれて酒を酌み交わし気付けば時刻は午前1時、終電もないからどこかに泊まることになって、着いたホテルのベッドで彼女が僕を誘惑してきたとしても…ごめん、その場合はどうこうなるわ。しかし自分からどうこうなりにいこうとすることはまずない。それだけは断言する。僕は女性を眺めていれるだけでいいんだから。だから僕は君たち女性読者を見ることはあっても指一本触れはしないことを約束しよう。危険性はない、信じてくれ。

前置きが長くなった。とにかく僕は女性が、それも「美しい」女性が「芸術的観点から好き」だということだ。そんな僕はSNSでフォローしている美しいモデルの方々を見ては「はぁ美しい」とぼやいている。しかし時たまに美しすぎて「っ!??!!」なんて具合になることがある。これを僕は言葉の限界と呼んでいる。

言葉というのは人間がコミュニケーションをとる上で、感情を伝える暗号のような働きをしている。親しい人と別れる運命になり、胸が締め付けられるような思いを人は「悲しい」と表現する。愛し合う男女が子供を孕んだとき、人は「嬉しい」と表現する。これが言葉の役割である。しかしあくまで感情の深さを表現しているだけに過ぎず、どれほど悲しいか、もしくはどれほど嬉しいかをそのまま伝えることができないのである。飼ってたハムスターが死んでしまって「悲しい」と、外出中に家が全焼して家族全員と全ての財を失ったかと思えば、同時に日本経済が破綻してその影響でリストラされて「悲しい」もどっちも「悲しい」で現すしかないのである。後者の「悲しい」はおそらく声も出なくなると思うがこれもつまり言葉の限界である。

先程お気に入りのアイドルをYouTubeで見ていたら、コメント欄に「カワイイ、カワイイよりカワイイ言葉があったらいいのに」というコメントを見つけた。ひどく同感である。美しいより美しい言葉があればいいのに。人間の感情の深さをありのまま表現するためには言葉は何段階にならなければならないんだろう。

 

それじゃあ。

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アイコンに恋をする

 

スマホの所持率増加と共に普及しているLINEやTwitter。特に前者は無料で通話ができるしメールよりも早く手軽にメッセージ交換が出来るので、今や現代人にとってのネットコミュニケーションはイコールLINEと言っても過言ではない。しかしTwitterも、LINEまでとはいかないものの大多数の人間が使用するSNSである。僕なんかはスマホを見てる時間のほとんどがTwitterである。

Twitterというものをやっていない人のために軽く説明すると、個人個人が各々アカウントを作り(このへんはLINEと一緒である)、それを知人同士や検索を用いて趣味が合う人達と互いをフォローする。そうすると、自分が今思っていることを呟くことで自分をフォローしている人たちがそれを見たり、自分がフォローしている人たちの呟きを見れる。

そして自分が誰かの呟きを見るとき、呟きの横にその人のアイコンが表示される。例えば飼ってる猫をアイコンにしている人の呟きならば、ちょうど猫が「ユニバなうー♪」などと喋っているように見えて少しのファンタジーを見いだせる。同じように松岡修造をアイコンにしている人が「寒すぎてテンションめっちゃ下がるー(´・ω・`)」なんて呟いていようもんなら、暑苦しくない松岡修造が見れたりする。

もちろんアイコンがそのアカウントのユーザーの本当の顔ではない。特に個人情報の流出などで詐欺被害が増加する昨今、SNSは詐欺者が個人情報を狩る恰好の場所なので、余計易々と顔写真をアップロードすることはできない。おそらくギャルがよくやる下を向きながら顔の真ん中に横向きにピースを持ってくるあのポーズもそのへんを懸念してのことだろう。

だから僕もアイコンの写真が即ちそのアカウントのユーザーの顔ではないことは理解している。僕は情より理を重んじる人間だ。いくら喋るファンタジーな猫や暑苦しくない松岡修造を見たいと思っていても、これはアイコンだからそんなはずはないと思えるのである。しかし僕はどうやらある時にのみ於いて理より情を重んじるみたいだ。それはアイコンの画像がとびきりドストライクの美人のときだ。

夜誰も呟いてないような時間にとびきり美人のアイコンで「モヤモヤして眠れない…」なんて呟かれていたりしたときには理論がすぐにログアウトして感情に支配される。モヤモヤしてるということは悩み事があるのだろうか。恋の悩みだろうか。きっとこんなに美しい人ならやることなすこと全て美しい筈なのできっとその恋もドラマのような恋なんだろう。すると相手もとびきりのイケメンだろう。そんなイケメンを思って美しいため息をついているのだろう。すでに僕の頭の中では、そのアイコンに設定された美人イコールそのアカウントのユーザーだという思い違いを起こしている。その美人がイケメンな彼を思ってモヤモヤしているいじらしい姿を浮かべて僕は悶々として、気づけば恋に落ちているのである。そしてもっとその人のことが知りたくなりその人のページへと飛ぶと過去にあげているそのアカウントの本人の顔写真を発見し、恋が終わるのである。

 

それじゃあ。

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少女インマイハート

 

眠い、けど寝たくない。僕はこの2つの相反する感情がぶつかり合うことがよくある。大体こういった矛盾が起きるのは、生産性皆無の日を過ごした時だ。どこかで聞いた話によると、夜更かしをするのはその日に満足していないから、充実感をどこかで取り戻そうと夜中まで必死に起きているそうだ。なるほどこれは納得しがいがある、なんて思いながら襲ってくる睡魔に抗いながら僕は充実感を探す。

すると決まって午前2時を過ぎた頃、どこからともなく僕の心の中に乙女が現れる。

 

はあ、なんて退屈な日々なのかしら。今日もまた何もしないまま1日が終わるのね。誰かが無理やり私をこの部屋から、いいえこの退屈な日常から連れ出してくれたらいいのに!

なんてね。あら、もうこんな時間。明日も早いわ、もう寝ないと。

と、そんな時窓の外からエンジンの唸る音が聞こえる。同時に、窓から「コツン」と音がする。私は窓を開け下を見下ろすと、そこにはなんと見覚えのある男の子が。

「出てこいよ」と私に声をかける男。

「ちょっとパパとママに見つかったらどうするのよ!」と声をひそめて男に注意する私。

「お前学校でもいつも退屈そうな顔してんからよ、俺がもっと面白い世界に連れてってやるよ!」

「ほら、受け止めてやるから飛び降りてこいよ!」

私の頭の中はいっぱいだった。大好きなパパとママを心配させるわけにはいかない、でも男は楽しい世界に連れて行ってくれると言う。葛藤する私は、ついに意を決して男に向かって飛び降りる!

ドサッ!と彼の腕の中に抱えられた私。見上げれば、男が満足げに笑っている。

「やればできんじゃねえか」

そして彼のバイクに跨り、私と男は夜の街に消えていくのだ。

 

時刻が午前3時に変わる。ハッと僕は男に戻る。あーあ、誰か無理やり俺の家まで来て朝までどっか連れてってくれねえかなぁ。「ほら、行くぞ。」なんてニヒルに笑いながら手を引っ張られただけで、その強引さに恋に落ちる自信、あるよ。

 

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午後の紅茶が満たしてくれるのは喉の乾きでもなく味覚でもなく心だった

 

駅の改札からホームへと降りる階段を下っていると、ちょうどホームからゴオオ、と風が頬を撫でてきた。いや、ゴオオという音を立てて風が吹いていた以上、頬を撫でられたと言うより擦られていた。京都の冬の風は貧相な体の僕には厳しく、暖かいものが飲みたくなった。階段を降りると待っていたかのように自動販売機が鎮座していて、とにかくなんでもいいから暖かいものが飲みたかった僕はなんとなく午後の紅茶を買う。

コクリ、と1口飲んでふと思った。思えばどうして今まで「午後の紅茶」という商標登録に疑問を抱かなかったのだろう。午後の紅茶は「午後」である必要があったのだろうか。確かにただ「紅茶」として売り出しただけでは消費者はそんな面白みのないもの手に取らないと思うし商標登録というのは消費者の購買意欲を誘うのに大きな役割を果たしているのだろう。ただ「リプトン」みたいに固有名詞をつければ良かったのではないだろうか。それを何故に形容詞、それも「午後の」という。別に「美味しい紅茶」とかでもいいと思うんだ。いや、確かにチープな気もするが。ただ、今でこそ「午後ティー」と略され紅茶界の一角を担うポジションに落ち着く午後の紅茶に対して、我々はそのネームのインパクトを忘れているが、考え直せばこの名前はすごい。

 

午後の紅茶だから午後に飲め。」

 

とでも言うようかの名前から漂う圧迫感。でもティーじゃん。お茶じゃん。いつ飲んだっていいじゃん。普通そう考えておかしくないだろう。しかしこの午後の紅茶という商標登録、恐ろしく人間の心理をついている。というのもこういう風に考えられるからだ。

 

我々は普段堅苦しい社会の中で全体の調和を個人の自由より優先しているばかりに、心のどこかで決められたなにかに逆らいたい、悪いことしたいという悪性を抱えている。

余談ではあるが刑法学の分野に於いては、刑罰の意味として2つの立場がありその1つに主観主義というものがある。主観主義とは、犯罪とは人間の内にもともと潜んでいる悪性が何らかの要因で外に漏れでたものであり、その悪性を矯正するために刑罰があるという考え方である。つまり人間がもともと悪性を持っていることは俺個人の考えではないことを強調しておく。

真っ当な人間なら己の内に潜む悪性に気づきながらもしていはいけないことを理解しているから、決められていることは守る。だからか学校には水筒に入れたお茶しか持ってきては行けないのに堂々とリプトンのミルクティーを飲みながら気だるそうに遅刻してくるクラスのヤンキーを鬱陶しく思いながらも、どこか憧れてしまう。「俺(私)もあんなふうに規律なんて気にせずに生きれたらなぁ」と理性と欲望(悪性)のジレンマを抱える。そんな僕達真人間の悪性を綺麗に消化してくれるのが午後の紅茶午後の紅茶という午後に飲めと言わんばかりの名前に逆らって午前に午後の紅茶を飲む行為。午後の紅茶を飲んだところで社会の調和は乱さない。しかし我々の決められた何かに逆らいたいという悪性は消化される。午後の紅茶という商標登録は驚くほど人間の心理をうまくついている。だからこそ午前に飲む午後の紅茶は格別にうまい。仕事終わりのビール?朝のコーヒー?至ってナンセンス。時代は午前に飲む午後の紅茶

機会があれば是非午前に午後の紅茶を意識して飲んでみてくれ。格別に美味いはずだ。

 

それじゃあ。

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