忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

loudly signal

 

    電車に揺られていた。今日の仕事は特に忙しかったなぁ…と物思いに耽っているとなんだか眠気が襲ってきた。

    このままでは寝過ごしてしまいそうだ。駄目だ、と退屈しのぎにイヤホンを取り出し耳にはめる。

    携帯機器を起動させると、僕による僕のためのプレイリストから、それはそれは素敵な曲が流れ出す。

 

    しかし悲しいことに僕が「いい」と感じる曲を同じように「いい」と思う人はどうやら少ないようで、つまり僕は音楽趣味に於いてマイノリティなのだ。

 

    人と繋がっている安心感を確保するための手段が「シェア&いいね!」のこのご時世、自分の趣味を他人と分かち合い楽しむことが出来ないのはなんだかもの寂しくある。

 

    いいね!をもらうどころか、シェアする相手すらいない。社会が悪い。

 

    大体「シェア&いいね!」が人との繋がりを確認するツールとして当たり前にはびこっているのはどうだろうか。

 

    人はやはり目と目を合わせて、空気を震わせて相手の鼓膜に伝える。そんな物理的コミュニケーションが最もだと思うのだ。

    いや、もっと言うと心。心と心でコミュニケーションをとるべきだ。

 

    溢れだしたら止まらない社会への憤慨が、横のおじさんの怪訝そうな顔で収まった。

 

    またやってしまった。

 

    いつからか、普通のボリュームに満足できず、大きな音で聴くようになっていた僕は、一迷惑電車ユーザーであった。

    徐々に落ち着いてくる思考を表すかのように僕は少しずつボリュームを下げていった。

 

    思えばどうしてこんな大きな音で聴くようになったのだろう。

 

ーーーーー

 

    電車に揺られていた。いつものように私はイヤホンをはめて、音楽を聴く。

 

    私が好きな音楽を好きだと言ってくれる人は少なく、みんなが流行りの音楽の話で楽しそうに話すのをいつも羨ましく思っていた。

 

    自分の好きなものを好きだと言ってくれる人は好きだ。なんだか私自身までが「好き」に含められている気がするからだ。

 

    こんな少し変わった私の趣味を好きだと言ってくれる人に出会えるだろうか?

 

    いや、きっといないだろう。

 

    自分の願望を自らで否定する構図がなんだか可笑しくて、少し笑うとなんだか寂しくなった。

 

    今日はもう音楽を聴くのはよそう。たまには電車の揺れる音を聴くのもいいものだ。

 

    なんて考えながらイヤホンをとると、横から小さく音が聴こえる。

    よく耳を済ますと、それがわかった。私の好きな曲だ。

    バッと横を向き、目の前に垂れ下がるイヤホンのコードを辿って目線を上にやると、その人物の顔が明らかになり目が合った。

 

ーーーーー

 

    おじさんの元を離れ、またしても電車に揺られていると、次の駅でそれはそれは綺麗な女の子が乗車してきた。

 

    こんな子と仲良くなるようなことは向こう数年はないんだろうなぁ。期待するだけ後が辛い。こんな綺麗な子を見れただけでも良しとしよう。

 

    そんなことを考えていた刹那。

 

    俯いていたその子は僕のポケットの中の端末から耳へと繋がるイヤホンのコードを辿るように顔を上げ、そして目が合った。

 

    目が離せない。彼女もまた僕をずっと見ている。沈黙に耐えきれず、イヤホンを外すと彼女が声をかけてきた。

 

    「その曲…」

 

    「ああ、やっぱり。音漏れしてましたよね。ごめんなさい。少しボリューム下げますね。」

 

    「いや、それもだけど、そうじゃなくて。その曲…」

 

    「ああ、この曲。変わってるでしょ。でも、僕好きなんです。」

 

    「私も…。私も、その曲好き!」

 

    なんて日だ!まさかこんなにタイプな女の子と趣味が合うとは!

     そうか、わかった!僕がどうして大きな音で音楽を聴くのか。

 

    僕はアピールしていたんだ!僕はここにいるよ、こんな音楽が好きだよ、分かち合える人がいないよ、寂しいよ、って。

 

    僕のアピールを彼女が拾った。運命的な出会いだ。さあ、まずは次の言葉だ。僕が降りる駅まで後少し。なんの話をしよう、一秒たりとも時間は無駄にできない。

 

 

    トン、と肩を叩かれた。

 

    イヤホンを外す。

 

    「音、漏れてますよ。」

 

    「ごめんなさい。」

 

    さっきから隣で怪訝そうな表情をしていたおじさんだった。

 

    見渡せば彼女はいない。

 

    夢だったのだろうか。はたまた僕の妄想?

どちらでもいい。僕が降りる駅まであと三駅。おじさんの元を離れ、一度下げたボリュームをまた大きくする。

 

    (僕はここにいるよ…。)

 

 

 

 

 

 

カメラが持てない

    古きは都が置かれ繁栄した京都。今日では古都とも呼ばれ、未だに日本を代表する都道府県の1つである。

    華やかな日本文化を多く残していることから、シーズン問わず外国人観光客に溢れ、京の人々は自らが住まう土地を誇らしく思いながらも、交通を妨げる彼らに中指を立てたい気持ちを隠しきれない次第。

 

    かくいう俺も京都に住まう身であり、日本的な景観の中をうじゃうじゃといる外国人観光客に囲まれながら歩いている。なるほどこれが異文化交流か、といった具合にグローバル化をこの身で感じている。

 

    しかし良く目を凝らして歩いていると外国人観光客の中に一眼レフを抱えた日本人を見かけることも。

    彼らは絶え間なく続く時間の中から最も美しい瞬間を切り取るために、常に目をギラギラとさせている。

    そんな彼らが生み出す作品を見て感銘を受けた俺がカメラを始めたいと思うのと同時に、マイノリティであることに愉悦を感じるサブカルクソ女、クソ男もろくにスペックを活かしきれないカメラを手に取る。

 

    彼らは多くから理解を得られないことがすなわち自分のセンスが並外れた次元にあるのだと信じこんでおり、つまり並外れた勘違いをしている。

    そのせいか、見たことのないような服を身にまとい、聴いたこともねえような音楽を聴き、新たなジャンルを創作している。彼らは常にクリエイティブなのだ。

 

    そんな彼らは今日も意気揚々とカメラを手に取り、ありふれた日常の中から特別な瞬間を切り取るわけでもなく、ありふれた日常のまま切り取りクソみたいなポエムと共にSNSへ投稿する。

 

    自分がカメラを手に取った時のことを想定してみよう。

 

    「とりあえず被写体にピント合わせてあとはぼかしとけばいいっしょ。」

    「あえて斜めから撮ればおしゃれっしょ。」

 

    こんな風に単調な考えで、構図や光量なんてクソくらえな連中にカメラ通ぶりながら、とやかく言われると思うとそれだけで腹が立つ。

 

    「いや、いいんだけど、なんかこう動きが表現仕切れてないんだよね。世界が止まってしまっているというかさ。笑」

 

    うるせえそれが写真だ、動き表現したいなら動画でも回してYouTuberにでもなってろ!そしたら企画が弱いしそもそもコンセプトないからそりゃ伸びないよって言ってやるから!覚えとけよ!

 

    逆に求めてもない的外れなアドバイスしてきた時のことを想定して、人知れずカメラの知識を蓄え、彼らが写真論を振りかざしてきた瞬間、知識量を武器にマウントポジションをとってボコボコにしてやっても、彼らはきっと「なに熱くなってんの(笑)」と、まるで冷静な自分が大人ですよと言わんばかりに身を躱す。

 

    「審判〜、あれは階級が違う人っすよ〜w」

 

    なんて風に異議を申し立てる。結局のところ、こういう連中がのさばってる限り俺はカメラを持てないままなのだろう。

 

    一眼レフっていうネックレスのブームが去ったらカメラ買うことにしようかな。いつ去るかな、このブーム。

サークルに入るのは難しい

 

    大学生活、もといキャンパスライフ(笑)においてサークルというのは重要なファクターだ。

    大学はとにかく規模がでかい。肥大したコミュニティ内では円滑なコミュニケーションが計れないため、大学生という生き物はサークルというものを形成し、同じ趣味嗜好を持った同志を募りコミュニティを縮小化することで強固な人間関係を築く。

    友達の友達だとか、大講義でグループディスカッションを何度かしたことある人なんてのは所詮顔見知り程度にしかならない。つまり、サークルに入らない以上あまりにも大きすぎる大学というコミュニティにおいて、深い人間関係を築ける人なんてのはそういない。

 

    しかし、サークルに入る、これが至って難しい。

 

    「何が難しいんだよ」

 

    と、心の中で笑ったお前、考え直してみろ。サークルに入るということは、既に完成されたコミュニティに介入するということだ。

    新入生歓迎会でスライドショーで、今日初めて会ったようなやつらの以前の活動の写真や動画を見せられたところで、そいつらとしてはサークルの楽しさを伝えているつもりでも俺たち部外者サイドとしてはお前らが昔を懐かしんで楽しんでるようにしか見えない。

 

    この疎外感はどうしてくれんだ。身内ノリというものは部外者にとって本当につらい。お前らの面白いが全てに通ずると思うなよ。挙げ句の果てには、

 

    「な、面白そうだろ?」

 

    なんて聞いてくる解せぬ輩がいる。お前のその質問には上回生の圧力が潜んでいることをゆめゆめ忘れるなよ。お前みたいなやつがパワハラという言葉を生んだんだ。大学に入って右も左もわからない状態なんだからもっと気を使え。

 

    少しでも楽しくなさそうな素振りを見せるとあいつらは俺らに「ノリが悪いやつ」とレッテルを張り、俺らは自身のコミュニケーション能力に不信感を抱き、さらなるコミュニケーション障害、いわゆるコミュ障に陥る。こんな不条理が許されてたまるか。

 

    そもそも何故やつらは身内ノリを身内に留めず公に発信するのだろうか。Twitterを見るとサークルの飲み会の様子があげられていて、それを見た俺らサークル難民は気分を害され、別のSNSへと逃げる。

    がしかし、逃げられないぜ、とでも言わんばかりにそこにも似たような投稿がある。俺らの安寧の場所はどこなんだ。俺のTwitter見てみろよ。「眠い」「バイトだるい」の二言で完結してるぞ、見習え。

 

    今頃きっとサークルに入って充実してるやつらは、

 

    「サークルはいってないやつってなんのために大学きてんだよ笑」

 

    なんて笑ってんだろうな。うるせえ、勉強しにきてるんだよ。悔しいな、涙が出る。とにかくこうやって改めて文字に起こすことでサークルに入る難しさを実感してもらえただろうか?読んでる君たちが同じサークル難民 だったらいいな。