忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

慣れは怖いよねって話、それと感謝

 

    一応初めてこの記事でこのブログを読む人もいるかもしれないので説明すると、俺は昨年春に事故に遭って右足に少しハンディキャップが残った。その関係で中々バイトが決まらず、とは言えやはり金は必要になるので試行錯誤した結果派遣をすることにした。派遣なら毎回違う派遣先に行けばたったの1回きりなら例え足にハンディキャップ持った人間だろうが仕方なく働かせてくれるし、給与は即金で手に入るのでなにかと都合がいい。

 

    そういう訳で最近派遣をちょこちょこやりながら過ごしている。初めのバイトは食品工場だった。主に米類を扱っていた。たしかに仕事は今の俺には少し体力的にキツいところもあったが、社員の方達が優しく俺のために座って作業できるように椅子を用意してくれた。さらに急がなくてもいいよ、なんて言ってくれる。なんていい人達なんだと思った。結局そこで2回働かせてもらった。向こうは俺のこと理解してくれてそれでも快く受け入れてくれるしほんとはそこで何回かお世話になりたかったんだけど、数日後にはそこが派遣の募集から消えていたので残念ながら行けなくなった。

 

    ということで、新しい派遣先に行ってきた。それが今日。ほんとは作業用に靴を持って行かなければならないが、右足が今も酷く腫れていて靴が履けないのでクロックスを持って行った。まあ事情を話せば理解してくれるだろうと少し甘い考えだった。そして職場に着き係の人に事情を話してクロックスを認めてくれないかと言うと、めちゃくちゃ怒られた。そんなんで仕事が出来るわけない、仕事をなめてんのか、つって。

    一応登録している派遣会社の募集で見たのは梱包の仕事だったはずなのに、実際行ってみれば物流の仕事で。あと持ち物に帽子なんて書かれてないのに帽子がいるらしくそれを忘れたことも怒られた。派遣先の募集の情報を見てハンディキャップを持った自分でも出来るかと判断して来てみれば書かれている情報と違った旨は伝えたが、係のおじさんはそんなのお構い無しに怒ってた。足引きずって歩くやつが物流の仕事に来るなんて舐めてるとしか思えない、物流どころかどんな仕事も無理だって耐えず俺に悪態をつく。

 

    病院にいた頃は当然患者なので看護師さんを筆頭にお手伝いさんとかいろんな人が優しくしてくれた。退院後も仲のいい友人達が本当に無事でよかったなんて言ってくれて優しくしてくれた。思えばここ一年半ほどずっと人に優しくしてもらえて、それが続くうちにそれが自分の中で当たり前になっていた。自分はハンディキャップを背負った人間だからみんなが優しくしてくれるもんなんだと思っていた。世間的にはそれは確かにマナーと化しているところがあるんだろう。電車で老人に席を譲るように。

    ただ、そういうシチュエーションで席を譲らない人間が少なからずいるように、今回俺が出会ったこの派遣先のおじさんのような人もいるんだろう。そういう人たちやおじさんのことを何も悪く言うつもりはない。優しくされることに慣れてそれを当たり前に感じていた俺の方にも非はある。

 

    何が言いたいかって、この一年半優しくしてもらうことに慣れてそれを当然だと思っていた俺は、みんなの配慮や優しさに対して少なからず感謝の意が欠けていたように思う。もちろん感謝はしている。ただみんなの振る舞いに対して俺の感謝の気持ちが釣り合ってなかったのかもしれない。そういう訳で、はてなブログから読んでいてくれている俺のことをあまり知らない人には少しプライベートな話になって申し訳ないが、友達それに家族、とにかくみんなほんとうにありがとう。これから少しずつもらった分を俺も返せていけたらなと思う。

 

    最近は本当にやさぐれていて、俺の人生は不幸だとか心にもないことを時々口走ってしまっている。しかしよく考えたら俺ほど幸せな人間はいない。こんなにいい人達に巡り会えたんだから。地球上にいる莫大な人間の中から天文学的な確率でみんなと知り合えたんだから、事故でハンディキャップを背負ったことを差し引いてもまだまだお釣りが来るくらい俺は幸せだ。でも多分、これからも時々悲観的になって思ってもないことを零すと思う。でもそれはやさぐれているだけだから、そんなときには、またなんか言ってるよあいつくらいの感覚で放っておいてやれ。そしてこれからも長い人生俺と関わらってくれたら幸いだ。みんな大好きだよ。ほんと、ありがとう。

生きてるだけで失礼

 

    もう何度もこのブログで俺が自己肯定感が低いって話を繰り返してて本当に申し訳ないんですけど、また今回もそういう話なんです。いやお前が自己肯定感低いのはわかったからもういいよって声が今これを書いてる画面の向こう側から聞こえてくる気がするんですけど、それでも書きます。なんでこの期に及んでそれでも書くかってね、深刻さをわかってもらいんですよ俺は。

    読んでくれてる人は俺が自己肯定感低いことにもう理解してくれてると思う。ただ重度なんですよ。次は重度さを理解して欲しい。そうしてやっと俺がこのブログで自己肯定感低い話をメインで書くことがなくなる。俺ももうこんなこと書くのに飽き飽きしてるし見てくれているみんなも飽き飽きしてるに違いない。お互いのためにもう同じような内容の記事を繰り返さないでおこう。助け合いだこれは。協力しよう。

 

    俺の自己肯定感の低さがどれほど深刻かって、例えどんなに仲のいい友人でもふとした時に「もしかしたら俺のことほんとは嫌いかもしれない」と思ってしまうくらい。それで突然遠慮がちになったり謙虚になったりして、そんな風にされた相手としては突然どうしたんだよおいと思うわけですよきっと。接し辛くなるに違いない。

 

    仮に俺がもう一人いたとしよう。そのもう一人の俺と俺が二人でいるときに突然そんな風に気遣いしてきたら、俺はきっと「気遣いしてくるってことはやっぱり本当はまだ俺に気を許してないんだな、仲良いと思ってたのは俺だけなんだ」なんて思って凹むに違いない。つまり自己肯定感低すぎて突然気遣ったりするのは相手にそういう気持ちにさせる可能性ってことがあるってこと。

    ハッキリ言ってこんなのはもう失礼だと思うんですよ俺は。相手が親しく思ってくれていて自分も相手のことを親しく思っているならちゃんと意思表示するってのが礼儀でしょ。俺の自己肯定感が低いことを原因に親しく思っている気持ちを表現しないなんて礼儀に反する。そういう意味で失礼。

 

    こういう話をすると、そこまでわかってるならあとは自分がそうするだけじゃんなんて言われたりする。本当にその通りなんだけど、それが出来たら俺は苦労してないわけですよ。相談に乗ってもらってそれに対して正論を返されたとき、いやそれはわかってるんだけどさーそうじゃなくてさーって思ったことないですか?求めてるのは同調。そうだよね、辛いよねって寄り添って欲しいだけ。どうすればいいかなんて本当は自分でもわかってる。ただそれが出来ないから悩みを打ち明けるって形で同情してほしいだけ。なのに現実は正論という右ストレートで一発KO。だから正論は嫌われるのかもしれない。生き方なんて簡単に変えれないんですよ。人は変わらない。それが真理。

 

    ただ俺が自己肯定感低いことを理由に気遣いされたら親しいと思ってるのは自分だけで相手はそうじゃないかもしれないと落ち込ませてしまう可能性があるって話をしたのは、それがもう一人の俺と俺だったらって話。自己肯定感低い俺だからそう感じるだろうって想像の範囲でしかない。もしかしたら普通なら人はそんなこと思わないかもしれない。それを勝手に俺がそう思うだろうって決めつけて話を進めてるだけ。

    さっきの俺の話を整理するとそう思うのは自己肯定感が低いから。みんなもそうだろうって決めつけてるのは言い換えればみんなも自己肯定感が低いと言ってるようなもの。これ、みんなに対しての敬意がないようなもの。礼儀ってのは敬意を表す作法だから、つまりまたしても失礼。何をやっても裏目。生きてるだけで失礼なようなもの。

 

    ほら、また気付けば自己肯定感が低いこと言ってる。そんでまたこれが裏目に出て新しい失礼を犯すんだろうな俺。どうすればいいんだよ。助けてくれ。

双子じゃなくて良かった

 

    動画で聞く自分の声に、キモッッッッって思った経験みんなあるよね?俺はある。数え切れない程ある。もう動画で自分の声聞く度毎回思ってる。人間なんだし学習能力くらい備わってそうなもんなのに、毎回初めて自分の声を客観的に聞きましたばりの新鮮な感じでリアクションしてる。あれなんでなんだろ。

    結局人間は客観的に見た自分に嫌悪感を抱くもんなんだろう。なんの確信もないけどなんかそんな気がしてる。客観的に見た自分を好きでいられる人間に出会ったことがないからだろうか。自分の経験の中にないことをそれをイコール普通だと認識しているのかもしれない。視野が狭いな。嫌だな視野狭いの。

 

    俺、あんまり視野が狭い人が好きじゃなくて。つーか嫌い。今の俺がまさにそうなんだけど、自分の経験則を基準に勝手に「普通」を定義して、それを信じて疑わない人。話しようとしても話にならないんだよ。何言っても、俺が普通でお前が普通じゃないから聞かないみたいな態度とるの。やってらんない。マジで。やってらんない。

    だから俺は普段からなるべく視野が狭くならないことを心がけてる。じゃあ視野が狭くならないようにいるためにはどうすればいいと思う?これは俺個人の意見なんだけど、客観的視点を持つことだと思う。例えばあなたと反対の意見を持つ人がいたとする。こういう時、俺は視野が広い人なら時と場合によっては自分の意見も柔軟に変えれて、賛同できない時も否定こそせず相手の意見を理解しようとする人だと思う。相手がそういう意見を持つまでに至った経緯とか背景をいろいろ想像して、できる限り相手の意見も、それが例え自分が賛同できないものでも尊重する。そういう人に俺はなりたい。

 

    そういうわけでなるべく客観的視点を働かせて日々を生きている。自分のことも客観的に見ながら。で、ここで最初言ってたことが関係してくるんだけど。客観的に見た自分には嫌悪感を抱くんだよ。この際みんながみんなそうじゃないとかはもうどうでもいい。でも俺にはこれが当てはまる。そう、つまり自分が嫌いな視野が狭い人間にならないように生きてたら自分に嫌悪感抱くの。なにこれバグ?どうしろっていうの?

    俺の自己肯定感があまりにも低かったりするのは自分に嫌悪感を抱きながら生きているからだろうか。自分を客観視して、それで嫌悪感が生まれて自己肯定感が低くなって、ウザイくらいに謙虚にいようとする自分を客観的に見てまた嫌悪感が生まれる。負の連鎖。連鎖って聞くとぷよぷよ思い浮かべるね。連鎖なんて言うくらいだからいつか全消しなんてテロップが軽快なサウンドと共に出てくれてもいいのに。消えるどころか募っていくの。それにどこまで積んでもゲームオーバーにならないの。何このクソゲー。終わるには根元から電源切るしかない。それってつまりスーサイド。リセットボタンなんてない。

 

    もし双子に生まれてたら、と想像した。ただでさえ自分の内面を客観視して吐きそうなほど嫌悪感積み上げてるのに、その上自分の生き写しみたいなやつを物理的に客観視するの。そんで自分の外見の要素にも嫌悪感生まれる。俺、自分の笑った時の口元が嫌いで。歯並びが悪いのが特に目立つんだよ。写真とかでたまに見る度にちょっと嫌な気持ちになるんだけど、双子だったらもっと高頻度にそうなってたってこと?想像するだけでキツい。吐きそう。どんだけ嫌悪感積めばいいんだよ。それこそ根元から電源落としてたかもしれない。良かった。双子じゃなくて。

 

※別に双子を悪く言ってるわけではなくて、もし俺がそうだったらってだけの話です。気を悪くされた方がいましたらすみません。

俺も、お前も、みーんなアイドル

 

    例えばなんだけど、あなたが誰かと何かについて話し合いまたは意見交換してるとするじゃないですか。その時に、近くで聞いてただけのやつが「えーそれは違くなーい?俺はこう思うなあ。」なんて入ってきたらウザイじゃないですか。どこから湧いた?てめえどこ中だコラ?って思うじゃないですか?人間誰かに役割以上の働きをされるとムカつくんですよ。よーいドンで虫酸が走り出すんですよ。正式に近くで聞いてたんですけどそれに関して違う意見があるので言ってもいいですか、いいですよのやり取りを踏まえて入ってくるなら俺は何とも言いませんよ。でも君そんな前提なしにズカズカ話に入ってきたじゃんか。ならば俺は言いますよ。失せろカスって。

 

    思うんだけど最近役割以上の働きを行うことが世の中で通例化してきるんだよ。それはつまりイライラする世の中って訳だ。ただでさえストレス社会なんて言われる昨今、これ以上余計なイライラを与えないでほしい。なあ。俺はお前らに言ってるぞ。アイドル気取りの声優共。

    声優って言葉の意味知ってる?声の役割を任せられた俳優・女優、略して声優。キャラクターの裏で声を務める人が表舞台に何食わぬ顔で立ってるってねえそれどういう了解?「えっ!?声優って声だけの役割なんですか!?」なんて言ってるやつらは即刻座学からやり直せ。声優の定義から学び直せ。ボイトレとか実技なんてまだまだてめえらには早すぎる。

    アイドル気取りの声優は役割以上の働きをしてる代表例だけど、他にもアイドル化してる職業はたくさんある。例えばYouTuberとか。イベントでリスナーがペンライト降ってキャーキャー言ってるんだぜ?こんなのアイドル以外の何物でもないだろ。て言うか今の日本のなんでもかんでもアイドル化する波がエグい。そしてイライラが募って仕方ない。

 

    なんてことを前までは思ってたんだけど、実は最近考えを改めたんだ。突然ですが皆さんアイドルっていう和製英語の語源になった英単語「idol」の和訳をご存知ですか?これ実は「象徴」っていう意味なんですよ。そんで皆が日常生活で「アイドル」って言葉を使う時それは何を指してますか?嵐とか乃木坂46とかのことですよね。じゃあ嵐または乃木坂46からどんな印象を受ける?そうだよね、「可愛い」「かっこいい」だよね。つまりアイドルって言葉は「可愛い」「かっこいい」の象徴なんですよ。

    じゃあアイドル気取りの声優とかYouTuberを見てみましょう。どうですか?可愛くないですか?かっこよくないですか?じゃあここで「象徴」という言葉の定義を見てみよう。

しょうちょう【象徴】 《名・ス他》

主に抽象的なものを表すのに役立つ、それと関係が深いまたはそれを連想させやすい、具体的なもの。

    「可愛い」「かっこいい」って言葉は抽象的だよな。だって人によって基準がそれぞれなんだから。そりゃアイドルで溢れかえるわけだ。人の数だけ「可愛い」「かっこいい」があるんだから。俺なんて1人で何個も「可愛い」の基準を持ってますよ。マイオンリー可愛いを。

    君から見た俺はこの世で最も醜い見た目の生物かもしれないけど、他の誰かから見た俺はこの世で最もかっこいい男性に映るかもしれない。まあ、仮にそんな人がいたとしてもそれ以上に俺を醜く思う人の方が多いだろうし、その割合の兼ね合いで俺は世間一般的に醜いということになるんだけど。でも俺のことがかっこよく見える人ならその人だけの世界でいえば俺は紛れもなくかっこいいわけで。今これを読んでる君も人からブサイクだと言われようが、自分でブサイクだと思ってようが、世界のどこかにいる誰かにとってはあなたは最も美しく見えるわけで。その時君は美しいの象徴、つまりはアイドルになる。だとしたらアイドル化が進んでアイドルで溢れかえる今の日本の社会にも頷ける。

 

    つまりさ、こういうことなんだよ。

 

    俺も、お前も、みーんなアイドル。

令和はどんな音楽が流行るんですかね

 

    俺には音楽くらいしか趣味がないからまた今回も音楽の話なんだけど。音楽ってなにも文字通り音を楽しむものではないんだ。いや正確には音だけを楽しむものではないということで、そこにはちゃんと詩というメッセージがあってそれらを吟味する楽しみもある。たしかにDJとかクラシックは音だけではあるんだけど、今回に関しては大衆的な音楽、ポップスをイメージしてほしい。

 

    俺は最近父親の知り合いがやってるスナックで週末だけたまに手伝いをしてるんだけど、そのスナックってのは所謂場末で。来るお客さんはだいたいマスターの知り合いだったり地元のおじちゃんおばちゃん。スナックってのはお酒飲みながら話したりカラオケする所なんだけど、夜も深くなってきて次第に話すことも尽きてくるとカラオケが始まる。

   

    この間マスターの先輩にあたるおじさんが来てたんだけど、曲をカラオケに転送して歌い始めるまでのイントロの間ずっと俺に曲の説明して最後にいい曲だから聴いててなって言って歌い始める。

    それで何曲か聴いたけど俺にはあんまり良さが伝わらなかったから聞いてみたんだ。いい曲の基準ってなんですかって。そしたらおじさんはちょうど今歌い終わった曲を例に挙げてこの曲の歌詞にはこういう心情でメッセージが込められててそれが良いんだって言った。

    たしかに俺は音楽は音だけを楽しむだけのものではなくて歌詞という形で表されるその曲に込められたメッセージも楽しみもあるなんてことを言ったが、それでもやっぱり俺はボーカルの声やらメロディを最も音楽に於いて重視してる面があるし、早い話歌詞を重視して音楽を聴く経験値が浅かった。

 

    なので俺は家に帰ってこれまで聴いた音楽これまで聴かなかった音楽問わず歌詞に重きを置いて聴いてみたんだ。そうするとこれまで聴いていた音楽をさらに好きになれたり、これまで聴かなかった(好まなかった)音楽に好きな一面を見れたりと大きな発見ができた。でもそのおじちゃんが歌ってた曲は家に帰って再度歌詞に注目して聴いてみてもあんまり好きにはなれなかった。

 

    音楽も1つの芸術なわけで、絵画とかの他の芸術のように時代の色を強く受ける。絵画に近代絵画とか印象派とかそういう言葉があるように。もちろん演奏法とかにも社会の色は強くあるんだけど、俺は歌謡曲やポップスの歌詞にも強く社会の影響が出ていると感じた。その証拠にそのおじさんがいい曲と言っていた演歌や歌謡曲の歌詞の世界観には昭和がみっちりと詰め込まれていて、平成生まれの俺にはそれがあまり共感したり理解できるものではなかった。俗に言うジェネレーションギャップ。

    平成の曲って、俺のイメージだけど歌詞に心の弱さが出てたり自らを鼓舞したりするようなものが多い。時代的に今はみんなが病んでるから、煌びやかなステージの上で歌ってる私も本当はこんな風に情けない心だよって安心させてくれたり、寄り添ってくれるようなそんな感じ。対して昭和の曲は、男が外で稼いでくるから女は家のことしてろ!男のやることに女が口を出すな!男なら男らしくあれ!みたいな男尊女卑じゃないけど、鼓舞と言うよりは説教されてるようなそんな曲が多くて。それがどうしても平成生まれの軟派な俺には受けつけなくて。理解しようと歩み寄ってはみたんだけど。無理なもんは無理だ。こんな時、昭和の曲なら、男なら無理なんて言うな!不可能なんてことはない!とか言うんだろうな。死ねクソが。ジェネレーションギャップなんてお前らが押しつけがましいから生まれてることにいい加減気付け。

 

    翌週もそのおじさんは来た。そして先週歌った曲を全く同じセットリストで歌って帰りやがった。デカデカと昭和と書かれた木材でタコ殴りにされている気分だった。客と店の人間という立場から、俺は抵抗も出来ず殴られ続けるしかなかった。あーあ、もう来ないで欲しいな。

 

    平成は心の弱さを吐露して、安心をくれたり寄り添ってくれる歌詞の曲が多い時代だったけど、令和はどんな時代になってどんな曲が生まれるんだろうか。時代は繰り返すなんて言うけど、昭和の再来みたいな曲が流行ったら嫌だな。そうなった時は俺の唯一と言っていい趣味がなくなってしまう。希望を言えば今よりずっと情けなくてもいいんだよそのままの君が好きだよって安らぎをくれるメッセージが強くなった曲が流行って欲しいです。NO MORE 昭和。みんなは新しい時代に適応できる柔軟な思考と心を持とうね。それでは。

「彼女欲しい」って言うけどさあ

 

    言葉が好きだからか、どうしても自分の中に譲れないこだわりみたいなものがかねてからあって。例えば、音楽は「聞く」じゃなくて「聴く」と表記しなければならない、みたいな。まあ、実際は「聞く」は自然に音が耳に入ってくることで、「聴く」は意識的に耳を傾けることを指すから、これは俺のこだわりと言うよりは正しい日本語の使い方になるんだけど。でも、別に「音楽聞くの好きです」で伝わるじゃん?特に略語とか造語で溢れるこの時代なんだし。でもそれを踏まえて正しい日本語に執着するということで「こだわり」なんだ。みんなも気になる言葉ありませんか?

 

    正直、「音楽を聞くのが好きです」って間違った表記で文字を書かれることは、気にはなるけどそんなに気にするほどのことでもないと言うか、無性に食べたいものがあってそれを食べた時に「あ、そうでもなかったな」って食べてから気付くような、そんな些細な違和感なんだ。だから別に俺は音楽を「聞く」って表記する人に、正しいのは「聴く」だぞなんて訂正もしない。

 

    でもどうしても気になってしまう言葉の使い方が1つあって。それは、

 

    「彼女(彼氏)欲しい」

 

    この一言。は???欲しいってなんだ???彼女(彼氏)はものなんか???

【欲しい】

《形》1.自分のものにしたい。得たい。

    いや、本当は彼女(彼氏)っていう「存在」が欲しいって意味での言い回しだってことは重々理解してるよ俺は。でもどうしても「欲しい」って言葉の対象はものっていうところから、 彼女(彼氏)もよっぽどのことがない限り人であるはずだし、それをもの的なニュアンスで扱われると違和感大膨張。虫酸が全力疾走。大会記録樹立。

    でも他に良い言い回しがないし、あまりにも言われすぎてる言葉だから、無意識にそういう言葉を真似て使ってしまう自分が一番嫌い。そういう経験はよくあって、嫌いな言葉なのに他に良い言い回しがなかったり、みんなに言われすぎてるとどうしても嫌いなはずの言葉を無意識だろうが意識的だろうが使ってしまう。悔しい。

 

    そういうわけで、常々嫌いな言葉とかフレーズの他に良い言い回しがないかなって考えてたりする。今日ブログを書いたのは、嫌いな言葉のうちの1つに他に良い言い回しを思いついたからです。その嫌いな言葉ってのは、それこそ「彼女(彼氏)欲しい」の一言なんですけど。これからは「彼女(彼氏)欲しい」じゃなくて、

 

    「彼女(彼氏)になりたい」

 

    って言うことにしませんか??ほんと、お願いします。「彼女(彼氏)欲しい」って言い回し聞く度に俺の虫酸が走るので。もう俺の虫酸走りすぎて足も上がらないのに、それでも走ろうとするんですよ。地面に這いつくばりながら、それでも立ち上がろうとするの、少年漫画ばりに。俺の虫酸を休ませてあげてください。そういうわけでこの代替フレーズの使用を前向きに検討していただけると助かります。

    あと「普通に可愛いw」って言うのもやめてくださいね。普通じゃないから可愛いんで。矛盾してるんで。ほんと。辞書買え。読め。

思い出のタンス

 

    好きなモデルとかアイドルが巻頭グラビアに掲載されてる号の雑誌だったり、写真集とかが収まるべき所に収まらず、衣類、主に靴下とかをまとめてる棚の空いたスペースにとりあえず避難させている。しかし、あるべきところにないというのはやっぱり違和感だし、前々から片付けねばなあとは思いながらも面倒くさくて見て見ぬふりをしていたが、そろそろそんなこともしていられないので、重い腰を上げて棚の整理をすることにした。

    今現在疎開している雑誌類が要するスペース、そしてこれから増えていくだろう分の余分なスペースを確保しなければならない。そうするためにとにかく物を一度全部出す。いるものいらないものに仕分けして、いるものでも関係ないものは棚じゃなくて他の収納スペースにぶち込む。棚は趣味に関するもの(漫画、雑誌、写真集、CDとか)だけを置く場所だから。するとまあいらないものとか記憶にないものが出てくること。

    

    まず最初に出てきたのは昔誕生日にもらったメッセージが書かれたお菓子の箱。貰ったことはもちろん覚えてたけど、箱に書かれたメッセージとかを見てるとその時の会話とか状況とかそういうのまで鮮明に思い出す。「仕方ないからあげるわ」なんて笑いながら冗談交じりに言う割に、ちゃんと俺の誕生日を覚えてくれてたことに嬉しく思った時の心温まるあの感じとかまで蘇る。

    その他にも子供の頃サービスエリアで親に死ぬほどねだって買ってもらった金の龍が巻きついた剣のキーホルダーとか、ノリで買ったカードゲームのパックのレアカードとかも出てくる。そしてそれら全てに付随する思い出とか記憶が溢れかえってくる。

 

    昔の出来事が思い出せないとき、よく「忘れた」なんて言葉で表現するけれど、きっかけさえあれば事細かに全て思い出すことができるみたいだ。もしかすると、人間は遠い昔のことを忘れたわけじゃなくて今俺がタンスの中に片付けたことをどこに片付けたかわからなくなったようにに、人間の記憶の構造がちょうどタンスのようになっているとするならば、閉まってしまった思い出とか記憶をどこに閉まったかわからなくなっただけで別に忘れてたしまったわけではないのかもしれない。

 

    なんてことを金の龍が巻きついた剣のキーホルダーを見ながら考えていると、知らぬ間に時間が結構経っていて、片付けは結局明日に引き伸ばしにしなければならなそうだ。

 

    明日には片付け終わるかなあ。そもそも明日にまたやろうと思えるかなあ。

 

    頑張れよ、明日の俺。