忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

カメラが持てない

    古きは都が置かれ繁栄した京都。今日では古都とも呼ばれ、未だに日本を代表する都道府県の1つである。

    華やかな日本文化を多く残していることから、シーズン問わず外国人観光客に溢れ、京の人々は自らが住まう土地を誇らしく思いながらも、交通を妨げる彼らに中指を立てたい気持ちを隠しきれない次第。

 

    かくいう俺も京都に住まう身であり、日本的な景観の中をうじゃうじゃといる外国人観光客に囲まれながら歩いている。なるほどこれが異文化交流か、といった具合にグローバル化をこの身で感じている。

 

    しかし良く目を凝らして歩いていると外国人観光客の中に一眼レフを抱えた日本人を見かけることも。

    彼らは絶え間なく続く時間の中から最も美しい瞬間を切り取るために、常に目をギラギラとさせている。

    そんな彼らが生み出す作品を見て感銘を受けた俺がカメラを始めたいと思うのと同時に、マイノリティであることに愉悦を感じるサブカルクソ女、クソ男もろくにスペックを活かしきれないカメラを手に取る。

 

    彼らは多くから理解を得られないことがすなわち自分のセンスが並外れた次元にあるのだと信じこんでおり、つまり並外れた勘違いをしている。

    そのせいか、見たことのないような服を身にまとい、聴いたこともねえような音楽を聴き、新たなジャンルを創作している。彼らは常にクリエイティブなのだ。

 

    そんな彼らは今日も意気揚々とカメラを手に取り、ありふれた日常の中から特別な瞬間を切り取るわけでもなく、ありふれた日常のまま切り取りクソみたいなポエムと共にSNSへ投稿する。

 

    自分がカメラを手に取った時のことを想定してみよう。

 

    「とりあえず被写体にピント合わせてあとはぼかしとけばいいっしょ。」

    「あえて斜めから撮ればおしゃれっしょ。」

 

    こんな風に単調な考えで、構図や光量なんてクソくらえな連中にカメラ通ぶりながら、とやかく言われると思うとそれだけで腹が立つ。

 

    「いや、いいんだけど、なんかこう動きが表現仕切れてないんだよね。世界が止まってしまっているというかさ。笑」

 

    うるせえそれが写真だ、動き表現したいなら動画でも回してYouTuberにでもなってろ!そしたら企画が弱いしそもそもコンセプトないからそりゃ伸びないよって言ってやるから!覚えとけよ!

 

    逆に求めてもない的外れなアドバイスしてきた時のことを想定して、人知れずカメラの知識を蓄え、彼らが写真論を振りかざしてきた瞬間、知識量を武器にマウントポジションをとってボコボコにしてやっても、彼らはきっと「なに熱くなってんの(笑)」と、まるで冷静な自分が大人ですよと言わんばかりに身を躱す。

 

    「審判〜、あれは階級が違う人っすよ〜w」

 

    なんて風に異議を申し立てる。結局のところ、こういう連中がのさばってる限り俺はカメラを持てないままなのだろう。

 

    一眼レフっていうネックレスのブームが去ったらカメラ買うことにしようかな。いつ去るかな、このブーム。