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無題

タイトルとか考えるのが恥ずかしい

午後の紅茶が満たしてくれるのは喉の乾きでもなく味覚でもなく心だった

 

駅の改札からホームへと降りる階段を下っていると、ちょうどホームからゴオオ、と風が頬を撫でてきた。いや、ゴオオという音を立てて風が吹いていた以上、頬を撫でられたと言うより擦られていた。京都の冬の風は貧相な体の僕には厳しく、暖かいものが飲みたくなった。階段を降りると待っていたかのように自動販売機が鎮座していて、とにかくなんでもいいから暖かいものが飲みたかった僕はなんとなく午後の紅茶を買う。

コクリ、と1口飲んでふと思った。思えばどうして今まで「午後の紅茶」という商標登録に疑問を抱かなかったのだろう。午後の紅茶は「午後」である必要があったのだろうか。確かにただ「紅茶」として売り出しただけでは消費者はそんな面白みのないもの手に取らないと思うし商標登録というのは消費者の購買意欲を誘うのに大きな役割を果たしているのだろう。ただ「リプトン」みたいに固有名詞をつければ良かったのではないだろうか。それを何故に形容詞、それも「午後の」という。別に「美味しい紅茶」とかでもいいと思うんだ。いや、確かにチープな気もするが。ただ、今でこそ「午後ティー」と略され紅茶界の一角を担うポジションに落ち着く午後の紅茶に対して、我々はそのネームのインパクトを忘れているが、考え直せばこの名前はすごい。

 

午後の紅茶だから午後に飲め。」

 

とでも言うようかの名前から漂う圧迫感。でもティーじゃん。お茶じゃん。いつ飲んだっていいじゃん。普通そう考えておかしくないだろう。しかしこの午後の紅茶という商標登録、恐ろしく人間の心理をついている。というのもこういう風に考えられるからだ。

 

我々は普段堅苦しい社会の中で全体の調和を個人の自由より優先しているばかりに、心のどこかで決められたなにかに逆らいたい、悪いことしたいという悪性を抱えている。

余談ではあるが刑法学の分野に於いては、刑罰の意味として2つの立場がありその1つに主観主義というものがある。主観主義とは、犯罪とは人間の内にもともと潜んでいる悪性が何らかの要因で外に漏れでたものであり、その悪性を矯正するために刑罰があるという考え方である。つまり人間がもともと悪性を持っていることは俺個人の考えではないことを強調しておく。

真っ当な人間なら己の内に潜む悪性に気づきながらもしていはいけないことを理解しているから、決められていることは守る。だからか学校には水筒に入れたお茶しか持ってきては行けないのに堂々とリプトンのミルクティーを飲みながら気だるそうに遅刻してくるクラスのヤンキーを鬱陶しく思いながらも、どこか憧れてしまう。「俺(私)もあんなふうに規律なんて気にせずに生きれたらなぁ」と理性と欲望(悪性)のジレンマを抱える。そんな僕達真人間の悪性を綺麗に消化してくれるのが午後の紅茶午後の紅茶という午後に飲めと言わんばかりの名前に逆らって午前に午後の紅茶を飲む行為。午後の紅茶を飲んだところで社会の調和は乱さない。しかし我々の決められた何かに逆らいたいという悪性は消化される。午後の紅茶という商標登録は驚くほど人間の心理をうまくついている。だからこそ午前に飲む午後の紅茶は格別にうまい。仕事終わりのビール?朝のコーヒー?至ってナンセンス。時代は午前に飲む午後の紅茶

機会があれば是非午前に午後の紅茶を意識して飲んでみてくれ。格別に美味いはずだ。

 

それじゃあ。

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