忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

ポエミーグルーミー

 

    自分らしさから逸脱してみたいとき、誰しもにあるじゃないですか。そう思うときって、大抵周りの誰かの振舞いがトリガーになってる。

    例えば、普段照れくさくて彼女に好きだよなんて言えないけど、友人のあいつは自分の彼女にいつも好きだよって言っていて、それで彼女も嬉しそうで。それを見て、自分も好きだよって伝えて彼女を喜ばせたいなと思う、みたいな。

 

    俺にもそういう風に自分らしさから逸脱したい時があるわけ。自分らしい文体から、逸脱したいわけ。

 

    そうです、文章の話です。

 

    俺はこれまでちょこちょこ文章書いてきて、今の文体がしっくりくるようになったんだけど、たまに、いつも通りの文体から抜け出して違う形の文体で表現したくなるときがある。

    普段、読まれることを意識して、なるべくわかりやすく簡単に書くことをモットーにしてるから、対極にあるポエミーな文体を特に渇望する自分が心のどこかにいる。

    そんな自分は、普段は心のどこかで大人しくしているが、ある時に限って暴れだす。

 

    インスタグラムを見たときだ。

 

    いつからかインスタグラムはオシャレというイメージがついていて、可愛いとオシャレで凌ぎを削り合う女の子はみんな特別な日を切り取り、更にはそこに加工まで施す。

    それをみんながやるもんだから、次はそれが標準になって、また新しいオシャレを生み出して、それも標準になって、と永遠ループを辿る。

 

    そして遂には写真だけでなく、文章にまでオシャレ化の波は及んだ。その結果がポエミーな文章。

    なんでもない日常もオシャレな私はこういう風に感じていますよ、と表現するにはポエミーな文体は適している。

 

朝、ジリリと時計がなる音と共に起きた私は、まだ少しだるい体を引きずって窓まで行くと、一つ深呼吸をしてカーテンを開ける。

すると眩しい光が私を包むと同時に、体のだるさがとれて目がだんだん覚めていく。

 

 

    朝起きてカーテン開けただけをわざわざこんなポエミーに書く。目を覚ませ。それは別にオシャレじゃない。

 

    ただ、やはりポエミーという言葉に許容されるこの表現法は自分の文体から対極にあるからこそ、手を出したくなる。

 

    そういうわけで、俺もポエミーな文章を書いてみようとするんだが、書いてる途中にこれ読まれるの恥ずかしいなと思ってしまう。

    一度そう思ってしまうと、だんだん恥ずかしく感じる気持ちは増して、遂には公開せずにそっと削除する。

    しかも普段と違う文体で書くもんだからいつもより時間かかってるし、手間もかけてるし。

    費やした労力と時間がボタン一つで無に帰すこととか、恥ずかしさに打ち勝てなかった自分のメンタリティとかが嫌になって憂鬱になる。

 

    そういうお話でした。