丁度いい無駄
笑いの本質は無駄なのではないだろうかと朝からずっと考えていた。別に、そんなのに答えはきっとないし、仮に答えがあったとしてもそれに辿り着いて得るものは何もないんだけど。ただこういう考えをするのが好きなんです、放っておいてください。
そんなことを考えてたらそれがだんだん的を得てるように思えてきた。だってよく考えたら、そうなんだよ。落語とか漫才とか笑えるだけで別に何か得してるわけじゃない。可愛くもならないし、かっこよくもならない。それでも笑えるからというだけでそういう娯楽の類が好きな人は多い。
でも、そういう人たちも今まで頑張ってきたことが全て水の泡になったみたいな「無駄」は好きじゃない。
どちらも同じ無駄ではあるんだけど、程度が違う。前者は笑えるという少しの付加価値があるのに対して、後者は何も無い。純粋な無駄。
つまり、丁度いい無駄が望ましい。無駄には変わりないが、そこに何か少しでも付加価値のある丁度いい無駄。
そんなことを考えてたら昼になった。賞味期限ギリギリのパンを食いながら、丁度いいが難しいよなあって思った。
なんでこんなことを必死に考えてるかって、笑いの本質が無駄なら、無駄を丁度よく使えれば少しでも面白い文章が書けるはずだから。たまにしか書いてないくせに、気持ちだけは高く持ってるんです。放っておいてください。
確かに、俺が好きな人のブログとかの文章でも、別にいらない表現や情報がある。でもそれが多くも少なくもなく丁度いい塩梅で、しかもそれらが本題をさらに面白くしている。
やはり無駄は笑いの本質なのかもしれない。
俺は今でこそ無駄を楽しめる人間だけど、それまでは無駄を嫌う人間だった。きっと倹約家に育てられたせいだ。だから俺にはまだ無駄を生み出せても、それを丁度いい塩梅にする技量がない。
心做し程度の無駄ならないほうがスッキリしていて良さそうだし、多かったら多かったでそれこそ純粋な無駄だし。
ていうか、俺に丁度いい無駄を生み出す技量がないなら、こんなこと考えてることこそ純粋な無駄じゃんって気付いた。
でも俺昔からこんな考えするのが好きだったから仕方ないか。せめて、記事にして人目に触れることで無駄の濃度を薄くしよう。
という理由で書いた記事でした。ここまで読んでくれた人がいたなら、それは無駄なことだけど、丁度いい無駄ならいいな。