忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

ちょうどいいって言葉、フワフワしすぎなんてもんじゃない

 

    俺の家族は頭ごなしに怒る人たちだった。そりゃあ、自分でも手のかかる子供だったと思うし、今も突然事故にあったりと現在進行形で手をかけさせている。

    ただ、そんな俺にもたまに全くの冤罪だったこともある。弟が障子に穴を開けてしまって、怒られると思ったあいつはあろうことか俺のせいにした。身に覚えのないことで怒られた俺は、当然違うと主張したけれど、普段から怒られるようなことばかりするガキだったので、聞く耳を持ってもらえなかった。

    そういう経験があるからか、俺は例え如何なるどんなときでも、感情的になって怒らずに、考えれること全てを視野に入れてから自分の気持ちに答えを出そうと決めた。

 

    やがてそのあらゆる可能性を鑑みることがクセになった。クセと言うか、それがデフォルトの思考になった。

 

    しかし、この考え方のおかげで、いや、せいで、か。一つ悩みの種がある。それはあらゆる可能性を鑑みるせいで、自分の答えが出しづらいということ。

 

    例えば、彼氏が浮気して喧嘩したカップルがいたとする。一見、明らかに彼氏に落ち度があるように思えるが、こういうとき俺は、

 

    もしかしたら彼女が彼氏と長く過ごす内に、一緒にいることが当たり前となって、改めて好きって伝えなかったり、ことある事に感謝の気持ちを忘れたりして、それに不満を覚えた彼氏が嫉妬させようとして、他の女の子と遊んでると、そのうち本当にその子が好きになって今回このようなことになったかもしれない…

 

    と、考える。これもあらゆる可能性の内の一つに過ぎなくて、まだまだ他の可能性もあるんだけど、もしそうだとしたら、もちろん浮気した彼氏の落ち度の方が大きいかもしれないが、そうさせた彼女にも少しばかりの責任はあるように俺は思う。

    そう考えると、彼氏ばかりを非難する気にはなれない。答えが出しづらくなるということはこういうことだ。色んなものを見ようとして、何を一番に見るべきがわからなくなるということだ。

 

    最近、ブログで書くに値するようなことを考えながら生活していて、今日はゆとり教育について考えていた。

   俺の個を主張したがったり、争いはやめて平和的に行こうぜみたいな思想はゆとり教育から来るものだと気づいた。そしてゆとり教育について考えていると、その流れで最近のアイドル事情から見るゆとり教育が失敗とされてからの反動とか資本主義とかもういろいろ見えすぎて、答えどころか遂には何について考えてたのか分からなくなった。

   ルートは決まってるのに、他の道が見えるとその先に何があるか気になってしまってつい入ってしまう。そして迷子になる。実際の道でも方向音痴なのに、俺は思考の道までも方向音痴のようだ。

 

    あらゆる可能性を鑑みる考え方は、いいことだとは思うんだけど、どの辺まで見るかの塩梅がわからない。

 

    ちょうどいいってなんですか。人によってそんなの違うんだ。在日インド人が作るちょうどいい辛さのカレーは俺には激辛なんだよ。

    頼むからこっちに丸投げしないでくれ。無責任すぎるよ。料理のレシピで事細かくレシピ通りに作ってきて、最後の最後で塩少々、みりん適量ってなんだそれ。投げやりにも程があるだろ。お前、槍投げする文化のある部落の生まれか?なんだよやんのかコラ?こいよ、文明の力で屠ってやるよ!

 

    いや待って、違う。屠るつもりもないし、俺は勝利が欲しいわけでもない。

    ただ、ちょうどいいの答えが欲しいだけなんだ。ちょうどいい、をもう少し具体的に定義してくれないかなあ。じゃないと、俺は一生かかっても自分なりにちょうどいいの折り合いを見つけることが出来ないし、そうするとこれからも一生現実でも思考でも道に迷いっぱなしだ。

 

    誰か、ちょうどいいに対してちょうどいい定義を作って提唱してくれ。