忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

好きとか嫌いじゃなくて

 

    現代社会を生きる皆さん、こんにちは。今日も人間関係に疲れてますか?

    嫌いな奴に限って好かれますか?1人でいたい時に限って偶然人と会ったり誘われたりしますか?上司がウザイですか?かと思えば後輩もウザイですか?会いたい人に限って会えなかったりしますか?

    波風立てぬべくとやり続けた愛想笑いが戻せなくなっていつしか普通の顔が出来ないようになりましたか?だとすればそれはさながら絵画ですね。現代アートですよ。あなたの顔は。

 

    理想論を言えば嫌いな人とは関わらずに好きな人とだけ関係を持って生きてくのが一番なんです。でもそれはできないんです。俺たち日本人は礼儀とか作法とかそういう首の締めあいが大好きだから。本当は誰もできるならしたくないのに。

    首を締められると息が出来なくなって死ぬのは当然のことです。だとすれば殺られる前に殺れ。自然の摂理。俺たち人間も結局は動物なんです。息苦しい世の中というか国ですね。

 

    俺はまあ多少の人間関係のストレスは抱えてるけど、でもきっとみんなよりかはマシだと思ってます。みんなの押し付けられて今にも破裂しそうになってる精神、いや心よりかは。個人的に人間関係のストレスを軽減するような生き方のコツのようなものがあるんですけど、よろしければ参考程度に聞いていかれませんか?

 

    そもそも俺は好きな人嫌いな人という前提が間違いだと思ってます。俺は好きな自分でいさせてくれる人と関係を持つようにしています。

    例えばあなたがLINEとかのアイコンに自分の写真を設定する時、数ある自分の写真の中からあなたが選んでいる写真は、きっと無意識のうちにあなたが人から見られたい自分の理想に一番近い姿のものなはずです。最近の言葉で言うなら盛れているものだとか。

    人にはそれぞれそういうものがあって、そういう人から見られたい自分の姿ってのはつまり自分が好きでいられる自分であって。人からそう見られたい自分ってことは即ちその姿で見られることには自信があるということじゃないですか。半目だとかちょっと鼻毛が出ている姿で写ってしまった自分をLINEのアイコンに設定できますか?できないでしょ?

 

    まず人を好き嫌いになるわけじゃなくて、その人といる自分を好き嫌いになるかの基準で関係を持つ人を選ぶということはわかってもらえたでしょうか?

    言いたいことはわかります。結局関わる人間を選んでるんだからそれが出来てたら今人間関係に疲れてないってことですよね。

 

    飲食店で料理を運んできた店員が空いた皿を持って厨房へと戻っていく時に、他の料理を運んでる店員とすれ違いざまに一言二言交わすとき、自分たちに見せていた店員の顔から友達とか知り合いに喋るときの顔に戻る瞬間を見た経験ありませんか?

    そういう色んな顔を使い分ける習性が俺たち人間にはあるんです。あの友達の前では図々しくなれないけど、別の友達の前では図々しくなれる、みたいなことありませんか?ありますよね。それはつまり顔の使い分けです。

 

    人と関係を築いてく過程で、好きでいられる自分を構築すればいいんです。初対面の人と会って、最初はお互い敬語だけど、だんだん敬語が外れて、冗談でキツい言葉も交わせるようになっていくような、そんな過程の最中に。

    そうすれば、関わる人を選ばずとも誰しもの前で好きでいられる自分になれるはずです。関わる人全てが好きな自分でいさせてくれる人に変わるはずです。

    幸い、人間関係なんてものは始まりはあっても終わりなんてなくて、言ってしまえば関係を築いてく過程の中にずっといるようなものなので、今から徐々に好きでいられる自分の顔に変えていけばいいんです。そうすれば時間はかかれども、きっといつかあなたの関わる人全てが好きでいさせてくれる人になる時が来るでしょう。

 

    参考になったでしょうか?なっていれば幸いです。それでなんですけど、勝手に話し始めて対価を求めるのはどうも道理がおかしいのは承知ですが俺の悩みを聞いてもらえませんかね。

 

    俺の悩み、それは演じることに疲れたって言うことです。俺、素の自分というか自然体の自分がどうも好きになれないんですよ。なので関わる人全ての前で好きでいられる自分を演じてるんですね。

    でもそうするうちに益々自然体の自分を嫌いになっていくし、最早人の前でいる自分か一人でいる時の自分のどちらが自然体なのかわからなくなってきてて。でもとにかく人の前で好きでいられる自分であり続けることにたまに疲れ切ってしまうことがあるんですね。

    どうすれば自然体の自分を好きになることができますかね?参考にしたいので誰か教えてくれませんか?

 

    

これ以上深まらない親密度を深めるコツ、それは一度離れてみること

 

    今日は昔のバイトの先輩達と会って、ご飯を食べてきた。多分2年ぶりとかそれくらいに会った。2人ともバイトの頃から好きだった先輩だけど、さすがに2年ぶりに会うのは緊張した。

    こういう時、俺は緊張してるようには見えないけど沈黙が怖くてやたらといつも以上に話をしてしまう。最後にはもう自分でも何を言ってるかわからなくなってる。

    昔読んだ石左さんのブログで「沈黙恐怖症」というのがあったんだけど、本当にアタマからケツまで共感しかなかった。これに書いてあることは石左さんのことだけれど、俺もトイレと鏡台が怖いことを除いてここに書いてあること全て一致してるので、是非読んでみてください。

沈黙恐怖症 – 夏目新舎

 

    それで今日もある程度思い出話とか近況の話も済んで、話題と話題の間が長くなるにつれ俺の恐怖や焦りも膨れ上がり、だんだんと自分でも何を話しているかわからなくなっていったような気がする。もしかしたら軽く嘘とかもついていたかもしれない。間を繋ぐために。覚えてないけど。覚えてないというか覚えてたくないから無理やり忘れたのかもしれないけれど。

 

    バイトしていた当時、俺は猫を被ってた。本当は暗くて自分に自信がない人間なのに、真逆の人間を演じてた。たまたま明るい人達が集まったバイトだった。俺は、その中に一人暗い奴がいるとみんなに気を遣わせたりみんなのテンションを下げてしまうのではないかと思った。だから精一杯真逆の人間を演じた。幸い、人間はいろんな顔を持つという特徴があるので、特に苦もなくその役を演じきれた。そうしてそのバイトでの俺の顔は、俗っぽい言葉を使って言うならば陽キャとして認識されるようになった。

 

    人にまだ見せてない自分の顔、新たな一面を見せるのは怖い。だってもし自分の新たな一面を見たその人が、それを気に入ってくれなかったら。もっと言うなら嫌われてしまったら。そう考えてしまうので、人に見せていない一面っていうのは大抵世間一般に欠点とされるものだったり、自分でも好きになれない自分だったりする。ギャンブル依存症、酒乱、ケチ、短気、無神経、傲慢。いろいろあるだろう。人それぞれに。そしてあなたはあなたの欠点や好きになれない自分を人にさらけ出すことができますか?

    俺は怖いよ、やっぱり。メルヘンチックな話じゃないけど、生まれた場所やら時代が一致して莫大な人間の中から巡り会えた人なんだから、出来れば嫌われたくない。なので中々自分の欠点や好きになれない自分を人に見せることは難しい。それに至れるまでに、かなりの関係を築かなければならない。きっと嫌われないだろうという自信を培わなければならない。

    俺の好きになれない自分は、暗かったり考えすぎてしまったり自信がなかったりする自分なんだ。冒頭で沈黙が怖くて変に喋りすぎてしまったことは覚えてたくないから忘れたなんて言ったけれど、でも今日1つだけその間に自分が言っていたことで覚えてることがあって。それは本当の自分とか明るい人間は演じてたっていうカミングアウト。

    2人のことはバイトしていた時から好きだった。でも言ってしまえばバイト先の先輩後輩という間柄だけというわけで。バイトしていた当時に自分が猫を被ってるというカミングアウトはきっとできてなかったと思う。じゃあ何故今は出来たのか。それが例え、沈黙を防ぐために出た咄嗟のものであったとしても。別に、外国人の彼氏がいる女ってデフォルトでドヤ顔ですよね、なんて言ってもよかったのに。なんで言えたのだろう。

 

    それは逆に2年ぶりに会うからなのかもしれない。バイト時代、2人に今日みたくカミングアウトしてもし嫌われてしまえば、嫌われてからもバイトで毎日顔を合わすことになるわけなのだから、そんなの相手も不快だし俺も辛い。みんなが損しかしない。だから言えなかったのかもしれない。

    でも2年ぶりに先輩の方から連絡が来て。それは俺にとって、所詮バイト先の先輩後輩程度の関係って思われてるんだろうなって考えの否定になるわけで。バイトという繋がりがなくなった今でも会ってくれるということは、もうそれ以上の関係で、そしてその中でも俺の存在を大事に思っていてくれるのかもしれない。だとするなら、条件は揃った。自分の欠点等を晒せるほどの関係性も築けた。嫌われないだろうという自信も持てた。

    そういうロジックで俺は今日カミングアウトをしていたのかもしれない。今日の事をもって、俺は疑問に思った。人と関係性を深めるにはある程度まで到達すると、そこからはもうどれだけ一緒に過ごそうがそれ以上深められないのかもしれない。さらに深めるためには一度離れることも大切なのかもしれない。そう思いました。みんなはどう思いますか?

 

    あ、あと最後に一つだけ。人はそう簡単に人を嫌いになったりしない。今日だって先輩2人は本当の俺を見て、幸せになって欲しいなんて言ってくれたし。いや別に俺幸せなんだけどね。嫌いな自分を嫌わずにいてくれて、尚且つ幸せまで願ってくれる人が周りにいるんだから。こんな幸せなことねえよ。だから怖がることなんてなくていい。あなたの欠点がなにかは知らないけれど、思いきって見せびらかしてみよう。もしそれで嫌われた時の責任はとれないけどね。それでは。

性別なんてない世界なら

 

    大学生活も残すこと半分もないってなったあたりからみんなが言うんだよ。

 

    「大学って思ったより出会いがない。」

 

    ドラマ、或いは漫画のようなキャンパスライフを夢見ていたかもしれない。俺もそうだった。高校生の頃は大学ってここよりもっと楽しい場所だろうと信じていた。友に恵まれ、出会いに溢れ楽しいだけの4年間を過ごすのだろうと。

    しかし違った。大学は自分から行動すれば高校生の俺が思っていたような楽しいものにできるけど、動かなければ多分最も楽しくない場所になる。友達?できない。出会い?ない。4年で卒業?できない。

    このまま就職してしまえば更に出会いが無くなる、さすれば俺はこの先ずっと彼女ができない?そういう危機感を本能的に感じるのは大学3年生4年生あたりの頃。

 

    時刻は21時、とある繁華街の飲み屋。いつもお決まりの顔ぶれで酒を酌み交わす男子大学生3人。とうとうあいつも彼女できたらしいぞとか、隣の席のあの子可愛いよねとかお決まりのルーティントーク。生産性は皆無。育まれるのは友情。残るのは思い出だが、楽しいが同時に虚しくもある思い出。飲みの金を払っているところを考えれば、バイトでもして金を稼いでる方が有意義なのかもしれない。薄々感づいてはいるが、それをかき消すように酒を飲む。アルコールを巡らす。思考を鈍らせる。いつの間にか隣の席の可愛い子が酔い潰れて連れの男に抱きついてるのを横目に、1人がぼやく。

 

    「ナンパしにいかね?」

 

    アルコールは思考を鈍らせるが、一周回ると見落としていた答えに気づかせる。動かなければ得るものはない。他の2人も普段なら、俺たちなんかじゃ無理だろ、と言うところではあるが、酒は気も強くする。行くか、と2人は声を揃えて返す。こういう過程を踏んで、男、それも大学生活折り返しの奴らが揃う飲みの席では最終的にこういう結末を迎える。

 

    少し俺の話をするんだけど、俺は性欲とか色欲とかがあるにはあるけどどうやら一般的にはそれが薄いようで。正直男だけでルーティントークしながら酒を酌み交わして笑ったりしてるのも十分に楽しい。それを知りもしない女を捕まえに行って、そんな奴に俺の友人達がガツガツしてるのを見るのはあまり楽しくない。友達をその知りもしない女に取られた気分になる。

    昔してたバイトに1人可愛い子がいたんだけど、じゃあバイトの面子で飲み会しようってなった時に、男のみんながみんなその子に絡んでいて取り残された他の女の子がつまんなそうにしてるのが好きじゃなかった。バイトの飲み会だからバイトみんなで楽しみたいのに、一部だけで楽しんでいるようで、それじゃお前らだけで飲み会してろよなんていう気持ち。

    クリープハイプの『エロ』っていう曲にこんな歌詞がある。

だってだってだってそれなら

どうせ最後はそうなるんだから

すぐ出来ることをしよう もうアレしかないし

www.youtube.com

   

    アレって言うのはSEXのこと。この歌詞は実際本当のことで、結局男女が揃えば最後にはそうなる。俺はそういうのがとても嫌いで。未来が分かると楽しくないじゃないか。最後にはそうなるのわかってるのに、だんだん座る距離詰めたりとか、彼氏の有無を聞いたりとかの駆け引きが馬鹿馬鹿しくて。なので俺は男だけでいる時に、そこにポンっと1人女の子が入ってきて雰囲気が変わるあの感じとかがとても嫌い。スマブラでステージの端っこから銃連射してくるフォックスくらい嫌い。

    でも男女が交じればそうなるのは自然の摂理で、ガツガツいく男も焦らす女も誰も悪くない。悪いのは自然の摂理に反している俺だ。ところで自然の摂理に反しているってそれは生物として大丈夫なのだろうか?多分大丈夫じゃないよな。殺してくれ。

 

    こんなのは絵空事なんだけど、例えばこの世界に性別というものがなければ、と考えてしまう。新しい人間はどこからともなくいきなり現れて、そして死ぬときはいきなりいなくなる。そんな世界なら、今世界で問題視されてるLGBT問題とかもなかったんじゃないだろうか。そんな世界に生まれたかったなあ。本当に絵空事なんだけどね。そんな世界は今の世界と比べて得るものよりも失うものの方が多いだろうし。俺が努力しよう。最後にはそうなるってわかってても行う駆け引きとかの馬鹿馬鹿しさを楽しむ努力を。男だけで繰り広げる不毛な飲み会を楽しめるんだし、きっと出来るはずだ。とりあえず誰か、週末飲もうよ。そんでナンパしに行こう。

慣れは怖いよねって話、それと感謝

 

    一応初めてこの記事でこのブログを読む人もいるかもしれないので説明すると、俺は昨年春に事故に遭って右足に少しハンディキャップが残った。その関係で中々バイトが決まらず、とは言えやはり金は必要になるので試行錯誤した結果派遣をすることにした。派遣なら毎回違う派遣先に行けばたったの1回きりなら例え足にハンディキャップ持った人間だろうが仕方なく働かせてくれるし、給与は即金で手に入るのでなにかと都合がいい。

 

    そういう訳で最近派遣をちょこちょこやりながら過ごしている。初めのバイトは食品工場だった。主に米類を扱っていた。たしかに仕事は今の俺には少し体力的にキツいところもあったが、社員の方達が優しく俺のために座って作業できるように椅子を用意してくれた。さらに急がなくてもいいよ、なんて言ってくれる。なんていい人達なんだと思った。結局そこで2回働かせてもらった。向こうは俺のこと理解してくれてそれでも快く受け入れてくれるしほんとはそこで何回かお世話になりたかったんだけど、数日後にはそこが派遣の募集から消えていたので残念ながら行けなくなった。

 

    ということで、新しい派遣先に行ってきた。それが今日。ほんとは作業用に靴を持って行かなければならないが、右足が今も酷く腫れていて靴が履けないのでクロックスを持って行った。まあ事情を話せば理解してくれるだろうと少し甘い考えだった。そして職場に着き係の人に事情を話してクロックスを認めてくれないかと言うと、めちゃくちゃ怒られた。そんなんで仕事が出来るわけない、仕事をなめてんのか、つって。

    一応登録している派遣会社の募集で見たのは梱包の仕事だったはずなのに、実際行ってみれば物流の仕事で。あと持ち物に帽子なんて書かれてないのに帽子がいるらしくそれを忘れたことも怒られた。派遣先の募集の情報を見てハンディキャップを持った自分でも出来るかと判断して来てみれば書かれている情報と違った旨は伝えたが、係のおじさんはそんなのお構い無しに怒ってた。足引きずって歩くやつが物流の仕事に来るなんて舐めてるとしか思えない、物流どころかどんな仕事も無理だって耐えず俺に悪態をつく。

 

    病院にいた頃は当然患者なので看護師さんを筆頭にお手伝いさんとかいろんな人が優しくしてくれた。退院後も仲のいい友人達が本当に無事でよかったなんて言ってくれて優しくしてくれた。思えばここ一年半ほどずっと人に優しくしてもらえて、それが続くうちにそれが自分の中で当たり前になっていた。自分はハンディキャップを背負った人間だからみんなが優しくしてくれるもんなんだと思っていた。世間的にはそれは確かにマナーと化しているところがあるんだろう。電車で老人に席を譲るように。

    ただ、そういうシチュエーションで席を譲らない人間が少なからずいるように、今回俺が出会ったこの派遣先のおじさんのような人もいるんだろう。そういう人たちやおじさんのことを何も悪く言うつもりはない。優しくされることに慣れてそれを当たり前に感じていた俺の方にも非はある。

 

    何が言いたいかって、この一年半優しくしてもらうことに慣れてそれを当然だと思っていた俺は、みんなの配慮や優しさに対して少なからず感謝の意が欠けていたように思う。もちろん感謝はしている。ただみんなの振る舞いに対して俺の感謝の気持ちが釣り合ってなかったのかもしれない。そういう訳で、はてなブログから読んでいてくれている俺のことをあまり知らない人には少しプライベートな話になって申し訳ないが、友達それに家族、とにかくみんなほんとうにありがとう。これから少しずつもらった分を俺も返せていけたらなと思う。

 

    最近は本当にやさぐれていて、俺の人生は不幸だとか心にもないことを時々口走ってしまっている。しかしよく考えたら俺ほど幸せな人間はいない。こんなにいい人達に巡り会えたんだから。地球上にいる莫大な人間の中から天文学的な確率でみんなと知り合えたんだから、事故でハンディキャップを背負ったことを差し引いてもまだまだお釣りが来るくらい俺は幸せだ。でも多分、これからも時々悲観的になって思ってもないことを零すと思う。でもそれはやさぐれているだけだから、そんなときには、またなんか言ってるよあいつくらいの感覚で放っておいてやれ。そしてこれからも長い人生俺と関わらってくれたら幸いだ。みんな大好きだよ。ほんと、ありがとう。

生きてるだけで失礼

 

    もう何度もこのブログで俺が自己肯定感が低いって話を繰り返してて本当に申し訳ないんですけど、また今回もそういう話なんです。いやお前が自己肯定感低いのはわかったからもういいよって声が今これを書いてる画面の向こう側から聞こえてくる気がするんですけど、それでも書きます。なんでこの期に及んでそれでも書くかってね、深刻さをわかってもらいんですよ俺は。

    読んでくれてる人は俺が自己肯定感低いことにもう理解してくれてると思う。ただ重度なんですよ。次は重度さを理解して欲しい。そうしてやっと俺がこのブログで自己肯定感低い話をメインで書くことがなくなる。俺ももうこんなこと書くのに飽き飽きしてるし見てくれているみんなも飽き飽きしてるに違いない。お互いのためにもう同じような内容の記事を繰り返さないでおこう。助け合いだこれは。協力しよう。

 

    俺の自己肯定感の低さがどれほど深刻かって、例えどんなに仲のいい友人でもふとした時に「もしかしたら俺のことほんとは嫌いかもしれない」と思ってしまうくらい。それで突然遠慮がちになったり謙虚になったりして、そんな風にされた相手としては突然どうしたんだよおいと思うわけですよきっと。接し辛くなるに違いない。

 

    仮に俺がもう一人いたとしよう。そのもう一人の俺と俺が二人でいるときに突然そんな風に気遣いしてきたら、俺はきっと「気遣いしてくるってことはやっぱり本当はまだ俺に気を許してないんだな、仲良いと思ってたのは俺だけなんだ」なんて思って凹むに違いない。つまり自己肯定感低すぎて突然気遣ったりするのは相手にそういう気持ちにさせる可能性ってことがあるってこと。

    ハッキリ言ってこんなのはもう失礼だと思うんですよ俺は。相手が親しく思ってくれていて自分も相手のことを親しく思っているならちゃんと意思表示するってのが礼儀でしょ。俺の自己肯定感が低いことを原因に親しく思っている気持ちを表現しないなんて礼儀に反する。そういう意味で失礼。

 

    こういう話をすると、そこまでわかってるならあとは自分がそうするだけじゃんなんて言われたりする。本当にその通りなんだけど、それが出来たら俺は苦労してないわけですよ。相談に乗ってもらってそれに対して正論を返されたとき、いやそれはわかってるんだけどさーそうじゃなくてさーって思ったことないですか?求めてるのは同調。そうだよね、辛いよねって寄り添って欲しいだけ。どうすればいいかなんて本当は自分でもわかってる。ただそれが出来ないから悩みを打ち明けるって形で同情してほしいだけ。なのに現実は正論という右ストレートで一発KO。だから正論は嫌われるのかもしれない。生き方なんて簡単に変えれないんですよ。人は変わらない。それが真理。

 

    ただ俺が自己肯定感低いことを理由に気遣いされたら親しいと思ってるのは自分だけで相手はそうじゃないかもしれないと落ち込ませてしまう可能性があるって話をしたのは、それがもう一人の俺と俺だったらって話。自己肯定感低い俺だからそう感じるだろうって想像の範囲でしかない。もしかしたら普通なら人はそんなこと思わないかもしれない。それを勝手に俺がそう思うだろうって決めつけて話を進めてるだけ。

    さっきの俺の話を整理するとそう思うのは自己肯定感が低いから。みんなもそうだろうって決めつけてるのは言い換えればみんなも自己肯定感が低いと言ってるようなもの。これ、みんなに対しての敬意がないようなもの。礼儀ってのは敬意を表す作法だから、つまりまたしても失礼。何をやっても裏目。生きてるだけで失礼なようなもの。

 

    ほら、また気付けば自己肯定感が低いこと言ってる。そんでまたこれが裏目に出て新しい失礼を犯すんだろうな俺。どうすればいいんだよ。助けてくれ。

双子じゃなくて良かった

 

    動画で聞く自分の声に、キモッッッッって思った経験みんなあるよね?俺はある。数え切れない程ある。もう動画で自分の声聞く度毎回思ってる。人間なんだし学習能力くらい備わってそうなもんなのに、毎回初めて自分の声を客観的に聞きましたばりの新鮮な感じでリアクションしてる。あれなんでなんだろ。

    結局人間は客観的に見た自分に嫌悪感を抱くもんなんだろう。なんの確信もないけどなんかそんな気がしてる。客観的に見た自分を好きでいられる人間に出会ったことがないからだろうか。自分の経験の中にないことをそれをイコール普通だと認識しているのかもしれない。視野が狭いな。嫌だな視野狭いの。

 

    俺、あんまり視野が狭い人が好きじゃなくて。つーか嫌い。今の俺がまさにそうなんだけど、自分の経験則を基準に勝手に「普通」を定義して、それを信じて疑わない人。話しようとしても話にならないんだよ。何言っても、俺が普通でお前が普通じゃないから聞かないみたいな態度とるの。やってらんない。マジで。やってらんない。

    だから俺は普段からなるべく視野が狭くならないことを心がけてる。じゃあ視野が狭くならないようにいるためにはどうすればいいと思う?これは俺個人の意見なんだけど、客観的視点を持つことだと思う。例えばあなたと反対の意見を持つ人がいたとする。こういう時、俺は視野が広い人なら時と場合によっては自分の意見も柔軟に変えれて、賛同できない時も否定こそせず相手の意見を理解しようとする人だと思う。相手がそういう意見を持つまでに至った経緯とか背景をいろいろ想像して、できる限り相手の意見も、それが例え自分が賛同できないものでも尊重する。そういう人に俺はなりたい。

 

    そういうわけでなるべく客観的視点を働かせて日々を生きている。自分のことも客観的に見ながら。で、ここで最初言ってたことが関係してくるんだけど。客観的に見た自分には嫌悪感を抱くんだよ。この際みんながみんなそうじゃないとかはもうどうでもいい。でも俺にはこれが当てはまる。そう、つまり自分が嫌いな視野が狭い人間にならないように生きてたら自分に嫌悪感抱くの。なにこれバグ?どうしろっていうの?

    俺の自己肯定感があまりにも低かったりするのは自分に嫌悪感を抱きながら生きているからだろうか。自分を客観視して、それで嫌悪感が生まれて自己肯定感が低くなって、ウザイくらいに謙虚にいようとする自分を客観的に見てまた嫌悪感が生まれる。負の連鎖。連鎖って聞くとぷよぷよ思い浮かべるね。連鎖なんて言うくらいだからいつか全消しなんてテロップが軽快なサウンドと共に出てくれてもいいのに。消えるどころか募っていくの。それにどこまで積んでもゲームオーバーにならないの。何このクソゲー。終わるには根元から電源切るしかない。それってつまりスーサイド。リセットボタンなんてない。

 

    もし双子に生まれてたら、と想像した。ただでさえ自分の内面を客観視して吐きそうなほど嫌悪感積み上げてるのに、その上自分の生き写しみたいなやつを物理的に客観視するの。そんで自分の外見の要素にも嫌悪感生まれる。俺、自分の笑った時の口元が嫌いで。歯並びが悪いのが特に目立つんだよ。写真とかでたまに見る度にちょっと嫌な気持ちになるんだけど、双子だったらもっと高頻度にそうなってたってこと?想像するだけでキツい。吐きそう。どんだけ嫌悪感積めばいいんだよ。それこそ根元から電源落としてたかもしれない。良かった。双子じゃなくて。

 

※別に双子を悪く言ってるわけではなくて、もし俺がそうだったらってだけの話です。気を悪くされた方がいましたらすみません。

俺も、お前も、みーんなアイドル

 

    例えばなんだけど、あなたが誰かと何かについて話し合いまたは意見交換してるとするじゃないですか。その時に、近くで聞いてただけのやつが「えーそれは違くなーい?俺はこう思うなあ。」なんて入ってきたらウザイじゃないですか。どこから湧いた?てめえどこ中だコラ?って思うじゃないですか?人間誰かに役割以上の働きをされるとムカつくんですよ。よーいドンで虫酸が走り出すんですよ。正式に近くで聞いてたんですけどそれに関して違う意見があるので言ってもいいですか、いいですよのやり取りを踏まえて入ってくるなら俺は何とも言いませんよ。でも君そんな前提なしにズカズカ話に入ってきたじゃんか。ならば俺は言いますよ。失せろカスって。

 

    思うんだけど最近役割以上の働きを行うことが世の中で通例化してきるんだよ。それはつまりイライラする世の中って訳だ。ただでさえストレス社会なんて言われる昨今、これ以上余計なイライラを与えないでほしい。なあ。俺はお前らに言ってるぞ。アイドル気取りの声優共。

    声優って言葉の意味知ってる?声の役割を任せられた俳優・女優、略して声優。キャラクターの裏で声を務める人が表舞台に何食わぬ顔で立ってるってねえそれどういう了解?「えっ!?声優って声だけの役割なんですか!?」なんて言ってるやつらは即刻座学からやり直せ。声優の定義から学び直せ。ボイトレとか実技なんてまだまだてめえらには早すぎる。

    アイドル気取りの声優は役割以上の働きをしてる代表例だけど、他にもアイドル化してる職業はたくさんある。例えばYouTuberとか。イベントでリスナーがペンライト降ってキャーキャー言ってるんだぜ?こんなのアイドル以外の何物でもないだろ。て言うか今の日本のなんでもかんでもアイドル化する波がエグい。そしてイライラが募って仕方ない。

 

    なんてことを前までは思ってたんだけど、実は最近考えを改めたんだ。突然ですが皆さんアイドルっていう和製英語の語源になった英単語「idol」の和訳をご存知ですか?これ実は「象徴」っていう意味なんですよ。そんで皆が日常生活で「アイドル」って言葉を使う時それは何を指してますか?嵐とか乃木坂46とかのことですよね。じゃあ嵐または乃木坂46からどんな印象を受ける?そうだよね、「可愛い」「かっこいい」だよね。つまりアイドルって言葉は「可愛い」「かっこいい」の象徴なんですよ。

    じゃあアイドル気取りの声優とかYouTuberを見てみましょう。どうですか?可愛くないですか?かっこよくないですか?じゃあここで「象徴」という言葉の定義を見てみよう。

しょうちょう【象徴】 《名・ス他》

主に抽象的なものを表すのに役立つ、それと関係が深いまたはそれを連想させやすい、具体的なもの。

    「可愛い」「かっこいい」って言葉は抽象的だよな。だって人によって基準がそれぞれなんだから。そりゃアイドルで溢れかえるわけだ。人の数だけ「可愛い」「かっこいい」があるんだから。俺なんて1人で何個も「可愛い」の基準を持ってますよ。マイオンリー可愛いを。

    君から見た俺はこの世で最も醜い見た目の生物かもしれないけど、他の誰かから見た俺はこの世で最もかっこいい男性に映るかもしれない。まあ、仮にそんな人がいたとしてもそれ以上に俺を醜く思う人の方が多いだろうし、その割合の兼ね合いで俺は世間一般的に醜いということになるんだけど。でも俺のことがかっこよく見える人ならその人だけの世界でいえば俺は紛れもなくかっこいいわけで。今これを読んでる君も人からブサイクだと言われようが、自分でブサイクだと思ってようが、世界のどこかにいる誰かにとってはあなたは最も美しく見えるわけで。その時君は美しいの象徴、つまりはアイドルになる。だとしたらアイドル化が進んでアイドルで溢れかえる今の日本の社会にも頷ける。

 

    つまりさ、こういうことなんだよ。

 

    俺も、お前も、みーんなアイドル。