忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

物臭

 

    改札を抜けて、地上へと続く階段を上がっていくと徐々に空気が湿度を含んでいく。階段を登りきる少し前に手に持っていた傘を開けようとしたが、どうやら雨は止んだらしい。一度傘を開こうと傘のボタンを外してしまったため、もう一度傘を止めようとしたら、まだ傘は濡れていて手が濡れてしまって凄く不愉快になった。

 

    あらゆる物が恐ろしいスピードで発達していくこの時代に傘はどうして形を変えず昔からこのままなんだろう、なんてどうでもいいことを考えながら歩いていく。

 

    駅を出るとすぐに大きな橋があって、いつもそこを通るとき上から川を泳ぐ魚を見るのが些細な楽しみだったのだが、川は茶色く濁って勢いを増しており見るに値しなかった。

 

   低気圧のせいかは分からないが今日は一日中何をするにもイライラしてしまう。傘を止めるのに水がつくのもそうだし川を見れなかったのもそうだし。これからバイトだということにもそうだし。

 

    橋を渡って少しすると右手に繁華街が続いている。その繁華街の入口に喫煙所が用意されていて、バイトの前は必ずそこに寄っている。喫煙所は仕事終わりでこれから飲みに行くであろうサラリーマンや、大学生の集団、客引きの人間やらで多少混雑していた。

    各銘柄のタバコの煙が混じり合って空気に乗って流れてくるため煙たく、気が悪くなる。しかし、その思いとは反面に紫煙の中をくぐり抜けて灰皿の前に立ち、ひとつ火をつけて、同様に紫煙を燻らせる。ストレスが募る環境で、ストレスを和らげる為の行為をするのはなんだか滑稽だなと思う。

 

    向かいの道に目をやると、雨が止んだからか飲みに出ようとする人達が徐々に増えてきている。俺の勤務先もこの繁華街の一角に位置するので、なんだか今日は忙しくなりそうだなあと嫌になる。目の前の人の流れが益々勢いを増していく度に嫌な気持ちが募るので、いっそ目を背けるとその先にはどこからか数匹の鼠が現れた。

    この繁華街はタバコの吸殻や飲食物のポイ捨てで綺麗とは程遠く不愉快ではあるが、鼠達からすればとてもいい環境なのだろう。台風で増水した川の水が鼠達が普段過ごす下水管の中へと流れて、それで彼らは下水管の外へと一時的に避難してきたんだろう。

 

    幼少期のとある一件から齧歯類が苦手な俺は姿を見るだけで気分が悪くなったし、挙句の果てになんと目の前で交尾を始められた。本当に気が滅入る。どこを見てもそこになにかしらの不愉快がつきまとってくる。仮病でも使って休んでやろうかという思いが脳裏を過ぎる。しかし少数で回している店の為、自分が休んだときのことを想像すると、とてもじゃないが他の店の人間に悪い気がしてそれは出来ないなと思い留まった。

 

    煙草を持つ2本の指に若干の熱気を感じたので、目を見やるとすぐそこまで灰になっていた。慌てて灰皿に灰を落とそうと手を動かすと、突然少し強い風が吹いて灰は散り散りになって舞い上がり、目に入ってしまった。

 

    その瞬間にもう全てが嫌になった。なんでこんなにも嫌なことが重なるんだろうか。いっそこの過ぎ去って行く台風がここからもう一度勢いを増して全て吹き飛ばしてくれないだろうか。その時は台風が過ぎ去った後の空のように、少しは晴れやかな気持ちになれるだろうに。そんなことを考えながら見上げた空はまだどんよりと重く澱んでいた。

 

 

自分勝手に生きてくれ

 

    解決することはないだろうけど、言うだけ言ってみよう。聞いてもらうだけで気が楽になるかもしれない。そう思いながら、俺は自分の悩みを打ち明けてみた。

 

    「自分のことがわからない。自分が今、何がしたくて何がしたくないとか、そういうことがわからない。多分人のために生きてきたからだと思う。人がしたいことに合わせる生き方をし続けてきた内に、自分の気持ちを抑圧するのが癖づいて、今じゃもう、自分が何したいとかそういう気持ちを最初から持たないようになってしまっているのかもしれない。」

 

    そう言うと、相手はこう言う。

 

    「人のために生きてきたなんて言うと大層聞こえがいいけど、俺が思うにお前のその生き方は別に人のために生きてるわけじゃないと思うよ。人に合わせるのって結局、自分で選択するということを放棄しているということだと思うんだ。後から何か不都合が起きた時には、あの人に合わせただけって逃げれるからだよ。」

    

    そう言われてハッとした。確かにそうかもしれない。これまで俺は、責任を放棄して逃げ道だけを確保した生き方を、「人のために」なんて言う聞こえのいい言葉で誤魔化していたのかもしれない。

 

    そもそも、人は人のためだけに生きれたりしないんじゃないかと思う。人間はやっぱり自分が1番可愛いし、あなたの周りのどんなに優しい人の行いだって、一見相手を思ってのことのように見えてそこには何かしら自分の利があるのかもしれない。人からいい人だと思われたいみたいな、そういう利が。

 

    別に他人に同情したりとかすら出来ないなんて話をしているわけではない。親しい人の不幸に自分も同様に胸を痛めたりすることがあるし、親しい人が悩んでたり困ってたりしてたなら力になりたいと思うことだってあるだろう。

    ただ、そういう時に相手と同じ気持ちにまで至るということが無理なのではないかということだ。例えば、あなたの最愛の人が飼ってる犬が亡くなってしまい、その人はきっと悲しみに包まれるだろう。その姿を見て、あなたも胸を痛めるが、その人と同じくらいに悲しむことは可能だろうか?あなたからすれば、自分が飼ってるわけでもない人が飼ってるだけの犬の死に、飼ってた人と同じくらい悲しめるだろうか?

 

    つまりそういう事なんだ。俺にも今まで特に気の許せる友人や、好きな人が何かに悩んでたり傷ついていたりする姿を見て心を痛めた経験はある。しかしその時の俺はどこかそれを客観的に見て悲しむような、ちょうどドラマや映画などを見て心動いているような、そんな状態だった。

    その時の俺はなんとか悲しみを和らげてあげられやしないだろうかと持てる力の全てを尽力したが、今思えばあれはきっとその人の為にと言うよりは誰かの役に立ちたいという承認欲求を満たすという自分の利に従っていたのだろう。それでもその人は、後になってその時のことを振り返ってあの時はありがとうと言ってくれる。

 

    今までの俺は、悲しんでる親しい友人達を見る時、こんなにも親しいのに同じ気持ちで悲しみを持てない自分はきっと淡白で冷徹な人間なんだと自己否定してきた。俺以外にもそういう人は結構多いのではないかと思う。

    しかしだ。確証は持てないが、相手と同じ気持ちにまで至らなくとも、誰かの役に立ったり誰かを救うことは可能なんだと思う。話なら聞くよ、って言ってあげたり、いつでも力になるからねと声をかけるだけで人はきっとその言葉に救われるだろう。俺も自分が落ち込んでいたり悲しんでいる時にそういう言葉に救われた経験がある。それはポーズでいい。そこにあるのが相手を思う気持ちだけでなく、自分の利が混ざっていようと。それを相手が見抜くことは出来ないし、相手はそれでもきっと喜んでくれる。

 

    どうか、みんな、人を思いやりすぎて自分まで潰れてしまわないでくれ。人よりもっと自分のことを大事にしてくれ。誰かの力になったり、誰かを救うことは案外簡単だから。だからどうか、もっと自分本位に、自分勝手に生きてくれ。

    

No more 逆張り

 

    人の書いたブログ、それも本当に文章が上手なブログ、つまるところ書いた人に会ったこともなければ見たこともないのに、その人の人となりとか感性が伝わってくるようなそんな文章を読むと、自分もそんな文章が書きたいと思ってしまって気がつけば文章を書き出してしまっている。こんな風に。

    しかし書きたいこともなければ、特に書くほどのこともない。そういう時にこのサイトは便利で(恐らくこのサイトに関わらず他のブログサイトにも同じような機能があることは容易に想定できるが)、今週のお題なんて風にテーマをくれる。たまにとは言え数年ほど文章を書くことを続けていれば、お題さえ貰えばそこから誰かがカップラーメンにお湯を入れてから出来上がるまでの3分ほどの暇を潰すくらいの文章を書くくらいは可能なわけで。書き手というものは、どんな形であれ自分が書いたものを読んでもらうのが嬉しい。だから、それくらいの気持ちでも読んでもらえればいいやという構えで今週のお題を見た。

 

今週のお題「最近見た映画」

 

    非常に困った。困ったと言うのは、このお題が書きにくいテーマだからと言うわけではなくて、むしろ書きやすいテーマなくらいなんだけれど、困ったのは俺がこれに関して書きたくないからだ。まあ、書かなければどうしようもないので書くのだけれど。だから俺がこのお題について書きたくない理由でも書こうと思う。

 

    1番最後に見た映画は鬼滅の刃だった。「劇場版鬼滅の刃無限列車編」。  恐らくほとんどの人が知っている映画だろう。とんでもない売れ行きだっていうことでニュースでよく取り上げられてるし。これまで最短で興行収入100億を突破した「千と千尋の神隠し」でさえ公開から25日かかったらしい。それを鬼滅の刃は僅か10日。なんなら公開から24日目には200億を突破するのではなんていう見通しまであるそう。それってつまり、それほどまでに鬼滅の刃が人気のコンテンツということじゃないですか。

 

    俺は自分でも意識してない内にいつからか「人と同じは嫌だ!」みたいな人間性に育ってしまった。多分、高校の頃にハマった音楽を周りの友人に勧めても「これの何がいいのかわからん」みたいなことを言われてしまい、ただ変に自分のセンスだけには自信を持っていたので、「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」みたいな錯覚を起こしてしまったからだと思う。あの時、みんなが俺に変に気を遣って「ああ、よくわからないけどいい感じだね」くらい言ってくれてればこうなってない未来もあったのだろうか。

 

    ただこういう俺みたいな一定数存在する「みんなと逆張り!」みたいな人間って、みんなが支持してる人気のコンテンツも少し気になっているわけで。自分の好みを優先した結果ではあるが、普段から人と逆に動いてしまうせいで、今更みんなが支持してるものに手を出すのもダサいみたいに思ってしまっている。だから言い訳じゃないけど、俺は自分から鬼滅の刃に手を出してないことだけ弁明さしてほしい。

 

    人とは違うを突き詰めた結果髪の毛がピンク色になってしまっていた俺の前にある日全く同じ髪色の女の子が現れた。仲間かもしれない。直感的にそう思った。専門家が言ってたけれど、動物は仲間を見た目とか臭いで認識するらしい。見た目は同じ髪色という点でもちろんのこと、臭いという意味でも、同じような性格とか見た目とかの人間2人を指して「あの二人からは同じ臭いがする」って表現するこの国では、俺が仲間だと思ってしまったのにも頷ける。どうやら専門家ってちゃんと信用していいらしい。

    そこからその子と俺が仲良くなるまでに長い時間は要さなかったわけで。そしてその子がある日、鬼滅の刃見に行こうと誘ってくれた。気にはなりつつも自分から見に行くのはダサいと思っていた俺が1番待ち望んでいた言葉だった。でもあえてクールに「まあ、じゃあ行くか。」くらいの態度をとって、そしてそういうことで俺は鬼滅の刃を見に行くまでに至ったのです。

 

    書いてて思ったけどめちゃくちゃダサいな俺。何が「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」だ。気になるなら素直に気になるって言えばいいのに。こんなのはあれだ、小学校高学年の男子だ。気になってる女の子に素直になれないから悪口とか言って関わりを持とうとするやつ。ああいうのって大体その子から嫌われちゃうんだよな。まあ、何もしてないのに悪口とか言ってくるやつのこと好きにならないよな。全国の小学校高学年男子、素直になった方がいいぞ。逆の態度は当然ながら裏目に出るぞ。待って。じゃあ俺も多分嫌われてるかもしれないな、みんなに。

 

    この国の言葉では、俺みたいな人間のことを天邪鬼と言うらしい。天邪鬼。あれ、俺も鬼?鬼殺隊とか来るのかな。怖。帰ろ。

招待状

※この記事に関してはこのブログを読むほとんどが俺の友人知人が大多数を占めるということを前提で書いています。ご了承ください。

 

    依存体質が年々強くなっていて、最近ではもう1人でいる時間が苦痛で仕方ない。今にも倒れそうなほど山積みになってしまっているやらなきゃいけないことや、考えたくもない憂鬱なこと、その全てから目を逸らしたい。

    好きな人といる時だけはそういうことから目を逸らせる。楽しいとか幸せとかそういう暖かい気持ちに溺れていられるから。それは実際ただの現実逃避なんだけれど。思うんだ俺は。逃げちゃダメなのか?逃げていれば勝手に時間が解決してくれることもあるかもしれないじゃないか。逃げてても時間が解決してくれないときにだけ立ち向かったらいいじゃないか。「逃げてても何も無い、立ち向かえ。」みたいな、そういう考え方が本当に嫌いだ俺は。やりたい人だけやってろよ。強制するな。

    なんだか愚痴っぽくなったが、要は好きな人とずっと過ごしたいという話だこれは。暖かい気持ちに溺れ続けていたいんだ俺は。そうなると結局のところ、結婚するしかないのかもしれない。好きな人だけを集めて建国するという手もあるけれど、あまりに現実的じゃないしやはり結婚という一手しかない。歳も歳だし。

 

    そういう訳で結婚の予定もないのに常に結婚のことを考えている。果たして俺は結婚できるのだろうかとか、結婚してもいいような人間なんだろうかとか、そういうことを。

 

    仮に結婚出来るとして話を進めよう。俺が結婚する時が来たとして、俺はその事で常々頭を抱えていることが一つある。披露宴のことだ。披露宴に何人か友人を招待することもあるらしいが、予算とかの関係上呼んでも30人いかないくらいらしい。新郎新婦合わせて。てことは一人頭十五人。は?十五人?あまりに少なくないか?

    俺は幸も不幸も他人で共有したいという考えが強い。誰かの幸せをみんなで分け合ってみんなで幸せになって、誰かが不幸ならばそれをみんなで背負ってその人の不幸を軽減してあげて。そんな風に生きれたらとても幸せで満足のいく人生だと思う。

 

    だからこそ、自分の人生で最も幸せのピークである(と考えられる)そんな機会にはたくさん友人を呼びたい。好きな人全員呼びたい。しかし十五。自分の好きな人達に一位から十五位までのランク付けをしろと?なんて残酷な話だ。聞いた話だが、人によっては披露宴に異性の友人を招待するのは非常識だなんてこともあるらしい。好きな人達を性別で管理するなんてことは俺には出来ない。好きな人達は好きな人達だ。そこに性別なんてものは関係のない話だ。

 

    だから俺はなんの予定もないが、結婚する時がくれば披露宴に好きな人達全員呼ぼうと思う。相手親族の意見とか、金銭的な理由とかそういったものも気にせず有言実行しようという強い意思だこれは。みんなで超楽しい披露宴作ろう。その為には君の協力が必要だ。今これを読んでいる君だ。君も勿論俺の好きな人達の内の一人だ。

 

    これは招待状です。いつ行われるか、果たして行われるかもどうかもわからない俺の披露宴の。行われる時がくれば受付でこのブログのこの記事を見せて下さい。これを招待状にするということで話をつけておきますので。

 

    どうか俺の幸せをあなたとも共有できて、あなたも暖かい気持ちになってくれますように。

 

    さあ披露宴はもう間もなく始まります。奥へどうぞ。

何が良くて何が悪いか本当にわからなくなってきた

 

    「嫌われることよりも、無関心であられるほうが嫌だ。」

 

    他人からの評価について談議する時、しばしばこのようなことを言う人が見られる。

    そのような人達が言うには、嫌いであられるということは何かしら意識がこちら側に向いている訳で、意識がある以上何かをきっかけに好きになってもらうことは可能であるが、無関心という何も意識されていない状態であると一切好意を抱いてくれることがないからだということらしい。

    なるほど、それはたしかにそうだ。それを聞くとたしかに嫌われることよりも無関心であられる方が嫌だという意見にも頷ける。

 

    ただ、俺はそれを聞いた上でもやはり嫌われることのほうが嫌だと思ってしまう。それは恐らく、俺が人から好かれたい気持ちが強すぎるからだ。

    誰だろうと、好き好んで嫌われたがる人はきっといない。誰しもが好かれることを望むはずだ。今テーマにしているのは、好かれることが最も望ましいのは前提で嫌われるか無関心でいられるかのどちらが嫌かという話だ。

 

    俺がどれほどに人から好かれたい気持ちが強いかの話をしよう。前述通り、俺は本当に人に好かれたい気持ちが強すぎて、故に嫌われることを無関心であられることより怖いと思ってしまう。嫌いな人でも自分のことは好きでいてほしいと本気で考えている。

    誰かが俺が不幸に陥る様を見て幸せになれるとするなら、俺は望んで自ら不幸へと身を落とすだろう。それほどに人に好かれたい気持ちが強いと言うか、献身的と言うか、他人優先主義なんだ。自分のことに興味が微塵も無いし。

    自己肯定感が低いのもあるが、俺ごときのやることなすこと、或いは存在自体で誰かが喜んだり幸せになれるならば、それが何よりも俺の幸せになる。自分が誰かに幸福を与えれることがそれ即ち俺の幸福にも直結する。

   

    だから、俺は普段人から好まれるようにだけにフォーカスを絞って生きている。人に好まれるためには、利害関係のような話にはなるが、相手にとって利益のある人間にならなければならない。そして他者に利益のある人間と認識してもらうには、相手を観察することが最も重要だと俺は考える。相手がどういう人で、何がその人にとって利益に成り得るか把握することで、その基準で自らの身の振り方に決定を下せる。するとその人にとって利益的な人間を演じれるわけだ。

    そんな風に生きているからか、一人一人に対して微妙に自分の身の振り方を変えている。もっと言えば、複数人で同じ時間を過ごすときにはその集団を構成するメンツの組み合わせによっても多少身の振り方を変えている。

 

    あまり自分自身に対する評価を自ら下すことはこの国では古くからタブーというか暗黙の了解みたいになっているところがあるけれど、それでもあえて言うなら俺は割と他人から好かれている方だと思う。

    まあ、人に好かれることだけを考えて生きているくらいなんだから多少はそうであってくれなければ困るのだけれども。   

 

   ただ、最近ずっと引っかかっていることがある。人に好かれたくて、相手にとって利益的な人間を演じることで得る好感に果たして意味はあるのだろうか。もし相手が俺がわざと好かれたいがためにその人にとっていい人間を演じていると知った時、それまで俺に向けてくれていた好感は変わらず残るのだろうか。そうではない気がする。

 

    それに、俺は自分のことよりも周りにいるみんなのことが心底大好きだし愛している。その人たちに自分が好かれたいが為だけに本来の自分と違う人格を演じるのは、それがいくら相手にとって利益的な人格で幸福を与えているとしても結局は自分のエゴに人を付き合わせているだけではないのか。相手の目線だけで見れば自分に合わせてくれるし利益のあるいい人と見られて良いように聞こえるが、俺の目線で見れば相手のことを第一に動くという点ではそれもまた聞こえがいいが、結局のところ自らのエゴだけを追求してるという点で悪に近いように思う。

 

    一体何がいいことでで何が悪いことなんだろうか。俺のこの生き方は他人優先主義で他人に幸福を与えているから良いもの?でもその生き方には究極的な自らのエゴの追求が内在しているから悪いもの?もうわからない。定義をハッキリしてくれ。その方がきっと楽になれる。悪いものと言われれば改善すればいいだけなのだから。一生答えが出ないままが最も苦しい。頼む、誰でもいいからその辺の定義を確立してくれ。俺には答えが出せそうにない。何卒。

 

    それでは。

不快な朝、死にかけのセミ

 

    プシューと気の抜けたような音の次にはガタタンと音がして目の前の扉が開く。涼しくて快適な車内とは反対に、駅のホームへと降り立つと、肌に纒わり付くような湿気を含んだ生温い外気が、全身を覆った。

    ジージーセミの鳴き声がする。余計に暑苦しくて堪らない。一刻も早く家に帰ろうと改札目掛けて歩を進める。

 

    駅のホームから改札にはバリアフリーの緩やかな下り道が続いてる。余りの不快な蒸し暑さに項垂れながら歩いていると、セミが落ちていた。

    いや、「落ちていた」というのは些かセミに対して失礼かもしれない。セミだってれっきとした生き物だ。生命だ。そんなモノに言うようにぞんざいに扱うべきではない。生命の価値に差なんてないのだから。なんて風に、誰にも知られない心の内を、自分自身で律しながらそのセミを足でコツンと転がす。

 

    人間は矛盾する生き物なんです。そんな風に思いながらも正反対の行動をとってしまう。俺は悪くない。だって、生きてるか死んでるかわからないセミに刺激与えて鳴くか鳴かないかでドキドキするの、面白いんだもん。

 

    結果から言うとセミは生きてた。足でコツンとやると、ジージーと鳴き声を上げて、そのまま地面にへばりついて泣き始めた。さも自分は木に引っ付いてますよと言わんばかりに。

 

    それがなんだか滑稽に思えると同時に、数時間前の記憶がフラッシュバックする。

 

ーーーーー

 

    「今日この後飲む予定なんだけど、よかったらくる?」

 

    帰り支度をしようと、着替えていると、そう声をかけられた。数ヶ月前から始めたバイト先で、そんなお声がかかったのは初めてで嬉しかった。行きます、と二つ返事をして、他にやらなきゃいけなかったことを一旦脳内から消し去った。

 

    飲み会はそれなりの盛り上がりを見せた。俺を除いて。と言うのも、今まで俺に誘いの声がかからなかったのは、他のバイトと交流をあまりとれていなかったからだ。その自覚はあった。

 

    普段あまり喋らない人との飲み会はどれほど辛いかわかりますか。まるで腫れ物に触るように、時々話降ったりするそういう気遣いって、意外とされる側の人間は気付くもんなんです。

    しかも、話を振られてもみんなの期待に応えるような芸当は到底できない。そんなん出来たらそもそも普段からコミュニュケーションとれてるし。

    最終的に、俺に出来ることと言えば、みんなが笑ってるタイミングに合わせてハハハと乾いた笑いをしてたり、たまに勇気出してツッコミみたいなことをして少しだけ空気を冷やしたりしてるくらいだった。

 

ーーーーー

 

    その記憶が走馬灯のように蘇る。忘れたいはずの出来事を、俺は何故セミをきっかけに思い出すんだろう。少し考えて、その理由は明らかになった。

 

    俺はこのセミなのかもしれない。本来いるはずでない場所で、さもここが自分の居場所ですと言わんばかりに振舞っているこのセミと。一緒なのかもしれない。

    俺はきっとあの飲み会にいるべきはずでなかった人間なんだ。俺がいるところでみんなで飲みに行く話をしていて誘わないのもバツが悪いから、彼らはとりあえず誘ってみただけなのかもしれない。誘うフリだったのかもしれない。なのに行きますなんて言われて、ほんとに来るのかよ、とか思われてたのかもしれない。

    なのに俺ときたら、もうこれで仲間ですよねみたいな雰囲気を出して無理していた訳だ。滑稽にも程がある。セミを見て、滑稽だなんて思っていた自分の方がよっぽど滑稽だった。

 

    なんだか無性に腹が立って、もう一度セミを足でコツンとやる。否、「コツンとする」ではなくて「蹴った」と言う方が正確だ。腹いせだ。八つ当たりだ。俺はセミにまで八つ当たりするような小さい人間だ。

 

    蹴られたセミはジジッと大きく鳴いて、飛び立つと、近くの窓から外へと出て、木に張り付いた。

 

    あのセミでさえ、最後にはいるべきはずの場所へと帰って行った。なのに俺ときたら。俺にも帰るべき場所、いるべきはずの場所はあるんだろうか。

 

    わからないけれど、とりあえず今帰るべき場所は家だろう。それだけはハッキリしている。

 

    いつのまにか太陽はさらに高い所へと来ていて、それに比例するようにセミの合唱が益々けたたましくなっている。

 

    それが何より不快で、俺はさらに項垂れて帰路を辿った。

目に写る"それ"は嘘か真か

 

    新しく始めたバイト先がこれまで使ってた銀行口座が使用できないとのことなので、別の銀行口座を開設しに近所の銀行へと足を運んだ。

    しばらく待ってると、待ち番号を呼ばれて席へと。きっとハチャメチャに優しいんだろうなって印象を受ける笑顔が素敵な女性が対応してくれる。

   ザッと説明を受けて早速口座開設の手続きへと移る。こちらの用紙の記入をお願いします、と紙を渡される。受け取ると、女性は少々お待ち下さいと奥へと引っ込む。

    口座を解説するだけで、微塵も綺麗な女性と接すると思ってなかった俺は携帯を取り出しインカメで軽く身だしなみを整える。

    うん、顔はいつも通りだ。少し寝癖が気になるので、そこを手ぐしで溶かしながら用紙を記入していく。

    少しすると女性が戻ってきたので、俺は書いた用紙を渡す。では、身分証明書のご提示をお願い致します、と女性。

    情けないことに俺はまだこの歳で運転免許を持っていない。学生証はダメなことは事前に承知していたので、俺は持ってきていたパスポートを渡す。

    が、しかし。確認を怠っていたがどうやらパスポートの期限が切れていた。保険証はダメですよねと聞くと、保険証だとまた別に顔写真のある身分証明書が必要らしい。

    後々、顔写真付きの身分証を提示してくれれば大丈夫とのことで、キャッシュカードなしで開設してもらうことで、俺は銀行を後にすることができた。

 

    最近では身分証明の基準が法的に高まってきて、以前より厳しくなっているらしい。この日、俺は現状身分証明が出来ないという事実を突きつけられた。

    身分証明が出来ないということはつまり俺が俺であることを証明出来ないと言うことだ。

   その事実に気付くことで、俺はひとつの不安を覚える。もしかして俺は俺ではないのかもしれないのだろうか。

    昨日友人と話してた俺、先週の俺、先月の俺、去年の俺、それよりもっと以前の俺、その全ての俺は本当に俺だった?

    これまでに積み重ねてきたアイデンティティがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。精神面的な意味での自覚を失うと、次にはいよいよ視覚的な自分にまで疑いの眼差しが生じた。

    さっき身だしなみを整える際に見た携帯に映る俺は本当に俺だったのだろうか。鏡や写真に写る自分を見て、俺は自分を、背が高くて、少し色白で、鼻が低くて、まつ毛は少し長く、歯並びは整っていなくてそれでいて前歯がやや大きく、髪は太くて硬くややくせっ毛なルックスの人間だという認識で生きてきた。

    本来ならこんなことを疑問に思うことはないだろうが、自分が自分であることを証明出来ないというきっかけによって、生まれるはずのない疑問が生まれた。

 

    あなたはこれまでに、あなたが見たり感じることで積み重ねてきた認識や見解を疑ったことがありますか。

    恐らくないでしょう。俺だって今の今までなかったんだから。あなたの目に写るものや感じたことの全ては、それがあなたにとって真実であり、答えなのだから。

 

    でも、もしかすると。それはあなたにとって正解に見えるだけで、傍から見れば全然違うものかもしれない。あなたが赤色に見えたものも、他の人からすれば青色だったり、白だったり黒だったりするかもしれない。ガラスとか鏡に写るあなたがこれまでに自分と認識してきた人の姿もあなたじゃないかもしれない。

 

    早い話、客観的視点を持つことは大事だよって話です。目に写るもの全てをそのまま信じるんじゃなくて、1度疑いの目を向けてみたらもっと世界は広がるんじゃないでしょうか。そんな話です。オチはないです。

 

    それじゃあ。