言葉の限界
突然ではあるが1つ宣言をしようと思う。
女性が好きだ。俺は女性が好きだ。
街を歩いているときには自然と通り過ぎる女性の顔を見てしまうくらい好きだ。タイプの人が前から来て横を通り過ぎて行ったならば進行方向を180度変えてしまいそうなくらい女性が好きだ。とにかくそれほど女性が好きなんです。
おっと身構えないでくれ。もう少し話を聞いてほしい。
突然の告白の対象にされた女性読者が嫌悪感のあまり通報しそうになる気持ちも分かる。しかしまだ続きがある。もう少し聞いてほしい。
俺は女性を見るとき、女性を性的対象として見ているわけではないということだ。ただ女性の中に芸術性を探しているだけなんだ。だから俺は「可愛い」よりも「綺麗」を好むし、「綺麗」よりも「美しい」を好む。
流行りのメイク、流行りのファッションでデコレイトされた女性よりも、化粧っ気はなくありのままで、さらにどこか独特の雰囲気を併せ持った女性がいいんだ。
そして極めつけは俺は女性とどうこうなろうとは考えてないということだ。
もし俺がすごくタイプの人と出会えて一緒に食事に行ける関係になり、食事に行くことになってお洒落なレストランでディナーを楽しんで、それでそのあともう1件どうなんて誘われて先程のお洒落なレストランから一転大衆居酒屋に連れていかれて酒を酌み交わし気付けば時刻は午前1時、終電もないからどこかに泊まることになって、着いたホテルのベッドで彼女が俺を誘惑してきたとしても…いや、その場合はどうこうなるわ。
しかし自分からどうこうなりにいこうとすることはまずない。それだけは断言する。俺は女性を眺めていれるだけでいいんだから。だから俺は君たち女性読者をただ見ることはあっても指一本触れはしないことを約束しよう。気持ち悪いのは認めるが危険性はない、信じてくれ。
前置きが長くなった。
とにかく俺は女性が、それも「美しい」女性が「芸術的観点から好き」だということだ。
そんな俺は普段SNSでフォローしている美しいモデルの方々を見て「はぁ美しい」とぼやいている。
しかし時たまに美しすぎて「っ!??!!」なんて具合になることがある。これを俺は言葉の限界と呼んでいる。
言葉というのは人間がコミュニケーションをとる上で、感情を伝える暗号のような働きをしている。
親しい人と別れる運命になり、胸が締め付けられるような思いを人は「悲しい」と表現する。愛し合う男女が子供を孕んだとき、人は「嬉しい」と表現する。これが言葉の役割。
しかしあくまで感情を表現しているだけに過ぎず、どれほど悲しいか、もしくはどれほど嬉しいかをそのまま伝えることができないのである。つまりどういう感情か伝えられてもその深さまでは伝えられない。
飼ってたハムスターが死んでしまって「悲しい」。外出中に家が全焼して家族全員と全ての財を失ったかと思えば、同時に日本経済が破綻してその影響でリストラされて「悲しい」。どっちも「悲しい」で表すしかない。
後者の「悲しい」はおそらく声も出なくなると思うがこれもつまり言葉の限界である。
先程お気に入りのアイドルをYouTubeで見ていたら、コメント欄に「カワイイ。カワイイよりカワイイ言葉があったらいいのに。」というコメントを見つけた。ひどく同感だ。
美しいより美しい言葉があればいいのに。副詞を用いて「悲しい」と「とても悲しい」に使い分けてもせいぜい二段階。人間の感情の深さをありのまま表現するためには言葉は何段階にならなければならないんだろう。