忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

遊ばれてるのはどっち?

 

    2003年頃から放送が開始された、「にほんごであそぼ」というNHKの小さな子供とその親を対象にした教育番組があった。

    小さかった俺も、例に漏れずその番組を見ていたが、心のどこかで「にほんごであそぼ」という番組名に小さな疑問を抱えていた。にほんごって遊ぶことも出来るものなのかと。

 

    それから歳を経て、「言葉遊び」という概念を知った。「言葉遊び」とは、言葉の持つ音や響きを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びのことらしい。

    しかし、この定義の枠を越えて、幼い頃親しんだしりとり等も「言葉遊び」の内にあるようだ。そう考えると、今俺がこうして趣味で文章を綴ってるのも恐らく「言葉遊び」に含まれるし、とにかく言葉を使って楽しみを覚えたらそれは「言葉遊び」になるんだろう。言葉は情報の伝達以外にも、遊ぶという用途もあるみたいだ。

 

    以上を踏まえて、今の社会を見てみると、「言葉遊び」は少ないように思う。例に挙げてたしりとりなんかも、恐らくもうやってる子供たちは随分少ないんじゃないだろうか。だって遊ぶものが他にあるから。おもちゃとか、ゲームとか、今だったら携帯でYouTubeを見たりとか。俳句とか川柳の最盛期が今よりも昔だったのも、そういう理由なのかもしれない。

 

    「言葉遊び」から離れていった結果、今の時代を生きる人間、特に若い世代の活字離れが著しい。当然活字離れは国語力の低下を招いた(ここで言う国語力とは、語彙力や漢字の識字率などをまとめた能力を総称したものとする)。

    だから若者は文章を読むことがなんだか難しいことのように感じてやらないんだろうし、そうすると言葉なんて使わないと忘れていくものだからますます国語力は低下していく。

 

    そうして低下していく国語力に合わせて、若者は自らで言葉を作り出した。それが略語。古いので言えばJK(女子高生、「女」と「高」をアルファベット表記に直して頭文字の「J」と「K」を合わせたもの)とか。

    それは若者の間で一大ムーブメントとなって、みんなその言葉を使ったし、今や「JK」は多くの人に通じる言葉となった。これはテレビ等でも取り上げられて、この頃から言葉に流行り廃りという概念が生まれてきた。

 

    人間は流行り廃りに弱い。なのに、言葉に流行り廃りという概念を自らの手で与えたから、その力に飲まれてしまった。

    街を歩けば、「エモい」「~説」「クセがすごい」ってみんなが同じ言葉を使って喋っている。中には「エモい」が造られた元の言葉も知らず使っている人もいるだろう。それでも使う。流行ってるから。気持ち悪い。まるで人が言葉に遊ばれてるみたいだ。