忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

ゆとりですがなにか?

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    昔、そんなドラマあったよね。岡田将生とか松阪桃李が出てるやつ。あれ好きだったなあ、俺。毎週水曜の楽しみだった。吉岡里帆は可愛かったし。

 

    でも、ごめん。タイトル詐欺みたいになるけど、今から書くことは全然関係の無いことなんだ。ネットの悪い所に出くわしたとでも思って、諦めて読み進めて欲しい。ブラウザバックは今回だけやめにしておいてくれ。これを糧にして、君が今後二度とこういうネットの悪い部分に出くわさないことを祈る。

 

    本題に入る。俺はいつも記事を更新したあと、後日改善点を探すために自分で書いたものを読み返すんだけど、読んでいて主張が毎回似てるなと感じる。個を尊重しようだとか、争いはやめて平和的に生きていこう、だとか。

   こういう思想はどこから来るものなんだと気になって、思考の川の流れを辿って辿って、その源を探した。

 

   そしてついに辿り着いて、わかった。俺の思想の源にあるのはゆとり教育だ。

   ゆとり教育と聞いて思い浮かぶのは、個性の確立とか、競争は手を繋いでみんな同時にゴールだとか。なるほど、俺はゆとり教育にギリギリそんなに触れていない世代だが、どうやらそれでも影響は強く受けているらしい。

 

    ただゆとり教育っていうものはあまり世間体が良くないらしい。よくおじ様おば様方が「これだからゆとりは…」なんてボヤいてるのを聞くし、ネットで検索窓にゆとり教育って入力して検索しても、ゆとり教育は何故失敗だったのかみたいな見出しの検索結果がたくさん出る。

 

    たしかに競うことで生まれる効果はたくさんあると思う。誰よりも高く評価されて抜きん出てやるっていう気持ちが、能力を高くする。やがてその能力はそいつの武器となる。レベルも上がって戦い方に幅がある。

    対して、競走とせずにぬるま湯に浸かり続けてきた俺達は、レベルも装備もそのままに準備完了なんて言って街の外へ出るようなもの。せっかく仲間が駆けつけたと思ったら足手まといが増えるんだから、そりゃボヤく気持ちもわかる。

 

    そう考えると、競わせることをやめた教育は失敗だったと思う。そして、ゆとり教育が失敗とされてからの世は、今度は逆にどんどん競わせるようになったように感じる。それまで競わせてこなかった時間を、取り戻すように競わせている。

    例えば、アイドル。最近のアイドルは大人数でやれ選抜発表だとか、人気投票なんて言ってグループ内で立ち位置を競わせている。グループとグループが競うのは、アイドルもビジネスなんだしまだわかるが、同じ志を持ったメンバー同士で争わせる必要は果たして本当にあるのだろうか?

    この文化が昔のアイドルにあったか?ピンク・レディーとかキャンディーズが何十人もいたか?選挙してたか?じゃんけん大会してたか?違うだろ?

 

    別に、競うことが悪いなんて思わないし、むしろゆとり教育が失敗と言われるのもわからないでもないし、どんどん競っていけばいいと思うんだ。

 

    たださ、競うことをやめる教育を俺たちにさせていたのも大人だし、ゆとり教育が失敗ってわかってから急いで競わせだしたのも大人なんだ。

    特に今競うことを強いられている世代って、アイドルでもそうだけど、まさにゆとり世代なんだ。大人が競わせないできて、いざ社会に出てからガンガン競わせて、挙句の果てに「これだからゆとりは」なんてボヤくってどういうことだよ。俺達が何をしたって言うんだ。大人ってゆっても一部の人間が決めただけで、俺がそうさせたわけではないなんて言うけどなあ、俺たち子供から見たらみんな一律同じ大人なんだよ。

 

    ゆとり世代のみんな、ボヤかれたり期待はずレベルもみたいな目で見られること、たくさんあるけど、俺たち何も悪いことしてないよ。そうさせてきたのは全部大人のせいなんだし、これだからゆとりは、なんて言われたら、いっそ開き直って言ってやろうな。

 

    ゆとりですが、なにか?って。