忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

勝手な線引き

 

    ニュースで凄惨な殺人事件を見たり、どこかで災害が起きていることを知ったり、貧困国の現状を訴えかけられても、 俺は「それはお気の毒に」としか思わない。でもそう思うのにも理由がある。

 

    先日、新潟の方で強い地震があったらしい。新潟は行ったこともない言わば知らない土地だけど、1人知り合いが住んでいる。正直なところ、その知り合いが新潟もしくはその付近の県に在住していたら、いつものように特に気にも留めないニュースだったと思う。だけど知り合いがいるから、心配になった。まあ、無事だった報告をしていたので、胸を撫で下ろしたが。

    知らない場所で、知らない人が何か良くないことに見舞われたのを知っても、いちいちそれに心を痛めたり深く悲しんでいると、俺の気が持たない。

 

    いろいろな感情に、ゲームで言うところのライフとかスタミナみたいなものがあるとする。わざわざ出向いた好きなラーメン屋が臨時休業だった、悲しさ-5。宿題をやったのに家に忘れて怒られた、悲しさ-10。最愛のペットが死んだ、悲しさ-50。上限は100。そんなふうに悲しさの度合いによってライフの消費具合が違う。もちろん消費したライフは少しずつ回復していくが、消費しすぎてライフがゼロになったら何も出来なくなる。コストオーバー。

    まあ、何も出来なくなるってのは言い過ぎで、本当はライフがゼロの時に本当に悲しいことがあっても気持ちがついてこないみたいな、そんな感じ。3年前に大好きだった祖母が亡くなった。それが俺の人生で初めての身近な人間の死で、悲しいんだけど悲しすぎて、ライフ上限100なのに、消費ライフが5000くらいありやがるから、ライフ満タンなのにコストオーバーで悲しいはずなのに涙が出ないしあっけらかんとしていた。

 

    そんな風に、なんでもかんでもに悲しんだりしてライフを消費し続けて、本当に自分にとって悲しいことが起きたときに、ライフが底をついててコストオーバーみたいなことになりたくない。それは本末転倒というやつだ。

    だから俺は、知らない場所で知らない人が何か良くないことに遭っても、それに対して特に悲しんだりもしないし、心を痛めたりもしない。そういうバランスの取り方をしている。本当に優しい人はライフが無尽蔵にあってありとあらゆる悲しいことにそれぞれの消費コストを投じて悲しんだりできるんだろうけど、俺のライフの上限は100だ。もしかしたら普通の人よりも少ないのかもしれない。

 

    まあ理由はあるにせよ、これが良くないことであるのも事実なんだけど。この考えを否定されても、確かにそうだよなって思うよ俺は。ただ俺はこう考えてるんですって知ってもらいたいだけ。否定も肯定も納得もいらない。どんだけ否定されようが、この考えが変わることはない。逆にどんだけ同意されても、この考えに自信を持つわけでもない。ただ知ってくれたら、それでいいんです。

    こんな風に勝手に線を引いて、線より外にいる人には本当に無関心な俺だけど、線の内にいる人の悲しみとか喜びとかそういういろいろな感情を、まるで自分のことのように分かち合いたいなって思ってるよ。