忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

自分勝手に生きてくれ

 

    解決することはないだろうけど、言うだけ言ってみよう。聞いてもらうだけで気が楽になるかもしれない。そう思いながら、俺は自分の悩みを打ち明けてみた。

 

    「自分のことがわからない。自分が今、何がしたくて何がしたくないとか、そういうことがわからない。多分人のために生きてきたからだと思う。人がしたいことに合わせる生き方をし続けてきた内に、自分の気持ちを抑圧するのが癖づいて、今じゃもう、自分が何したいとかそういう気持ちを最初から持たないようになってしまっているのかもしれない。」

 

    そう言うと、相手はこう言う。

 

    「人のために生きてきたなんて言うと大層聞こえがいいけど、俺が思うにお前のその生き方は別に人のために生きてるわけじゃないと思うよ。人に合わせるのって結局、自分で選択するということを放棄しているということだと思うんだ。後から何か不都合が起きた時には、あの人に合わせただけって逃げれるからだよ。」

    

    そう言われてハッとした。確かにそうかもしれない。これまで俺は、責任を放棄して逃げ道だけを確保した生き方を、「人のために」なんて言う聞こえのいい言葉で誤魔化していたのかもしれない。

 

    そもそも、人は人のためだけに生きれたりしないんじゃないかと思う。人間はやっぱり自分が1番可愛いし、あなたの周りのどんなに優しい人の行いだって、一見相手を思ってのことのように見えてそこには何かしら自分の利があるのかもしれない。人からいい人だと思われたいみたいな、そういう利が。

 

    別に他人に同情したりとかすら出来ないなんて話をしているわけではない。親しい人の不幸に自分も同様に胸を痛めたりすることがあるし、親しい人が悩んでたり困ってたりしてたなら力になりたいと思うことだってあるだろう。

    ただ、そういう時に相手と同じ気持ちにまで至るということが無理なのではないかということだ。例えば、あなたの最愛の人が飼ってる犬が亡くなってしまい、その人はきっと悲しみに包まれるだろう。その姿を見て、あなたも胸を痛めるが、その人と同じくらいに悲しむことは可能だろうか?あなたからすれば、自分が飼ってるわけでもない人が飼ってるだけの犬の死に、飼ってた人と同じくらい悲しめるだろうか?

 

    つまりそういう事なんだ。俺にも今まで特に気の許せる友人や、好きな人が何かに悩んでたり傷ついていたりする姿を見て心を痛めた経験はある。しかしその時の俺はどこかそれを客観的に見て悲しむような、ちょうどドラマや映画などを見て心動いているような、そんな状態だった。

    その時の俺はなんとか悲しみを和らげてあげられやしないだろうかと持てる力の全てを尽力したが、今思えばあれはきっとその人の為にと言うよりは誰かの役に立ちたいという承認欲求を満たすという自分の利に従っていたのだろう。それでもその人は、後になってその時のことを振り返ってあの時はありがとうと言ってくれる。

 

    今までの俺は、悲しんでる親しい友人達を見る時、こんなにも親しいのに同じ気持ちで悲しみを持てない自分はきっと淡白で冷徹な人間なんだと自己否定してきた。俺以外にもそういう人は結構多いのではないかと思う。

    しかしだ。確証は持てないが、相手と同じ気持ちにまで至らなくとも、誰かの役に立ったり誰かを救うことは可能なんだと思う。話なら聞くよ、って言ってあげたり、いつでも力になるからねと声をかけるだけで人はきっとその言葉に救われるだろう。俺も自分が落ち込んでいたり悲しんでいる時にそういう言葉に救われた経験がある。それはポーズでいい。そこにあるのが相手を思う気持ちだけでなく、自分の利が混ざっていようと。それを相手が見抜くことは出来ないし、相手はそれでもきっと喜んでくれる。

 

    どうか、みんな、人を思いやりすぎて自分まで潰れてしまわないでくれ。人よりもっと自分のことを大事にしてくれ。誰かの力になったり、誰かを救うことは案外簡単だから。だからどうか、もっと自分本位に、自分勝手に生きてくれ。