歩
年々、もうこれ以上生きたくないなと思う頻度が増えてきているような気がする。数日前も、そうだ。
生きる意味を失うと、死にたくなる、というよりかは生きることをやめたくなってしてしまう。どちらも同じようではあるが、死を望むことと、生きることをやめたくなることでは大きく違う。結末は同じでも、結末自体を求めるか、その結末の前提を求めるかという話だこれは。
今までも、幾度となく生きることをやめたくなったことがある。それは、他者からの自己に対する敵意や嫌悪感に気付いた時だ。
生きるということは、それに伴う何か大きな目的が必要だと思う。富を築きたいでもいいし、名声が欲しいでもいいし、なんだっていい。ただ漠然と生きてるだけなんてのは、生きてるに値しないとすら個人的には思っている。
俺は、俺という存在をなるべく遺したいから生きている。それは、歴史の偉人のように教科書に名前が載っていて、多くの人間がただ名前を知っているというような、ぼんやりとした認識ではない。
俺という存在を、人間性を、思考を、その全てを知って欲しい。そして全てを知ったうえで、それに好意を抱きながら認識して欲しい。
ただ、それを多くの人達に対して遂行することは難しく、ならせめて、周囲にいる大好きな人達くらいにはそうであってほしい。
だから、俺はその人たちに好きになってもらうために生きている。その為になら、なんだってする。
数日前、その大好きな人達の内の1人に、どうやら俺は嫌われてしまった。その瞬間、生きる意味を喪失した気がして、もう生きる意味なくなったな、生きるのやめたいなと思った。
やりたかったこととか成せなかったことをリストアップして、それ全部出来たら死のうと本気で考えていた。
見てみたい景色とか行きたい国とかそういう具体的なことはいろいろと浮かんできて、遂行するにも簡単なように思えた。しかし、やはり最後に俺は、愛する誰かに俺の全てを知ったうえでその俺を愛してくれて、その人の心に刻みたいと思ってしまった。
下唇を噛み締めて、声を押し殺して泣いていると、まだチャンスは残されてるじゃないか、と心の中で誰かがそう言った。
そうだ、その通りだ。たしかに好きだった人に嫌われてしまったということは、身を削がれるように辛いことだが、まだ1人じゃないか。俺にはあと何人愛する人がいる?まだまだたくさんいるじゃないか!
その中の1人に俺の全てを知って俺を愛してくれる人が現れるまで、俺にはまだ生きる意味が残されている。まだまだ生きていける。
大丈夫、俺はまだ歩ける。立ち止まることはあったって、この先何度だって歩いていける。