忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

人生なんて一発ギャグ

 

    子供の頃なんて、きっと誰でもイタズラしてしまうもので、俺も例に漏れずにイタズラしてはよく怒られて泣いていた。自分が怒らせるようなことをしているだけなのに、勝手に拗ねて親と距離をとりテレビの前に一人座っていた。

   でも子供なんて単純で、次第に興味はテレビへと移り、泣きながらも目はテレビへと向いていて。それで、少しでもおもしろいことがあると、涙は止まり、自然に笑みが零れる。

 

    それから少し年月は経って、中学生になった。中学生と言えば、気遣いとか遠慮が少しくらいはできて、少なくとも泣くほど悲しいときにテレビを見て面白かったら涙が止まって笑えるほど子供ではない。

    そんな中学生の頃に、当時付き合っていた彼女とやむを得ない事情で別れることになった。俺は泣きながら電話の向こうでごめんって言う彼女に、少しでも自分を責めて欲しくないから明るいトーンで仕方ないよなんて言って笑って電話を切って、そしてめちゃくちゃ泣いた。

    思春期だったから恋愛の話も家族としたくなかったし、自分の部屋に閉じこもってずっと落ち込んでた。切り替えねばと思って、テレビをつけてたけど涙は止まらなかった。でも、しばらく無心で見ていると、お笑い芸人が一発ギャグかなんかしたのが、それがあまりにもくだらなくて、気がつけば少し笑ってしまった。その時、お笑いってすげぇ、そう思った。

 

    そういうことがあって、それ以来お笑いが好きになった。本当ならこういう過去があると人はお笑い芸人になりたいとか思ったりするんだろうけど、別にそんなことはなくてただお笑いが好きになっただけ。でもお笑いが好きになったのは事実で、テレビでお笑いの番組とか賞レースは結構欠かさずに見ていた。

    すると今度はお笑い芸人になりたいとまでは思わなくても、なにかおもしろいことをしたい人を楽しませたいと思うようになってきて、気付けば俺はいつも冗談ばかり口走っていた。ただ俺が笑ってもらおうと思って言うことの大体はつまらないし、周囲の人はめんどくさかっただろう。そして、俺はそれに気付けないでいたし、なんなら自分の笑いのセンスは良いと勘違いしていた。それが一番笑えるな。

 

    俺が好む「笑い」というものは、なにかマイナスな或いは負の感情めいたものを陽気で明るいものに変えれる物だった。例えば、ブサイクをウリにして笑いを誘う芸人。ブサイクは美醜の醜にあたる。美醜という字は、反対の意味を持つ漢字の組み合わせで形成されるタイプの熟語で、美が良いものとするならば醜は悪いもの。しかしそれをあえて笑いに変える。所謂自虐ネタって言うやつだ。

    自分では好きになれない、もしくは世間一般的にコンプレックスだとされるものであえて笑いをとるということは、そこに人を楽しませるものという意味が追随されるということ。それってまさしく俺が好む笑いだ。そういうわけで俺はよく、DVを受けた過去とか、わりとめちゃくちゃな家庭環境(世間的にはってだけで俺にとっては普通なのだが)とかを自虐気味に語ることで人に笑ってもらおうとした。笑ってもらうことで、それを辛い過去ということにせずいっそ愉快な物にしてやろうと思っていた。

     俺が辛そうなとき、不幸の中にいるときにそれを笑えって言うのはそういうことなんです。

 

    そうそう、何度か事故にあった話を他の記事でもしましたね。去年の春に死にかけて、それから一年入院して。泣きながら飯を食って、痛い思いも何度もして。ずっとベッドの上で動くことも出来ずに天井を見ながら過ごす病院の個室は広すぎて、流れる時間も遅くて。右の人差し指は曲がったまま固まってしまって。元から下手だった字が、さらに下手になって。麻酔から目を覚ますと、ふくらはぎの当たりがぽっかりなくって。アキレス腱を摘出したんだって。それによってもう走ったりすることは一生出来ないらしく。でもそれ以来よくスポーツしてる夢を見るんだ。あんなにスポーツ嫌いだったのに。夢の中で走ってたらそのまま目が覚めて、その感覚がリアルに体に残ってるから汗をかいていて。シャワーを浴びようと起こした俺の体は、残っている夢の中で動き回ってた体の感覚とは全然違くて。ちょっとした段差を恐る恐る降りなきゃならないくらいで。そういえば今度、身体障害の適性試験を受けることになった。偏見とか持ってるわけじゃないけど、健常者として生きてきた俺には、その試験を受けることで訪れる大きな変化が少し怖い。とかなんとか言ってるけど、悪いのは全部俺なんだ。そもそも生きてるのが奇跡ってくらいの傷を負って、診断書もらったら症状が5回も改行されてやんの。なのに今生きてて普通に麻雀とか打ってんの。曲がった指で。ウケる。

 

    笑え。笑ってくれ。

 

    もちろん良いことも幸せなこともたくさんある俺の人生だけど、今のところもう1つの方との対比はまだまだ負けていて。これからどんどん変わってくだろうけど、今までがこれじゃこれから良いこと幸せなことがどんどん訪れて対比が覆る!なんてことは少し想像しにくい。となると、俺の人生は二つに一つで言えば不幸なものなのかもしれない。

 

    俺が死んだときはみんなたくさん笑ってくれ。俺の人生という、この自虐気味の一発ギャグを。どうか笑ってくれ。

How to 洗脳~洗脳の手引き~

 

    例えば、あなたの友人が気まぐれにいい部分を見せました。2人でコンビニに寄ってあなたはジュースを、友人はピノを買いました。コンビニから出るなり、ピノを開ける友人。1つを口に運ぶと、続け様にもう1つとってそれをあなたの方に向けて言います。

 

    「1個いる?」

 

    あなたは少し面食らいながら「ありがとう」、そう言ってピノを食べる。面食らったのは、その友人がそんな優しさを見せたのが初めてだったから。その友人に会うのは久しぶりで、しばらく会わないうちに変わったのだろうか?だとしたら、いい変化だ。これからもそういう優しさを持ち続けて欲しい。でもこれがもし気まぐれだったら。それは少し残念だ。

 

    じゃあ洗脳しよう。

 

    もしかしたら気まぐれっていう線もまだあるから、いっそその友人をいつもピノ1個くれる人間に書き換えてしまおう。方法は至って簡単。こう言うだけ。

 

    「6個しかないのに1つくれるなんて優しいね。」

 

    するとそいつは、ピノくれたことが気まぐれだったとしたら、それを褒めてもらえて嬉しく思うだろう。ピノ1個あげるだけでこんなに褒められるのか、と感じた友人はそれ以降あなたの前でピノを食べるとき、「1個いる?」と聞くようになります。その度にあなたは彼のその優しさを讃えましょう。そしてしばらくそれが続くと留めの一言。

 

    「お前はいつもピノを1つくれるよな。ありがとう。」

 

    はい、これで洗脳完了。それからはそいつ、褒めなくても必ずピノを1個くれます。もうその友人は勝手に自分のことをあなたに必ずピノを1つあげるやつと認識した。言葉のパワーって怖いよな。簡単に人を変えてしまうんだ。みんなも言葉の持つパワーに自分を変えられた経験はありませんか?俺はあります。

    大体いつも、「あの子気になるんだよな」って誰かに言ったら、実際は別に気になってなかったのにそれ以来気になってしまうし、まだ好きじゃないのに「好きかもしんない」って言うと、知らぬ間に好きになってる。それで付き合った人とは、別れてから俺は本当にあの子が好きだったのだろうか、と首を傾げる。これ、完全に自分が言った言葉に洗脳されてる。

 

    洗脳なんて言っても、たかがこれくらいのことかよ。そう思う人もいるでしょう。好きなあの子を思うように操りたかったですか?嫌いなあいつをめちゃくちゃにしてやりたかったですか?でも、ごめんなさい。洗脳なんて実際はこんなものなんです。そもそも、こんなこと書いてる俺が言うのもなんですけど、洗脳なんてしたらダメなんですよ。だから絶対、「困ってるときにお前はいつも俺を助けてくれるよな。」なんて言って、そいつを助けてくれるやつに洗脳して、困ったふりして金を借りるなんてしたらダメですからね。念押しもしたので、今回はこの辺りにしておきます。次回、How to 消息の絶ち方です。サヨナラ。

なんでもかんでもアンチって言うのやめろ。マジで。

 

    友達からさっきLINEがきた。なんかやけになんでもかんでも悪態つくから、お手本みたいにやさぐれてるなって思ってたんだ。最近起きた良くなかったことのあれこれに関しての愚痴はまあわかるんだけど、しまいには全然関係ないことにまで悪態つき始めて。

    俺とその子は同じアーティストが好きで知り合った。でも今はお互いそのアーティストからは少し離れてて、正直なところファンと言うほどの熱量は既になく冷めてしまっていた。で、その子がそのアーティストのことをめちゃくちゃに悪態突き出した。だから俺は言ったんだ。仮にも昔ファンだったとは思えんくらいの言い草だな、もはやアンチだろって。そして言ってから思った。

 

   いや、それってアンチか?

 

    よーく考えてから思ったんだけど、それってむしろひとつの意見なんじゃないだろうか。否定的な意見だから傍からはアンチに見えるだけで。もしかして昔好きだったからこそ、今こうして言ってるんじゃないだろうか。思い返せば、俺も好きだから、好きなアーティストとかバンドに対して否定的な意見を言った憶えがある。

 

    俺が好きなサブカルっていうジャンルの音楽は、名前に「サブ」がつくくらいだから、狭い領域だ。そんな狭い領域で好きになったバンドも、どこかで人気に火がつけばメジャーへと行ってしまう。俺はあのバンドの昼ドラみてえな汚いラブソング歌ったりするリアルさが好きだったのに、メジャーに行ったら大衆にウケるように少女漫画みてえな綺麗なラブソング歌ったりされる。あんないいバンドが人気じゃないなんておかしいってずっと思ってたけど、こんな形でみんなに知って欲しいなんて思わなかった。むしろ、みんなが今見てるそのバンドはもう今まで俺が好きだった姿と全然別物で、こんな形で知られるくらいなら売れないで欲しかった。だから俺は言う。メジャーに行って大衆ウケ意識するようになってから良さが消えた、って。

 

    最近はなんでもかんでも、バンドのやることなすことに全部脳死で肯定するような盲目なファンが多いせいで、ちゃんとした意見でも否定的だったらすぐにそれはアンチということにされる。むしろなんでもかんでも肯定してる方がバンドを殺してることにまだ気付かないのか。

    バンドが理想の音楽やってそれで食ってけるならいいよ。ただ、そうじゃないときは、どうしたらもっとたくさんの人に聞いてもらえるかってバンドがいろいろ試行錯誤して、それをきちんと評価するのがファンの役目だ。自論だけど、音楽はバンドとファンが協力し合って生み出してくもんだ。

    それをなんでもかんでも肯定してたら、バンドが方向性見失ったり、道間違えてることに気づかなかったりする。ただでさえ食ってくのが難しい音楽業界で、いい歳まで音楽の夢追ってそれで叶わなかったやつはもう実家継ぐかフリーターしか残されてねえぞ。バンドのことほんとに思うならきちんと評価しろ。バンドを殺すな。マジで。

    否定的な意見も肯定的な意見もちゃんとバンドに伝わるようにわかりやすくリアクションをとれ。ちゃんとバンドのこと思って伝えた否定的な意見なら、バンド側も傷ついたりせずに真摯に受け止めるから。だから、盲目にならないでくれ。バンドのこと思ってありのままのリアクションを伝えろ。曲があんまりだったらどこがどうあんまりかちゃんと言え。否定的な意見をなんでもかんでもアンチの一言で済ますな。

 

  今後の音楽業界がいいリスナーで溢れますように。

句読点をつけるのがヘタ

 

    なんかの記事書いてて、書き終わったから一応見直ししとこうと思って見返すと、いつも文章が長いことに気づく。マジで意味わからんくらいひとつの文章が長い。

    それは俺がやたらと読点をつけるからだ。読点って言うのはアレだ。文章を読みやすくするためにつける点でこれ「、」のこと。俺はどうやら読点をつけるのが好きなのかやたらと読点をつけてしまう。

 

    読点は文章を読みやすくするため以外にも、強調したりすることにも活用できたりする。読点は文字の世界にしかないものであって、現実の話し言葉では読点の代わりに間を作ったりする。

    そもそも話し言葉に於いていちいち間を作って話さなくても普通に相手には伝わるんだけど、それでも間を作るとそれは強調しているように感じる。少しの間が「今から大事なこと言うぞ」みたいな意思表示のように思える。だから書き言葉では「実は」の後に大体読点がついてる(って勝手に思ってる)。「マジでだるい」と「マジで、だるい」だと後者の方がダルそうに思えませんか?読点にはそういう働きもある。

 

    ただ文章を読みやすくする以外にもこういう使い方で読点をつけてると、マジで文章が長くなる。あと、俺は句点を付けるのは文章だけでなく内容にも一段落ついたときにしかしないので、そうなってくるともういよいよ文章の長さがバカ。それを踏まえて意識せずに前あった少しの出来事を文章にしてみる。

 

    「昔駅のホームで電車を待ってたら、小さい男の子が俺の方にやってきて『今外すごい雨降ってるよ』って言ってきたので、どちらかと言えば小さい子でも人見知りする俺なんだけど、さすがに小さい子を無視するわけにも行かないと思って、『マジで?教えてくれてありがとう!優しいね!』って精一杯の笑顔で話してたら、その子のお母さんらしき人がやってきて、俺はてっきり『すいませんウチの子が』なんて言われるんだろうなと思って、『いえいえ、可愛いじゃないですか』くらい言ってやろうと思ってたら、『やめてもらえませんか』って一言ピシャリと言われたんですけど、いくらその時の俺の見た目が赤髪だからって、さすがに酷いと思いません?」

 

    これがひとつの文章。ノー句点。意識して書かないとこうなるって言うのがヤバい。文才がないとかもうそういうレベルじゃない。文章書かないほうがいいってレベル。いや、マジで。

    別に話にオチがつかないと句点つけたらいけないなんてルールはないんだし、もっと句点付ければいいと思う。駅のホームで電車待ってたら小さい子に話かけられた、っていうところまでで1回切ったらいいのに。いや自分のことなんだけど。なんで出来ないんだろうな。

    綺麗に終わるところまでじゃないと句点をつけないし、代わりに読点をつけるなんてしてもいくら文章を読みやすくする読点でも限界はあるし、かえって見にくくなってしまう恐れもある。そんな文章は誰も読みたくならないし、実際のところ読まない。句点と読点のことを合わせて句読点なんていう言葉があるくらいだし、句点と読点の数もほとんど同じくらいになるべきだ。ひとつの文章に句点と読点が共にひとつみたいな。今の俺は句読点じゃなくて句読読読読読読読読読読読読読読読読点なんて感じだ。

 

    人生を語るにはまだまだ浅い歳だけれど、これは生き方にもそうなんじゃないかと思う。これまでの出来事も全部地続きで、これまで起きたあれこれに句点ではなくて読点をつけてる気がする。だから昔起きた嫌なこと全てにまだ気持ちは晴れていない。逆に今まで経験したいいことと今を比べたりして「あの時の方が楽しかったな」なんて思ったりしてうまく楽しめないこともある。句読点をつけるのが下手はすなわち生きるのが下手なのかもしれないな。

    まずない話だけれど、俺の今までの人生を誰かが本にしたとしたら、最後の死ぬっていうオチでようやく句点がついて、それまではずっと読点しかない読みにくい本になるんだろうな。

 

    句点、つけなきゃなあ。

勝手な線引き

 

    ニュースで凄惨な殺人事件を見たり、どこかで災害が起きていることを知ったり、貧困国の現状を訴えかけられても、 俺は「それはお気の毒に」としか思わない。でもそう思うのにも理由がある。

 

    先日、新潟の方で強い地震があったらしい。新潟は行ったこともない言わば知らない土地だけど、1人知り合いが住んでいる。正直なところ、その知り合いが新潟もしくはその付近の県に在住していたら、いつものように特に気にも留めないニュースだったと思う。だけど知り合いがいるから、心配になった。まあ、無事だった報告をしていたので、胸を撫で下ろしたが。

    知らない場所で、知らない人が何か良くないことに見舞われたのを知っても、いちいちそれに心を痛めたり深く悲しんでいると、俺の気が持たない。

 

    いろいろな感情に、ゲームで言うところのライフとかスタミナみたいなものがあるとする。わざわざ出向いた好きなラーメン屋が臨時休業だった、悲しさ-5。宿題をやったのに家に忘れて怒られた、悲しさ-10。最愛のペットが死んだ、悲しさ-50。上限は100。そんなふうに悲しさの度合いによってライフの消費具合が違う。もちろん消費したライフは少しずつ回復していくが、消費しすぎてライフがゼロになったら何も出来なくなる。コストオーバー。

    まあ、何も出来なくなるってのは言い過ぎで、本当はライフがゼロの時に本当に悲しいことがあっても気持ちがついてこないみたいな、そんな感じ。3年前に大好きだった祖母が亡くなった。それが俺の人生で初めての身近な人間の死で、悲しいんだけど悲しすぎて、ライフ上限100なのに、消費ライフが5000くらいありやがるから、ライフ満タンなのにコストオーバーで悲しいはずなのに涙が出ないしあっけらかんとしていた。

 

    そんな風に、なんでもかんでもに悲しんだりしてライフを消費し続けて、本当に自分にとって悲しいことが起きたときに、ライフが底をついててコストオーバーみたいなことになりたくない。それは本末転倒というやつだ。

    だから俺は、知らない場所で知らない人が何か良くないことに遭っても、それに対して特に悲しんだりもしないし、心を痛めたりもしない。そういうバランスの取り方をしている。本当に優しい人はライフが無尽蔵にあってありとあらゆる悲しいことにそれぞれの消費コストを投じて悲しんだりできるんだろうけど、俺のライフの上限は100だ。もしかしたら普通の人よりも少ないのかもしれない。

 

    まあ理由はあるにせよ、これが良くないことであるのも事実なんだけど。この考えを否定されても、確かにそうだよなって思うよ俺は。ただ俺はこう考えてるんですって知ってもらいたいだけ。否定も肯定も納得もいらない。どんだけ否定されようが、この考えが変わることはない。逆にどんだけ同意されても、この考えに自信を持つわけでもない。ただ知ってくれたら、それでいいんです。

    こんな風に勝手に線を引いて、線より外にいる人には本当に無関心な俺だけど、線の内にいる人の悲しみとか喜びとかそういういろいろな感情を、まるで自分のことのように分かち合いたいなって思ってるよ。

人生はパチスロ

 

 

    その昔、パチンコスロットに頻繁に通っていた時期があった。パチンコスロットをやったことのない人にわかりやすく説明すると、何百分の1とかの確率で設定されてる当たりを的中させれば、メダルやら玉やらがジャラジャラ出てくる。そしてそれを景品に交換すると、外でそれを現金で買う物好きがいるプレハブがあってそこでお金に替えてもらう仕組み。

    海外とかのカジノみたいなスロットもあるけど、大体はアニメとかをモチーフにしたゲームみたいに出来てて、楽しみながらお金儲けすることができる(こともある)ので、その旨味を覚えるとなかなか抜け出せなくなって依存してしまう。

 

    俺も依存していた人間の1人で、よく負けが込んでくると「ヤバい…今金スると次の給料日まで過ごせない…でもここでフリーズさえ引けば負けを返せる…!」とか思いながら打ってた。もはやゲーム性を楽しむなんてことはしてないどころか、俺がやってたソレは完全にギャンブルだった。額こそ違えどカイジになった気分だった。鼻と顎が尖りだして、周りの台のメダルが出る「ジャラジャラ」という音が「ざわざわ…」に変換されて聞こえた。

    フリーズというのは、スロット台の種類によって違うが大体の台に搭載されてるシステムだ。確率が何万分の1とか、とにかくめちゃくちゃ薄い確率で起きる強制フラグで、かわりに引けたときの恩恵はでかい。メダルがジャラジャラ出てくる。だから負けが込んでくると、引けもしないフリーズを意識しだす。

    引けないというか、引きたいときに引けるもんではない。ただ待ち合わせの時間までに空き時間があって暇つぶしに店に入ってぼーっとしながら打ってると引いてしまったりする。それで結局、回収に時間がかかって待ち合わせに遅れたりするんだけど。

 

    パチスロを長いことやってフリーズを何回も経験すると、何万分の1とか何十万分の1とかの確率も引いたことがあるにはあるので、それは引ける数字だと思えてきてしまう。パーセントに表すなら1/10000も0.01%。普通の人ならそんな数字、ないようなもんじゃんってなりそうなものだけど、我々スロッターからするとこの数字はめちゃくちゃあるほう。これなら引けるとか思ってしまう。

 

    話は変わって、入院していたときのことだ。ある検査で少し強い薬を投薬する必要があった。その薬は人によっては副作用が出るので、前日に同意書にサインを求められた。同意書とは言いつつ、書かなきゃならないんだけど。書かないと検査受けらんないし。正直なところ、自分にあんまり関心がないから、副作用とかどうでも良くてすぐさまサインしようとしたけど、ちゃんと目を通してとか言われるのが目に見えたので、一応しっかり読んだ。こう書いてあった。

 

    吐き気、動悸、頭痛、かゆみ、くしゃみ、発疹などが出ることがあります。このような副作用の起こる確率は100人につき5人以下(5%)です。

    呼吸困難、意識障害、血圧低下、腎不全などが起こることもあります。このような副作用の起こる確率は、約6000~9000人に1人(0.01~0.02%)です。また、病状・体質によって約10万人~20万人につき1人の割合(0.0005~0.001%)で死亡例の報告もあります。

 

    死ぬって思った。

 

   スロットをやっていた俺からするとこれは限りなく有り得てしまう数字。あれだけ可愛く見えてた看護師さんとかもうなんか全員が怖く見えた。白衣の天使?ざけんな!!地獄の案内人じゃねーか!死んだら毎晩化けて出てやるからな!生きてられても退院してからひたすら看護師のネガキャンしてやるからなクソが!

 

    とか思ったけど、そんなこと言えないし俺は大人しく震える右手でサインしたんだけど。

 

    それから、冷静になって考えたんだけど今までスロットで引いてきた限りなく薄い確率で起きるフラグは1日に何千回もレバーを叩いてやっと起きることだっていうことに気づいた。たったの1回でそんなに薄い確率を引き当てたことはない。あれ、これってもしかして…。

 

    生きれるじゃん。

 

    そう思ったらなんか気が楽になってきた。近くを男の看護師の人が通って、その人もスロットやるみたいでたまにスロットの話をする人なんだけど、冗談っぽく、

 

「聞いてよ〇〇さん、明日の検査で使う薬、この確率で死ぬらしいんだよ!これスロットやってる俺らからしたら充分に死ぬくない??死んだらみんなにありがとうございましたって言っといてよ!」

 

    とか言った。笑いながら。そして次の日検査に行った。結論から言う。

 

    吐いた。血圧低下した。目眩もした。

 

    同意書にあった副作用の軽い副作用と重い副作用の間くらいの症状を1発で引き当てた。危なかった。俺は生まれつき運が悪いほうだからこれで済んだけど、もし運が良かったら引いていたかもしれない。死のフリーズを。

 

 

あっ、ファン繋がりやめたい!と思う瞬間3選

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    Twitterで毎週日曜日になると見かける、#日曜日だし邦ロック好きな人と繋がりたいっていうハッシュタグ、見るたびに「は?」ってなるんですよ。俺バカだけど学習能力くらいはあるし、毎週見てると慣れてもおかしくないはずなんだけど、慣れる気配がない。日曜日になる度に「は?」って言ってる。

 

    共通の趣味を持った知り合いほしいよな、わかるよ。俺なんて好きになる音楽が大体サブのカルチャー略して「サブカル」なんて呼ばれたりしてるくらいだから、余計に実生活で近い趣味を持った人に出会えたことがない。「シェア&いいね!」のこの時代にシェアが出来ない。俺だけシェアという機能が実装されてない。仕方が無いので、シェアしたい気持ちを「いいね!」を押し続けることで紛らわせている。

 

    すいません    6月16日

    ★★★            こたろー

    何故か僕にだけシェア機能が実装されません

    シェア機能追加のアップデートはきますか?

    デベロッパの回答

    きません。

 

    俺の実生活にシェア機能を実装するアップデートは来ないらしいので、そうなったらもうネットの世界に逃げるしかない。「ネットの世界で、俺は趣味友達を作る!」そう言って俺は、ワンピース(趣味友達)を求めてネット・ブルーを行く。

    勝手な憶測だけどみんなもそんな感じだと思ってます。そういうことにしておきます。

 

    ただ、実際俺はネットで共通の趣味を持った友達、俗に言うファン繋がりが出来てから感じたんだ。

 

     「なんか思ってたより良いもんでもないな。」

    「てかむしろファン繋がりダルいまであるくね?」

    「ワンピースいつ終わんの?」

 

    前振りが長くなったけど、この記事はこれからネットでファン繋がりを作ろうとする人に、俺が今までに経験したファン繋がりが面倒くさくなった事例を説明して、それを反面教師にしてみんながいいファン友達を作ることを目的とした教科書です。是非参考にしてください。そしてシェア機能が実装されてる方は是非これをシェアしてください。

 

事例1:ファンが盲目

    これはちょっと勝手な俺の意見だけど、俺はファンのあるべき姿というのは、そのアーティストが好きなことは前提として、それでいて正当に判断する目を持っているべきだと思っている。なんでもかんでも肯定するのは、むしろその好きなアーティストの為にもならないと思う。ちゃんと言ってやれ。「買うのは買うけどグッズマジでダセェぞ、デザイナーに力借りるとかしろ」って。

    俺は大森靖子が好きなんだけど、あの人最近ZOC実験室とかいうアイドルグループ始めて。さすがに応援できない。今までの靖子ちゃんの「ギター1本で!この声と私の全てを!届けてやる!」みたいな人が今は「ZOC♬ZOC♬みえてくる♬」とか言って踊ってんの。若い女の中で。既婚の子持ちが。キツい。

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    靖子ちゃん好きでZOC実験室も好きだよ!っていう人がいてもいいとは思うんです。感性なんて人それぞれだし。でも本当に今までの大森靖子さん見てた?ちょっと盲目的になってるんじゃない?とか思うわけです、俺は。それに、あまりにもZOC実験室でアイドルの顔をする靖子ちゃんを応援する声が多いので、いよいよみんなが盲目になってるようにしか思えなくなってきて、なんだか俺は少し失望してしまって、大森靖子ファン繋がりから消えました。靖子ちゃんの音楽は以前として好きだけど。

 

事例2:単純に疲れてくる

    ネットの中のものとは言えども、結局ファン繋がりも人間関係のカテゴリーの内にあることには変わりがない。みんなも現実世界で人間関係とかいうライアーゲーム、やってるわけじゃないですか。だから知ってるでしょ?あれのダルさ、めんどくささ。

    ファン繋がりを続けてると次第によくコミュニケーションとる人たちでグループが出来てきて、ライブの会場とかで会ってるうちに面識が増えて密接に関わり出すと、ネットだけでは知り得なかった嫌な部分とか見えてくる。それでだんだん好きな人とか嫌いな人とかできてきて、嫌いな人にライブ終わりご飯行こうよとか誘われても、困るんです。ネットだけの関係なら、スパって断って後でそいつのアカウントブロックして通報しておくだけで済むのに、既にグループも出来てるしそうするわけにもいかないしなとか考えてしまう。

    あと、〇〇さんと〇〇ちゃんがライブの後行ってホテル行ったらしい、とかどうでもいいんだよ。それをお前、わざわざ裏垢みたいなん作って、そっちで呟いてって…いよいよもう現実世界でやってることと何も変わんねーじゃねーか。

    こういう風に、ネットから派生した人間関係はやがて現実世界にまで侵入してきて、ネットですら気が休まらなくなる。ネットなんて違う自分になることができる仮想空間なのに。その仮想空間が現実世界とリンクする。それなんてSAO?

 

事例3:ただ趣味の話がしたかっただけなのに

    事例2と少し重複するんだけど、ファン繋がりが続いて密接な関係になると、もうファン繋がりと言うより、趣味の話もできる友達みたいな間柄になってくる。 別にそれが嫌なわけじゃないんだけど、スタートは現実世界で趣味の話が出来ないから趣味の話できる人を求めてネットにやってきたのに、こっちから趣味の話振らない限りその話はしないっていうのは、それは違う。趣味の話しろ、クーリングオフするぞてめえ。

    まあ100歩譲って、趣味の話もできる友達になるのはいいとしよう。でも順番間違えるな。趣味の話を先にしてから距離詰めてこい。いきなり友達みたいなテンションで来るな。ブロックするぞ。

    中にはね、現実世界で趣味の話できる人が出来ないからとかじゃなくて、そもそも人がいないみたいな人もいるんです。そういう人は「ネットこそ我が世界」とか言って、リアルにSAOしてるんですよ。仮想空間が現実世界とリンクするとかじゃなくて、仮想空間と現実世界がイコールの関係にあるんですよ。だからそういう人たちは、彼女とか彼氏とかそういう関係をもネットで見つけようとする。

    高校生の頃、ファン繋がりのアラサーの女性から「ライブ会場で会おうよ、腰フェチなんだけど腰触っていい?あとヨシヨシさせてくれない?」っていうDMが来て、まだまだガキだった俺は本当に怯えた。よく「〇〇ファンに悪い人はいない!」とかいうの、あれ、嘘です。います、普通に。傾向として少ない多いはあるけど、ゼロなわけがない。繰り返す。います、普通に。みんなも気をつけて。

 

最後に

    これは特に俺がファン繋がりが嫌になった印象的な出来事をリストアップしたもので、ファン繋がりの嫌なところだるい所はまだまだある。あるけど、それを感情のままに書きなぐってたら卒論みたいな長さになりかねないので自重しました。その卒論は俺が本当にネットを辞めるときに書くことにします。

    ちょっと長かったけど、ここまで読んだあなたならいいファン繋がりとまでは言わなくても決して悪いファン繋がりを作ることはまずないだろう。あなたが良いネットライフを過ごせますうように。それでは。

 

    ※俺が現段階で趣味つながりで仲良くしてる人たちはこの記事に書いてることの対象外なので、そのことだけは弁明しておきます。