忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

R4.5.10

 

    時刻は午前7時前。前日22時からの夜勤もあと10分ほどで終わるという頃に、しかめっ面をしたおじいさんがレジに新聞を1部持ってやって来た。マニュアル通りの挨拶を済ませてから、レジの画面から朝日新聞(¥160)を選択して、お客様側の画面から支払い方法を選択して支払いを済ませていただくように案内する。おじいさんは現金支払いを選択して、自動レジへと5000円札を投入する。いつもならここで確認ボタンを押してもらうと、自動で精算が済んでお釣りのある場合はお釣りが出るようになっている。

 

    確認ボタンをお願いします。そう言おうとする前にピーッと音が鳴り、こちら側に見えている画面にエラーの表示がされる。何故かはわからないがよく5000円札だけレジに詰まることが多く、こういうエラーが起きた場合は一度レジを出てお客様側に見えている画面から操作をしてレジの復旧作業に努めなければならない。

    退勤前にどうしてこんなことを。そう思いながら一度レジを出てお客様側から見える画面からレジ復旧作業へと入る。この時体が無意識に「申し訳ございません、少々お待ちください」と言葉を発していて、このバイトも始めてからもう1年も経つんだなと思っていた。

 

    レジの復旧作業は時々やっていて慣れているので、いつも通りに手順を済ませてレジ復旧確認ボタンを押すと、画面には「レジ復旧不可」の文字が表示された。この時、既に一瞬パニックに陥りかけたが、機械のことだからそんなこともあるだろうと思って、もう一度レジ復旧作業の手順を踏み直してレジ復旧確認のボタンを押したが、レジは復旧しなかった。頭が真っ白になりそうになるが、まだどこかに見落としていた札詰まりがあるのだろうと思い、「申し訳ございません」と言いながら再度レジ復旧作業へ取り掛かろうとした。すると、

 

    「もう立て替えしてくれ!こっちも会社に行く時間があるんだ!」

 

    と、怒鳴られた。この時点で頭は真っ白になった。落ち着いてやればできるはずのレジ復旧作業もできなくなれば、体が覚えていて意識しなくていても出る接客マニュアル通りの言葉すら出てこなかった。レジ復旧作業に務めているフリをしながら(実際は頭が真っ白だったのでただレジ内部を開けて見ているだけだった)、1分ほどの時間を要してから「少々お持ちください」とだけ言って事務所にいる社員に助けを求めに行った。

    それから社員と同期のバイト友達の助けによって問題は解決したが、俺の心臓は終始鼓動が早くなっていた。他意はないとわかっている他人の行動に恐怖を感じるのは本当に辛いし、しんどい。

    社員と同期の友達には「泣きそうだった」と言って心配させないよう自虐気味に笑って言って見せたが、本当のところかなり辛かった。

 

   退勤を済ませ、その件を自虐気味に話しながら同期と店を出たが、俺の病気、うつ病を理解してくれてる同期の優しさの言葉に申し訳なさと辛さでいっぱいだった。

 

    本来ならば、今日(R4.5.10)も授業が入っているので、一限と二限だけだけれども夜勤終わりとはいえ頑張ろうと思っていたが、一気にその気がなくなってしまった。とは言え、ここで家に帰って寝て嫌なこと全て忘れてしまおうとしたら、いつまで経ってもだらしのない俺のままでいる気がして、勇気を出して改札を抜けて家とは反対方向の学校の方へと向かう電車が到着するホームへと向かった。

 

     ホームに降りてからしばらくしてから来た電車に乗って、終点駅で降りてから途中にあるコンビニの前の喫煙所で一度気持ちを落ち着けてから、乗り入れ先の別の路線の改札へと続く階段を下った。この時、周りに人がたくさんいたことで、恐怖感と不安な気持ちに襲われていた。

 

    階段を下って改札が見えると、途端に不安が強くなった。この改札を抜ければ、電車に乗って学校の最寄り駅で降りてたくさんの知らない人に囲まれて授業を2個も受けなければいけない。そう思うと中々改札をくぐれずに、改札の近くの柱に寄りかかりながら、改札の方を見て、自分で自分の頭、こめかみの部分を殴りながら自分を奮い立たせていた。こんな所誰にも見られたくないけれど、誰か今のこの俺の異様な様子に気付いて勝手に俺を助けてくれ。そう思ったけれど、無情にも周囲の人は俺を一度チラッと見ては素通りして行った。

 

    そのまま10分ほど挙動不審なままでいて、仲のいい友人に今の状況を連絡することで一度冷静さを取り戻してなんとか改札を抜けることが出来た。電車を待っている間、周囲の人がどんどんと増えていくにつれて鼓動が早くなり挙動不審さが増していったが、友人と連絡をリアルタイムに取り合うことでなんとか冷静さを保てていた。

 

    電車に乗って学校の最寄り駅に近づくに連れて、さらに鼓動は早くなっていた。逃げ出したい気持ちが強くなっていた。しかし無情にも電車は目的の駅へと近づいていくし、乗ってしまった以上途中の駅で降りて引き返すという選択肢は俺にはなかった。

 

    降りる駅に着いて、改札を抜けて駅から出て学校へと歩いて行く。学校の門の前の横断歩道の信号を待っている時このままずっと赤信号が続いてほしかった。或いは警備員のおじさんが俺の異様さに気付いて声をかけて欲しかった。しかしその願いは叶わず、俺の体はどんどんと学校の内へ内へと近づいていく。何度も途中立ち止まったが、ここまで来たのに帰ってちゃ意味ないだろと自分を叱りつけて、無理に体を動かした。しかし、やはりどうしても恐怖感や不安を拭いきれなかったので、そのまま学校を抜けて最寄りのコンビニで缶チューハイのロング缶を買って人目につかないところで飲み干した。酒が飲みたかったわけではない。ただ、少しでも酔って気を紛らわすことができればいいと思っただけだ。人目につかないところへ移動したのは、今の自分を誰にも見られたくないからと思ったからだ。助けてほしい気持ちはあるのに、人目のつかないところに赴くなんてひどく矛盾している。あまりに滑稽だ。

 

    飲みたくもないのに飲む酒は不味かった。でもその分アルコールはいつもより回っている気がして、500mlの缶を飲み干した後にニコチンを取り入れることでブーストをかけた。自分は一体何をしているんだろうと悲しくなった。

    まだ授業の開始までに時間の余裕があったので近くの牛丼チェーン店で腹いっぱいに飯を食べた。美味かった。こんな時でも飯は美味く感じれることにまだ少しばかり余裕が残っているんだなと気付いて頑張る気持ちになれた。

ある1人の男の話

 

  ある所に1人の男がいました。その男には悩みがありました。それは年々自分がどういう人間かわからなくなってきていることです。男がこれまで生きてきた人生は決して華やかというものではありませんでしたが、そんな中にも僅かに本当に心から楽しい期間が少しばかりありました。 男はその頃の自分があるべき自分の理想の姿、或いは自然な姿であるという気がしてなりません。そして、その頃の自分と現在の自分を比較しては、日を追う事に生きづらさが募っていくのでした。

 

    いっそ死んで楽になりたい。そんな安直な考えがいつも男の脳をよぎりますが、何かをきっかけにこの先また楽しい時間が待っているかもしれないという希望を捨てれずにいて、楽な方に流されるなと自律しています。

 

    男は25歳にも関わらず、未だに大学生です。同窓の友は既に社会に出て頑張っているという事実が男を焦らせます。一刻も早く遅れを取り戻さなければと男は思いますが、目の前のやらなければならないことができません。その理由は男にもわかりません。やりたいのにできない、そしてその理由もわからない。この2つの事実が更に男を苦しめます。男はそれなら他のことを上手くやってバランスをとろうと考えました。

 

    ですが、男は何をしたらいいかはわかりませんでした。とりあえず思いつく限りの自分の好きなことをしてみましたが、どれもしっくりきません。男は頭を抱えました。次に自分が何をすればいいかわかりません。考えに考えた結果、今自分が抱えている悩みを少しでも解消すれば少しは気楽に生きれるんじゃないだろうかと気付きました。人格形成は他者との交流の中で育まれるものです。男は失いつつある昔の自分を取り戻す為、或いは今の自分を知るため友人達に会おうと決めました。

 

    たまに会う昔の友人を除いて、最近男が頻繁に交流を持つのは週に2、3回ほど勤務するバイト先の人達でした。一旦、学業に集中するため遠のいていたバイト先は、久しぶりに戻ると新しい人がたくさんいました。男は新しい人達と以前から知っている人達が仲良くしている輪にうまく馴染むことができませんでした。自分の居場所の1つだと思っていたところが、なんたが落ち着かない場所になっていて、男は少し悲しくなりました。さながら浦島太郎の気分の男は、それでももう一度ここに居場所を作ろうと強く思いました。

 

    男は積極的に話しかけようとしましたが、うまく言葉が出ませんでした。何を話せばいいかわかりませんでした。唯一男に出来たことといえば、話しかけられた時にだけ対応するということでした。以前の自分なら容易に出来たことが出来ない今の自分が本当に嫌になって、男は悔しくて情けない気持ちでいっぱいです。今の自分はこんな風になっていたんだと気付いて、もうこのままでいいやと諦めかけました。

 

    毎日頭をよぎる死にたいという気持ちが一層強くなりました。しかし同時に、その気持ちを封じ込めようとするもう1つの気持ちも大きくなりました。ここで死んでたまるか、乗り越えてやる。男はそう思って奮い立ちます。男は諦めだけは悪いのでした。無様だっていい。ひどく不器用な自分だけれど乗り越えてやる。その為にはもう少し力を溜める期間が必要ですが、それでも男は足掻きます。きっとこの先何度失敗しようと足掻きます。足掻き続けます。今はまだ、この男の未来がどうなるかはわかりませんが、もう少し見守って見ましょう。そしてまたいつかこの男の話の続きを語りましょう。それではまたいつか。

    

ブログとろ過は少し似ている

 

    こんなブログでも、唯一早く新しい記事書いてくれって言ってくる人がいまして。書き手としては、自分が書いたものを読みたいと言ってくれるのはとても喜ばしいことなので、新しい記事書こうとするんだけど、書きたいものがないと書けないんですよね。はてなブログには便利な機能がありまして、書くことがない時にテーマをランダムに与えてくれるんだけど、「今日のテーマ『焼き芋』」なんて唐突に言われても、駄文しか書けない。俺にブログ書いてって言うその人は、俺が書きたいと思って書いた記事の中にだけある、俺らしさと言うか俺の良さみたいなものを好んで読んでくれてるんだろうけど、書きたいものじゃないテーマで無理に書いても、その人が望むものにはならない。

    どんな時に書きたいことが思い浮かぶか考えてみると、俺が気持ち的に沈んでしまっている時だった(だからこのブログは暗い内容のものが多い)。気持ちが沈んでいる時は、自分に対する嫌悪感や、人に対しての不満とか、マイナスめいたことばかりを考えてしまう。それを自分の内に留めておくと、どんどん気持ちは沈んでいってしまう。なので、どうにか外に出したい。吐き出して楽になりたい。そんな時に、ブログの出番なんです。誰かに聞いてよってお願いして聞いてもらうのも申し訳ないじゃないですか。でもブログだと、少なくともあなたの意思で読んでいるわけなので、俺としては申し訳なさが多少マシになるんです。

    とは言っても、俺の内にあるマイナスなこと、汚い感情とかをそのまま書くのはお目汚しになるので、配慮はします。読んでる誰かも共感してくれるような、或いは自分の気持ちがわからないときにヒントになるような、そんな風に書きたい。例え共感できなくてヒントにならなくとも、読んで不愉快にならないようになるべく綺麗に書きたい。汚いをなるべく綺麗にという心がけはしています。俺のブログの原点は汚い感情で、それをなるべく綺麗に排出するというのが動機です。言わば、ろ過作業みたいなもの。汚いものをありのままにするより、少しでも綺麗にできるならその方がいいじゃんというエゴです。

 

    それでも不愉快になる人はいるだろうけど。だっていくらろ過されてるからって、汚いドブの水を目の前でろ過して「はい飲めるよ!」なんて手渡されても飲みたくないですもんね。俺は飲みたくない。今後もこんな調子でやってくので、不愉快にならない人だけ自分の意思で読んでください。俺はなるべくろ過の精度を高めますので。それでは。

    

 

 目を覚ますと、昨日の酒がまだ残っていた。完全に二日酔いだなと思って、昨日のことを後悔した。飲みすぎたことに対してではない。そこに至るまでの過程を悔やんだ。

 

  昨日は2年ぶりの友人に会っていた。毎年、年明けに帰省してきた時には必ず連絡をくれるのに、去年はくれなかった。もしかしたらもう会えないのかもしれないと思っていた。だから会えて嬉しかった。よく行く居酒屋で飲んだ。近況の話から始まって、最後は思い出話に花を咲かせていた。本当に楽しくて、この時間がずっと続けばいいのにと思った。しかし、楽しい時間はずっとは続かない。楽しいことも、無理に引き伸ばせば楽しいものではなくなってしまう。俺はそれをわかっていた。だから、楽しいものが楽しいものである内に、自分からそろそろ帰ろうかと告げた。

  帰り道、自分はやっぱりまだ楽しいことを求めていた。よく行くバーの前を通った時、新年の挨拶がてらと無理に理由を作ってそこに訪れた。今入ると、終電を逃すことはわかっていた。弟に迎えを頼むつもりだった。何かすることに無理に理由を作って自分を納得させるのは俺の悪癖だ。もう1人の自分が、今それはしなくていいことだ、と俺を引き止めるから、無理に理由を作って納得させる為だ。決まって、帰り道にはもう1人の自分を聞いておけば良かったなと思うのに、同じことを繰り返している。

  バーでの時間は楽しかった。一応、本当に少し飲んで帰るつもりではいたが、酒が進んで気付けば3時間も経っていた。ふらつく足で店を出て、弟に迎えを頼もうと電話をしたら、仕事で夜勤だから行けないと言われた。仕方がないので目の前のタクシーに乗ろうとしたが、財布の中はすっからかんだった。カード支払いはできますか、と聞くと、タクシーの運転手は現金だけなんですと答えた。他のタクシーが来るのを待つのも面倒だったので、途中どこかコンビニで停めてもらってお金を降ろせばいいだろうと深く考えずにそのタクシーに乗り込んだ。20分ほど走って、家の近くのコンビニで停めてもらってお金を降ろそうとしたが、銀行が対応時間外だった。親に電話して理由を説明してすぐ返すから一旦タクシー代を貸してくれと頼んで、家に着いて親に払ってもらった。

 

  それが最後の記憶で、今に至る。記憶を無くすほど泥酔していたのに、自分の姿を見ると服だけはしっかりと部屋着に着替えている。枕元の携帯を取って、ぼんやりとSNSを見ていると、去年授業で少し仲良くなった大学の後輩の投稿で今日から学校か始まっていることを知った。今日が何曜日かもわからないので、カレンダーを見ると木曜日だった。木曜日はたしか授業があったな、とスケジュールを確認すると、1時間目から授業がある。時刻は既に8時半過ぎ。1時間目に行くには8時には家を出ていないといけない。2時間目は授業を取っていなくて、3時間目の授業から行くことに決めた。着替えるのも億劫だったので、部屋着のスウェットのまま、上の服だけ着替えて行くことにした。歯を磨こうと洗面所に行くと、鏡に映る自分の姿、特に寝癖のついた頭があまりに情けなかったので、髪だけ丁寧にワックスでセットしてから家を出た。

 

  駅に着いて、電車に乗ると、他の乗客はみんなちゃんと身だしなみを整えた綺麗な格好をしている。パーカーにスウェットという、だらしない格好をしているのは俺だけだ。空いている席のなるべく端っこに小さく肩を丸めて座った。恥ずかしい。知らない人達だけれど、今の自分の姿を見られたくないと思った。トンネルに入って、黒くなった窓に自分が写る。だらしのない格好なのに、髪だけがしっかりとセットされているのが、不自然だ。少しだけ人からよく見られたいという自分の浅ましい気持ちが見透かされそうな気がして、慌てて手ぐしで髪を崩す。

  終点の駅について、外へ出ると沢山人がいた。サラリーマンが多い。もう正月なんてとっくに終わっていることにやっと気が付いた。そう言えば、昨日、弟も仕事中だったから迎えを断られたことを思い出す。すれ違ったサラリーマンは、歳がかなり近そうだった。本当なら、俺だって今頃あんな風になっていたはずなのに。24歳にもなって、未だに卒業出来ずに学生のままの自分はどれほど時間を無駄にしているのだろう。

 

  最近、今まで頑張って手にしてきたものが、どんどんと零れ落ちていってるような感じが拭えない。同い年の友人は既に社会に出ているどころか、弟ですら働いているというのに。今の自分はなんだ。未だに学生のままで、楽しい事だけを求めて毎日遊んでばかりで、挙句の果てに親に金まで借りて。このままだと、俺はどうなるのだろう。毎日毎日何かを失って、終いには何も無くなってしまう。既に俺はどれほどの物を失っていて、この手に残るものはあとどれほどあるのかさえわからない。全てを失ってしまう日が、いつ訪れるのかさえわからない。少しでも気を紛らわそうと、すぐ側の人気のない道に入って、タバコに火をつける。ゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 

  口から出た白い煙は、空に登って薄くなって消えていく。煙を掴むことは出来ないと知っているのに、何故か俺は消えゆく煙に手を伸ばした。掴もうと握ったその手を避けるように、煙は形を変えて空へと登っていった。そして、薄くなって消えた。

 

    年々、もうこれ以上生きたくないなと思う頻度が増えてきているような気がする。数日前も、そうだ。

 

    生きる意味を失うと、死にたくなる、というよりかは生きることをやめたくなってしてしまう。どちらも同じようではあるが、死を望むことと、生きることをやめたくなることでは大きく違う。結末は同じでも、結末自体を求めるか、その結末の前提を求めるかという話だこれは。

 

    今までも、幾度となく生きることをやめたくなったことがある。それは、他者からの自己に対する敵意や嫌悪感に気付いた時だ。

 

    生きるということは、それに伴う何か大きな目的が必要だと思う。富を築きたいでもいいし、名声が欲しいでもいいし、なんだっていい。ただ漠然と生きてるだけなんてのは、生きてるに値しないとすら個人的には思っている。

 

    俺は、俺という存在をなるべく遺したいから生きている。それは、歴史の偉人のように教科書に名前が載っていて、多くの人間がただ名前を知っているというような、ぼんやりとした認識ではない。

    俺という存在を、人間性を、思考を、その全てを知って欲しい。そして全てを知ったうえで、それに好意を抱きながら認識して欲しい。

    ただ、それを多くの人達に対して遂行することは難しく、ならせめて、周囲にいる大好きな人達くらいにはそうであってほしい。

    だから、俺はその人たちに好きになってもらうために生きている。その為になら、なんだってする。

 

    数日前、その大好きな人達の内の1人に、どうやら俺は嫌われてしまった。その瞬間、生きる意味を喪失した気がして、もう生きる意味なくなったな、生きるのやめたいなと思った。

    やりたかったこととか成せなかったことをリストアップして、それ全部出来たら死のうと本気で考えていた。

    見てみたい景色とか行きたい国とかそういう具体的なことはいろいろと浮かんできて、遂行するにも簡単なように思えた。しかし、やはり最後に俺は、愛する誰かに俺の全てを知ったうえでその俺を愛してくれて、その人の心に刻みたいと思ってしまった。

 

    下唇を噛み締めて、声を押し殺して泣いていると、まだチャンスは残されてるじゃないか、と心の中で誰かがそう言った。

    そうだ、その通りだ。たしかに好きだった人に嫌われてしまったということは、身を削がれるように辛いことだが、まだ1人じゃないか。俺にはあと何人愛する人がいる?まだまだたくさんいるじゃないか!

    その中の1人に俺の全てを知って俺を愛してくれる人が現れるまで、俺にはまだ生きる意味が残されている。まだまだ生きていける。

 

    大丈夫、俺はまだ歩ける。立ち止まることはあったって、この先何度だって歩いていける。

 

欲張り人間

 

    子供の頃、家族とどこか遠くへ向かっている道中に寄った高速道路のSAのお土産コーナーにカッコイイキーホルダーが売られていた。長い鞘に刀身が収まりその周りを龍がとぐろを巻いているキラキラのもの。男の子なら一度は誰もが欲しがったもの。

    それを見た当時の俺は買ってくれ買ってくれと駄々をこねた。長く続いた親との我慢比べに競り勝った俺は、遂にそれを手にすることが出来た。

 

    そんなことをふと思い出す。思えば俺は小さい頃から諦めるという選択肢はなかった。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきた。だからか、随分欲張りな人格になってしまったと時々思う時がある。そんなことを思い出したのも、まさに今自分が欲張りな人間だなあと思っていたからだ。

 

    誰もが常に何かしら1つくらいは欲しいものがあるのではないだろうか。お金で買えるものから買えないものまで。その中でも特に、お金で買えないものほど人は喉から手が欲しくなる気がする。

    お金で買えるものでも途方もない値段がすると、これは自分が一生の稼ぎを費やしても手に入れられないと知ると簡単に諦めはつく。しかしお金で買えないもの。例えば人の心だとか。そういうものは、自分の振る舞い次第では手に入るかもしれないという淡い期待が残ってしまって簡単に諦められなくなる。

 

    欲しいものを全て手に入れるということは大人になるにつれて不可能なことなんだとわかっていく。欲しいものが手に入らなかったという経験を幾度となく繰り返して。欲しいものを諦めるというのは、大人になることのひとつだ。

    俺も来年にはアラサーの仲間入りで、小学生の子達から見れば教壇に立つ先生と変わらぬ大人だ。大人だから欲しいもののいくつかは諦めてきた。

 

    嘘だ。やはり幼少期から欲しいものはなんでも諦めてこなかったから、諦めたフリをしているだけでしかない。大人なのは事実だから、大人になって尚欲しいもの全てを諦めないのは格好が悪いから諦めたフリをしているだけで、実の所何一つ諦めていない。

 

    欲しいということを諦めていないだけで、まだ手に入ってはないし、手に入る未来も見えないので、その所為で多少苦しんではいるが。

    欲しい服、欲しい漫画、欲しい人の心、欲しい暮らし、欲しい幸せ。何一つ諦めてなんかいない。俺は諦めるということを諦めない。そんな欲張り人間だ。反省する気すらない。俺はこのままで生きていく。

空模様に左右されている

 

    夜勤明けの帰り道が好きだ。アルバイトの勤務先を出た頃にはまだ空は少し薄暗いが、地下にある駅へと入り、電車に乗り、数駅ほど過ぎて線路が地上を走る頃には太陽は先程よりもさらに高くに来ている。空も青みを増している。日の光が住宅の屋根やコンビニエンスストアの看板などといったあらゆる物に反射して目に突き刺さる。しかし、それほどまでに眩しくとも、どこか暖かみが感じられる光だ。

    まだ少し暗さを含んだ青い空に、街だけがぼんやりとその優しい光の黄色い輪郭を帯びていて、そのコントラストがとても美しく、見慣れたいつもの風景が嘘のように綺麗に見えて、晴れやかな気持ちになる。そこに、仕事をやり終えたという予め持っていた晴れやかさがマッチして、この時間に帰路につくときのどんな時よりも夜勤明けは格別に晴れやかな気持ちになれる。そういう理由で、夜勤明けの帰り道が好きだ。

 

    ただ、こんなにも晴れやかな気持ちでいると、なんだかもう全てやり残したことがないような気がしてきて、ふと死にたくなってしまう。死にたくなってしまうと言うよりかは、今が死ぬのに相応しい瞬間だと錯覚してしまう。

    普段の俺はいつも些細なことで気に病んだりして、時々死にたいなどと思ったりしてしまうが、結局のところまだ死ぬにはやり残したことが多すぎるとそこにまで至ることはない。

 

    昔、テレビで幼少期からその道1本に掛けてきたスポーツ選手が、世界一に輝いた時の一言が「明日死んでもいい」と紹介されていたことを、ふと思い出した。

    人間は誰しもが常に何かしら一抹の不安や悩みの種を抱えていて、それを解消出来ない内は死ぬに死ねないんじゃないだろうか。

    母親がわりに育ててくれた祖母が末期癌で亡くなった時も、親族全員が祖母に対して、もうこれ以上祖母が頑張る姿を見るのが心苦しくなって、もう楽になって欲しいと決意を固めた翌日に祖母は笑って逝ってしまったのは、きっとそういうことだったんじゃないだろうか。残された俺達が悲しみを乗り越える心構えが出来てない内には祖母も逝くに逝けなかったんだろう。

 

    悩みとか不安はない方がいいようであって、実の所あったほうがいいものなのかもしれない。たった20~30分だけの間、晴れやかな気持ちを抱えるだけで、死ぬに相応しいなんて瞬間だと思ってしまうのだから、これが1時間も2時間も続くほどに長いものなら本当にそこにまで至り兼ねない。

 

    空模様ひとつでこんなにも気持ちが左右されることにある種の恐ろしさを感じていると、いつの間にか電車は降りる駅へと到着していた。改札を抜けて帰路を辿る。程なくして我が家へと着き、扉を開けて中に入る。まだ家の中は薄暗く、陽の光も差し込んでこないので、晴れやかだった気持ちが一瞬にして憂鬱になる。昨日の出来事の嫌だったこととかしんどかったことだとかが一気にフラッシュバックしてそれに思いを巡らせる。死ぬなら今しかないと思っていた気持ちが、まだ死ねないに即座に切り替わる。

 

    空を遮断するだけでこんなにも気持ちが変わるとは。本当に空は凄い。