無題

タイトルとか考えるのが恥ずかしい

欲張り人間

 

    子供の頃、家族とどこか遠くへ向かっている道中に寄った高速道路のSAのお土産コーナーにカッコイイキーホルダーが売られていた。長い鞘に刀身が収まりその周りを龍がとぐろを巻いているキラキラのもの。男の子なら一度は誰もが欲しがったもの。

    それを見た当時の俺は買ってくれ買ってくれと駄々をこねた。長く続いた親との我慢比べに競り勝った俺は、遂にそれを手にすることが出来た。

 

    そんなことをふと思い出す。思えば俺は小さい頃から諦めるという選択肢はなかった。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきた。だからか、随分欲張りな人格になってしまったと時々思う時がある。そんなことを思い出したのも、まさに今自分が欲張りな人間だなあと思っていたからだ。

 

    誰もが常に何かしら1つくらいは欲しいものがあるのではないだろうか。お金で買えるものから買えないものまで。その中でも特に、お金で買えないものほど人は喉から手が欲しくなる気がする。

    お金で買えるものでも途方もない値段がすると、これは自分が一生の稼ぎを費やしても手に入れられないと知ると簡単に諦めはつく。しかしお金で買えないもの。例えば人の心だとか。そういうものは、自分の振る舞い次第では手に入るかもしれないという淡い期待が残ってしまって簡単に諦められなくなる。

 

    欲しいものを全て手に入れるということは大人になるにつれて不可能なことなんだとわかっていく。欲しいものが手に入らなかったという経験を幾度となく繰り返して。欲しいものを諦めるというのは、大人になることのひとつだ。

    俺も来年にはアラサーの仲間入りで、小学生の子達から見れば教壇に立つ先生と変わらぬ大人だ。大人だから欲しいもののいくつかは諦めてきた。

 

    嘘だ。やはり幼少期から欲しいものはなんでも諦めてこなかったから、諦めたフリをしているだけでしかない。大人なのは事実だから、大人になって尚欲しいもの全てを諦めないのは格好が悪いから諦めたフリをしているだけで、実の所何一つ諦めていない。

 

    欲しいということを諦めていないだけで、まだ手に入ってはないし、手に入る未来も見えないので、その所為で多少苦しんではいるが。

    欲しい服、欲しい漫画、欲しい人の心、欲しい暮らし、欲しい幸せ。何一つ諦めてなんかいない。俺は諦めるということを諦めない。そんな欲張り人間だ。反省する気すらない。俺はこのままで生きていく。

空模様に左右されている

 

    夜勤明けの帰り道が好きだ。アルバイトの勤務先を出た頃にはまだ空は少し薄暗いが、地下にある駅へと入り、電車に乗り、数駅ほど過ぎて線路が地上を走る頃には太陽は先程よりもさらに高くに来ている。空も青みを増している。日の光が住宅の屋根やコンビニエンスストアの看板などといったあらゆる物に反射して目に突き刺さる。しかし、それほどまでに眩しくとも、どこか暖かみが感じられる光だ。

    まだ少し暗さを含んだ青い空に、街だけがぼんやりとその優しい光の黄色い輪郭を帯びていて、そのコントラストがとても美しく、見慣れたいつもの風景が嘘のように綺麗に見えて、晴れやかな気持ちになる。そこに、仕事をやり終えたという予め持っていた晴れやかさがマッチして、この時間に帰路につくときのどんな時よりも夜勤明けは格別に晴れやかな気持ちになれる。そういう理由で、夜勤明けの帰り道が好きだ。

 

    ただ、こんなにも晴れやかな気持ちでいると、なんだかもう全てやり残したことがないような気がしてきて、ふと死にたくなってしまう。死にたくなってしまうと言うよりかは、今が死ぬのに相応しい瞬間だと錯覚してしまう。

    普段の俺はいつも些細なことで気に病んだりして、時々死にたいなどと思ったりしてしまうが、結局のところまだ死ぬにはやり残したことが多すぎるとそこにまで至ることはない。

 

    昔、テレビで幼少期からその道1本に掛けてきたスポーツ選手が、世界一に輝いた時の一言が「明日死んでもいい」と紹介されていたことを、ふと思い出した。

    人間は誰しもが常に何かしら一抹の不安や悩みの種を抱えていて、それを解消出来ない内は死ぬに死ねないんじゃないだろうか。

    母親がわりに育ててくれた祖母が末期癌で亡くなった時も、親族全員が祖母に対して、もうこれ以上祖母が頑張る姿を見るのが心苦しくなって、もう楽になって欲しいと決意を固めた翌日に祖母は笑って逝ってしまったのは、きっとそういうことだったんじゃないだろうか。残された俺達が悲しみを乗り越える心構えが出来てない内には祖母も逝くに逝けなかったんだろう。

 

    悩みとか不安はない方がいいようであって、実の所あったほうがいいものなのかもしれない。たった20~30分だけの間、晴れやかな気持ちを抱えるだけで、死ぬに相応しいなんて瞬間だと思ってしまうのだから、これが1時間も2時間も続くほどに長いものなら本当にそこにまで至り兼ねない。

 

    空模様ひとつでこんなにも気持ちが左右されることにある種の恐ろしさを感じていると、いつの間にか電車は降りる駅へと到着していた。改札を抜けて帰路を辿る。程なくして我が家へと着き、扉を開けて中に入る。まだ家の中は薄暗く、陽の光も差し込んでこないので、晴れやかだった気持ちが一瞬にして憂鬱になる。昨日の出来事の嫌だったこととかしんどかったことだとかが一気にフラッシュバックしてそれに思いを巡らせる。死ぬなら今しかないと思っていた気持ちが、まだ死ねないに即座に切り替わる。

 

    空を遮断するだけでこんなにも気持ちが変わるとは。本当に空は凄い。

物臭

 

    改札を抜けて、地上へと続く階段を上がっていくと徐々に空気が湿度を含んでいく。階段を登りきる少し前に手に持っていた傘を開けようとしたが、どうやら雨は止んだらしい。一度傘を開こうと傘のボタンを外してしまったため、もう一度傘を止めようとしたら、まだ傘は濡れていて手が濡れてしまって凄く不愉快になった。

 

    あらゆる物が恐ろしいスピードで発達していくこの時代に傘はどうして形を変えず昔からこのままなんだろう、なんてどうでもいいことを考えながら歩いていく。

 

    駅を出るとすぐに大きな橋があって、いつもそこを通るとき上から川を泳ぐ魚を見るのが些細な楽しみだったのだが、川は茶色く濁って勢いを増しており見るに値しなかった。

 

   低気圧のせいかは分からないが今日は一日中何をするにもイライラしてしまう。傘を止めるのに水がつくのもそうだし川を見れなかったのもそうだし。これからバイトだということにもそうだし。

 

    橋を渡って少しすると右手に繁華街が続いている。その繁華街の入口に喫煙所が用意されていて、バイトの前は必ずそこに寄っている。喫煙所は仕事終わりでこれから飲みに行くであろうサラリーマンや、大学生の集団、客引きの人間やらで多少混雑していた。

    各銘柄のタバコの煙が混じり合って空気に乗って流れてくるため煙たく、気が悪くなる。しかし、その思いとは反面に紫煙の中をくぐり抜けて灰皿の前に立ち、ひとつ火をつけて、同様に紫煙を燻らせる。ストレスが募る環境で、ストレスを和らげる為の行為をするのはなんだか滑稽だなと思う。

 

    向かいの道に目をやると、雨が止んだからか飲みに出ようとする人達が徐々に増えてきている。俺の勤務先もこの繁華街の一角に位置するので、なんだか今日は忙しくなりそうだなあと嫌になる。目の前の人の流れが益々勢いを増していく度に嫌な気持ちが募るので、いっそ目を背けるとその先にはどこからか数匹の鼠が現れた。

    この繁華街はタバコの吸殻や飲食物のポイ捨てで綺麗とは程遠く不愉快ではあるが、鼠達からすればとてもいい環境なのだろう。台風で増水した川の水が鼠達が普段過ごす下水管の中へと流れて、それで彼らは下水管の外へと一時的に避難してきたんだろう。

 

    幼少期のとある一件から齧歯類が苦手な俺は姿を見るだけで気分が悪くなったし、挙句の果てになんと目の前で交尾を始められた。本当に気が滅入る。どこを見てもそこになにかしらの不愉快がつきまとってくる。仮病でも使って休んでやろうかという思いが脳裏を過ぎる。しかし少数で回している店の為、自分が休んだときのことを想像すると、とてもじゃないが他の店の人間に悪い気がしてそれは出来ないなと思い留まった。

 

    煙草を持つ2本の指に若干の熱気を感じたので、目を見やるとすぐそこまで灰になっていた。慌てて灰皿に灰を落とそうと手を動かすと、突然少し強い風が吹いて灰は散り散りになって舞い上がり、目に入ってしまった。

 

    その瞬間にもう全てが嫌になった。なんでこんなにも嫌なことが重なるんだろうか。いっそこの過ぎ去って行く台風がここからもう一度勢いを増して全て吹き飛ばしてくれないだろうか。その時は台風が過ぎ去った後の空のように、少しは晴れやかな気持ちになれるだろうに。そんなことを考えながら見上げた空はまだどんよりと重く澱んでいた。

 

 

自分勝手に生きてくれ

 

    解決することはないだろうけど、言うだけ言ってみよう。聞いてもらうだけで気が楽になるかもしれない。そう思いながら、俺は自分の悩みを打ち明けてみた。

 

    「自分のことがわからない。自分が今、何がしたくて何がしたくないとか、そういうことがわからない。多分人のために生きてきたからだと思う。人がしたいことに合わせる生き方をし続けてきた内に、自分の気持ちを抑圧するのが癖づいて、今じゃもう、自分が何したいとかそういう気持ちを最初から持たないようになってしまっているのかもしれない。」

 

    そう言うと、相手はこう言う。

 

    「人のために生きてきたなんて言うと大層聞こえがいいけど、俺が思うにお前のその生き方は別に人のために生きてるわけじゃないと思うよ。人に合わせるのって結局、自分で選択するということを放棄しているということだと思うんだ。後から何か不都合が起きた時には、あの人に合わせただけって逃げれるからだよ。」

    

    そう言われてハッとした。確かにそうかもしれない。これまで俺は、責任を放棄して逃げ道だけを確保した生き方を、「人のために」なんて言う聞こえのいい言葉で誤魔化していたのかもしれない。

 

    そもそも、人は人のためだけに生きれたりしないんじゃないかと思う。人間はやっぱり自分が1番可愛いし、あなたの周りのどんなに優しい人の行いだって、一見相手を思ってのことのように見えてそこには何かしら自分の利があるのかもしれない。人からいい人だと思われたいみたいな、そういう利が。

 

    別に他人に同情したりとかすら出来ないなんて話をしているわけではない。親しい人の不幸に自分も同様に胸を痛めたりすることがあるし、親しい人が悩んでたり困ってたりしてたなら力になりたいと思うことだってあるだろう。

    ただ、そういう時に相手と同じ気持ちにまで至るということが無理なのではないかということだ。例えば、あなたの最愛の人が飼ってる犬が亡くなってしまい、その人はきっと悲しみに包まれるだろう。その姿を見て、あなたも胸を痛めるが、その人と同じくらいに悲しむことは可能だろうか?あなたからすれば、自分が飼ってるわけでもない人が飼ってるだけの犬の死に、飼ってた人と同じくらい悲しめるだろうか?

 

    つまりそういう事なんだ。俺にも今まで特に気の許せる友人や、好きな人が何かに悩んでたり傷ついていたりする姿を見て心を痛めた経験はある。しかしその時の俺はどこかそれを客観的に見て悲しむような、ちょうどドラマや映画などを見て心動いているような、そんな状態だった。

    その時の俺はなんとか悲しみを和らげてあげられやしないだろうかと持てる力の全てを尽力したが、今思えばあれはきっとその人の為にと言うよりは誰かの役に立ちたいという承認欲求を満たすという自分の利に従っていたのだろう。それでもその人は、後になってその時のことを振り返ってあの時はありがとうと言ってくれる。

 

    今までの俺は、悲しんでる親しい友人達を見る時、こんなにも親しいのに同じ気持ちで悲しみを持てない自分はきっと淡白で冷徹な人間なんだと自己否定してきた。俺以外にもそういう人は結構多いのではないかと思う。

    しかしだ。確証は持てないが、相手と同じ気持ちにまで至らなくとも、誰かの役に立ったり誰かを救うことは可能なんだと思う。話なら聞くよ、って言ってあげたり、いつでも力になるからねと声をかけるだけで人はきっとその言葉に救われるだろう。俺も自分が落ち込んでいたり悲しんでいる時にそういう言葉に救われた経験がある。それはポーズでいい。そこにあるのが相手を思う気持ちだけでなく、自分の利が混ざっていようと。それを相手が見抜くことは出来ないし、相手はそれでもきっと喜んでくれる。

 

    どうか、みんな、人を思いやりすぎて自分まで潰れてしまわないでくれ。人よりもっと自分のことを大事にしてくれ。誰かの力になったり、誰かを救うことは案外簡単だから。だからどうか、もっと自分本位に、自分勝手に生きてくれ。

    

No more 逆張り

 

    人の書いたブログ、それも本当に文章が上手なブログ、つまるところ書いた人に会ったこともなければ見たこともないのに、その人の人となりとか感性が伝わってくるようなそんな文章を読むと、自分もそんな文章が書きたいと思ってしまって気がつけば文章を書き出してしまっている。こんな風に。

    しかし書きたいこともなければ、特に書くほどのこともない。そういう時にこのサイトは便利で(恐らくこのサイトに関わらず他のブログサイトにも同じような機能があることは容易に想定できるが)、今週のお題なんて風にテーマをくれる。たまにとは言え数年ほど文章を書くことを続けていれば、お題さえ貰えばそこから誰かがカップラーメンにお湯を入れてから出来上がるまでの3分ほどの暇を潰すくらいの文章を書くくらいは可能なわけで。書き手というものは、どんな形であれ自分が書いたものを読んでもらうのが嬉しい。だから、それくらいの気持ちでも読んでもらえればいいやという構えで今週のお題を見た。

 

今週のお題「最近見た映画」

 

    非常に困った。困ったと言うのは、このお題が書きにくいテーマだからと言うわけではなくて、むしろ書きやすいテーマなくらいなんだけれど、困ったのは俺がこれに関して書きたくないからだ。まあ、書かなければどうしようもないので書くのだけれど。だから俺がこのお題について書きたくない理由でも書こうと思う。

 

    1番最後に見た映画は鬼滅の刃だった。「劇場版鬼滅の刃無限列車編」。  恐らくほとんどの人が知っている映画だろう。とんでもない売れ行きだっていうことでニュースでよく取り上げられてるし。これまで最短で興行収入100億を突破した「千と千尋の神隠し」でさえ公開から25日かかったらしい。それを鬼滅の刃は僅か10日。なんなら公開から24日目には200億を突破するのではなんていう見通しまであるそう。それってつまり、それほどまでに鬼滅の刃が人気のコンテンツということじゃないですか。

 

    俺は自分でも意識してない内にいつからか「人と同じは嫌だ!」みたいな人間性に育ってしまった。多分、高校の頃にハマった音楽を周りの友人に勧めても「これの何がいいのかわからん」みたいなことを言われてしまい、ただ変に自分のセンスだけには自信を持っていたので、「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」みたいな錯覚を起こしてしまったからだと思う。あの時、みんなが俺に変に気を遣って「ああ、よくわからないけどいい感じだね」くらい言ってくれてればこうなってない未来もあったのだろうか。

 

    ただこういう俺みたいな一定数存在する「みんなと逆張り!」みたいな人間って、みんなが支持してる人気のコンテンツも少し気になっているわけで。自分の好みを優先した結果ではあるが、普段から人と逆に動いてしまうせいで、今更みんなが支持してるものに手を出すのもダサいみたいに思ってしまっている。だから言い訳じゃないけど、俺は自分から鬼滅の刃に手を出してないことだけ弁明さしてほしい。

 

    人とは違うを突き詰めた結果髪の毛がピンク色になってしまっていた俺の前にある日全く同じ髪色の女の子が現れた。仲間かもしれない。直感的にそう思った。専門家が言ってたけれど、動物は仲間を見た目とか臭いで認識するらしい。見た目は同じ髪色という点でもちろんのこと、臭いという意味でも、同じような性格とか見た目とかの人間2人を指して「あの二人からは同じ臭いがする」って表現するこの国では、俺が仲間だと思ってしまったのにも頷ける。どうやら専門家ってちゃんと信用していいらしい。

    そこからその子と俺が仲良くなるまでに長い時間は要さなかったわけで。そしてその子がある日、鬼滅の刃見に行こうと誘ってくれた。気にはなりつつも自分から見に行くのはダサいと思っていた俺が1番待ち望んでいた言葉だった。でもあえてクールに「まあ、じゃあ行くか。」くらいの態度をとって、そしてそういうことで俺は鬼滅の刃を見に行くまでに至ったのです。

 

    書いてて思ったけどめちゃくちゃダサいな俺。何が「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」だ。気になるなら素直に気になるって言えばいいのに。こんなのはあれだ、小学校高学年の男子だ。気になってる女の子に素直になれないから悪口とか言って関わりを持とうとするやつ。ああいうのって大体その子から嫌われちゃうんだよな。まあ、何もしてないのに悪口とか言ってくるやつのこと好きにならないよな。全国の小学校高学年男子、素直になった方がいいぞ。逆の態度は当然ながら裏目に出るぞ。待って。じゃあ俺も多分嫌われてるかもしれないな、みんなに。

 

    この国の言葉では、俺みたいな人間のことを天邪鬼と言うらしい。天邪鬼。あれ、俺も鬼?鬼殺隊とか来るのかな。怖。帰ろ。

招待状

※この記事に関してはこのブログを読むほとんどが俺の友人知人が大多数を占めるということを前提で書いています。ご了承ください。

 

    依存体質が年々強くなっていて、最近ではもう1人でいる時間が苦痛で仕方ない。今にも倒れそうなほど山積みになってしまっているやらなきゃいけないことや、考えたくもない憂鬱なこと、その全てから目を逸らしたい。

    好きな人といる時だけはそういうことから目を逸らせる。楽しいとか幸せとかそういう暖かい気持ちに溺れていられるから。それは実際ただの現実逃避なんだけれど。思うんだ俺は。逃げちゃダメなのか?逃げていれば勝手に時間が解決してくれることもあるかもしれないじゃないか。逃げてても時間が解決してくれないときにだけ立ち向かったらいいじゃないか。「逃げてても何も無い、立ち向かえ。」みたいな、そういう考え方が本当に嫌いだ俺は。やりたい人だけやってろよ。強制するな。

    なんだか愚痴っぽくなったが、要は好きな人とずっと過ごしたいという話だこれは。暖かい気持ちに溺れ続けていたいんだ俺は。そうなると結局のところ、結婚するしかないのかもしれない。好きな人だけを集めて建国するという手もあるけれど、あまりに現実的じゃないしやはり結婚という一手しかない。歳も歳だし。

 

    そういう訳で結婚の予定もないのに常に結婚のことを考えている。果たして俺は結婚できるのだろうかとか、結婚してもいいような人間なんだろうかとか、そういうことを。

 

    仮に結婚出来るとして話を進めよう。俺が結婚する時が来たとして、俺はその事で常々頭を抱えていることが一つある。披露宴のことだ。披露宴に何人か友人を招待することもあるらしいが、予算とかの関係上呼んでも30人いかないくらいらしい。新郎新婦合わせて。てことは一人頭十五人。は?十五人?あまりに少なくないか?

    俺は幸も不幸も他人で共有したいという考えが強い。誰かの幸せをみんなで分け合ってみんなで幸せになって、誰かが不幸ならばそれをみんなで背負ってその人の不幸を軽減してあげて。そんな風に生きれたらとても幸せで満足のいく人生だと思う。

 

    だからこそ、自分の人生で最も幸せのピークである(と考えられる)そんな機会にはたくさん友人を呼びたい。好きな人全員呼びたい。しかし十五。自分の好きな人達に一位から十五位までのランク付けをしろと?なんて残酷な話だ。聞いた話だが、人によっては披露宴に異性の友人を招待するのは非常識だなんてこともあるらしい。好きな人達を性別で管理するなんてことは俺には出来ない。好きな人達は好きな人達だ。そこに性別なんてものは関係のない話だ。

 

    だから俺はなんの予定もないが、結婚する時がくれば披露宴に好きな人達全員呼ぼうと思う。相手親族の意見とか、金銭的な理由とかそういったものも気にせず有言実行しようという強い意思だこれは。みんなで超楽しい披露宴作ろう。その為には君の協力が必要だ。今これを読んでいる君だ。君も勿論俺の好きな人達の内の一人だ。

 

    これは招待状です。いつ行われるか、果たして行われるかもどうかもわからない俺の披露宴の。行われる時がくれば受付でこのブログのこの記事を見せて下さい。これを招待状にするということで話をつけておきますので。

 

    どうか俺の幸せをあなたとも共有できて、あなたも暖かい気持ちになってくれますように。

 

    さあ披露宴はもう間もなく始まります。奥へどうぞ。

何が良くて何が悪いか本当にわからなくなってきた

 

    「嫌われることよりも、無関心であられるほうが嫌だ。」

 

    他人からの評価について談議する時、しばしばこのようなことを言う人が見られる。

    そのような人達が言うには、嫌いであられるということは何かしら意識がこちら側に向いている訳で、意識がある以上何かをきっかけに好きになってもらうことは可能であるが、無関心という何も意識されていない状態であると一切好意を抱いてくれることがないからだということらしい。

    なるほど、それはたしかにそうだ。それを聞くとたしかに嫌われることよりも無関心であられる方が嫌だという意見にも頷ける。

 

    ただ、俺はそれを聞いた上でもやはり嫌われることのほうが嫌だと思ってしまう。それは恐らく、俺が人から好かれたい気持ちが強すぎるからだ。

    誰だろうと、好き好んで嫌われたがる人はきっといない。誰しもが好かれることを望むはずだ。今テーマにしているのは、好かれることが最も望ましいのは前提で嫌われるか無関心でいられるかのどちらが嫌かという話だ。

 

    俺がどれほどに人から好かれたい気持ちが強いかの話をしよう。前述通り、俺は本当に人に好かれたい気持ちが強すぎて、故に嫌われることを無関心であられることより怖いと思ってしまう。嫌いな人でも自分のことは好きでいてほしいと本気で考えている。

    誰かが俺が不幸に陥る様を見て幸せになれるとするなら、俺は望んで自ら不幸へと身を落とすだろう。それほどに人に好かれたい気持ちが強いと言うか、献身的と言うか、他人優先主義なんだ。自分のことに興味が微塵も無いし。

    自己肯定感が低いのもあるが、俺ごときのやることなすこと、或いは存在自体で誰かが喜んだり幸せになれるならば、それが何よりも俺の幸せになる。自分が誰かに幸福を与えれることがそれ即ち俺の幸福にも直結する。

   

    だから、俺は普段人から好まれるようにだけにフォーカスを絞って生きている。人に好まれるためには、利害関係のような話にはなるが、相手にとって利益のある人間にならなければならない。そして他者に利益のある人間と認識してもらうには、相手を観察することが最も重要だと俺は考える。相手がどういう人で、何がその人にとって利益に成り得るか把握することで、その基準で自らの身の振り方に決定を下せる。するとその人にとって利益的な人間を演じれるわけだ。

    そんな風に生きているからか、一人一人に対して微妙に自分の身の振り方を変えている。もっと言えば、複数人で同じ時間を過ごすときにはその集団を構成するメンツの組み合わせによっても多少身の振り方を変えている。

 

    あまり自分自身に対する評価を自ら下すことはこの国では古くからタブーというか暗黙の了解みたいになっているところがあるけれど、それでもあえて言うなら俺は割と他人から好かれている方だと思う。

    まあ、人に好かれることだけを考えて生きているくらいなんだから多少はそうであってくれなければ困るのだけれども。   

 

   ただ、最近ずっと引っかかっていることがある。人に好かれたくて、相手にとって利益的な人間を演じることで得る好感に果たして意味はあるのだろうか。もし相手が俺がわざと好かれたいがためにその人にとっていい人間を演じていると知った時、それまで俺に向けてくれていた好感は変わらず残るのだろうか。そうではない気がする。

 

    それに、俺は自分のことよりも周りにいるみんなのことが心底大好きだし愛している。その人たちに自分が好かれたいが為だけに本来の自分と違う人格を演じるのは、それがいくら相手にとって利益的な人格で幸福を与えているとしても結局は自分のエゴに人を付き合わせているだけではないのか。相手の目線だけで見れば自分に合わせてくれるし利益のあるいい人と見られて良いように聞こえるが、俺の目線で見れば相手のことを第一に動くという点ではそれもまた聞こえがいいが、結局のところ自らのエゴだけを追求してるという点で悪に近いように思う。

 

    一体何がいいことでで何が悪いことなんだろうか。俺のこの生き方は他人優先主義で他人に幸福を与えているから良いもの?でもその生き方には究極的な自らのエゴの追求が内在しているから悪いもの?もうわからない。定義をハッキリしてくれ。その方がきっと楽になれる。悪いものと言われれば改善すればいいだけなのだから。一生答えが出ないままが最も苦しい。頼む、誰でもいいからその辺の定義を確立してくれ。俺には答えが出せそうにない。何卒。

 

    それでは。