忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

ブログとろ過は少し似ている

 

    こんなブログでも、唯一早く新しい記事書いてくれって言ってくる人がいまして。書き手としては、自分が書いたものを読みたいと言ってくれるのはとても喜ばしいことなので、新しい記事書こうとするんだけど、書きたいものがないと書けないんですよね。はてなブログには便利な機能がありまして、書くことがない時にテーマをランダムに与えてくれるんだけど、「今日のテーマ『焼き芋』」なんて唐突に言われても、駄文しか書けない。俺にブログ書いてって言うその人は、俺が書きたいと思って書いた記事の中にだけある、俺らしさと言うか俺の良さみたいなものを好んで読んでくれてるんだろうけど、書きたいものじゃないテーマで無理に書いても、その人が望むものにはならない。

    どんな時に書きたいことが思い浮かぶか考えてみると、俺が気持ち的に沈んでしまっている時だった(だからこのブログは暗い内容のものが多い)。気持ちが沈んでいる時は、自分に対する嫌悪感や、人に対しての不満とか、マイナスめいたことばかりを考えてしまう。それを自分の内に留めておくと、どんどん気持ちは沈んでいってしまう。なので、どうにか外に出したい。吐き出して楽になりたい。そんな時に、ブログの出番なんです。誰かに聞いてよってお願いして聞いてもらうのも申し訳ないじゃないですか。でもブログだと、少なくともあなたの意思で読んでいるわけなので、俺としては申し訳なさが多少マシになるんです。

    とは言っても、俺の内にあるマイナスなこと、汚い感情とかをそのまま書くのはお目汚しになるので、配慮はします。読んでる誰かも共感してくれるような、或いは自分の気持ちがわからないときにヒントになるような、そんな風に書きたい。例え共感できなくてヒントにならなくとも、読んで不愉快にならないようになるべく綺麗に書きたい。汚いをなるべく綺麗にという心がけはしています。俺のブログの原点は汚い感情で、それをなるべく綺麗に排出するというのが動機です。言わば、ろ過作業みたいなもの。汚いものをありのままにするより、少しでも綺麗にできるならその方がいいじゃんというエゴです。

 

    それでも不愉快になる人はいるだろうけど。だっていくらろ過されてるからって、汚いドブの水を目の前でろ過して「はい飲めるよ!」なんて手渡されても飲みたくないですもんね。俺は飲みたくない。今後もこんな調子でやってくので、不愉快にならない人だけ自分の意思で読んでください。俺はなるべくろ過の精度を高めますので。それでは。

    

 

 目を覚ますと、昨日の酒がまだ残っていた。完全に二日酔いだなと思って、昨日のことを後悔した。飲みすぎたことに対してではない。そこに至るまでの過程を悔やんだ。

 

  昨日は2年ぶりの友人に会っていた。毎年、年明けに帰省してきた時には必ず連絡をくれるのに、去年はくれなかった。もしかしたらもう会えないのかもしれないと思っていた。だから会えて嬉しかった。よく行く居酒屋で飲んだ。近況の話から始まって、最後は思い出話に花を咲かせていた。本当に楽しくて、この時間がずっと続けばいいのにと思った。しかし、楽しい時間はずっとは続かない。楽しいことも、無理に引き伸ばせば楽しいものではなくなってしまう。俺はそれをわかっていた。だから、楽しいものが楽しいものである内に、自分からそろそろ帰ろうかと告げた。

  帰り道、自分はやっぱりまだ楽しいことを求めていた。よく行くバーの前を通った時、新年の挨拶がてらと無理に理由を作ってそこに訪れた。今入ると、終電を逃すことはわかっていた。弟に迎えを頼むつもりだった。何かすることに無理に理由を作って自分を納得させるのは俺の悪癖だ。もう1人の自分が、今それはしなくていいことだ、と俺を引き止めるから、無理に理由を作って納得させる為だ。決まって、帰り道にはもう1人の自分を聞いておけば良かったなと思うのに、同じことを繰り返している。

  バーでの時間は楽しかった。一応、本当に少し飲んで帰るつもりではいたが、酒が進んで気付けば3時間も経っていた。ふらつく足で店を出て、弟に迎えを頼もうと電話をしたら、仕事で夜勤だから行けないと言われた。仕方がないので目の前のタクシーに乗ろうとしたが、財布の中はすっからかんだった。カード支払いはできますか、と聞くと、タクシーの運転手は現金だけなんですと答えた。他のタクシーが来るのを待つのも面倒だったので、途中どこかコンビニで停めてもらってお金を降ろせばいいだろうと深く考えずにそのタクシーに乗り込んだ。20分ほど走って、家の近くのコンビニで停めてもらってお金を降ろそうとしたが、銀行が対応時間外だった。親に電話して理由を説明してすぐ返すから一旦タクシー代を貸してくれと頼んで、家に着いて親に払ってもらった。

 

  それが最後の記憶で、今に至る。記憶を無くすほど泥酔していたのに、自分の姿を見ると服だけはしっかりと部屋着に着替えている。枕元の携帯を取って、ぼんやりとSNSを見ていると、去年授業で少し仲良くなった大学の後輩の投稿で今日から学校か始まっていることを知った。今日が何曜日かもわからないので、カレンダーを見ると木曜日だった。木曜日はたしか授業があったな、とスケジュールを確認すると、1時間目から授業がある。時刻は既に8時半過ぎ。1時間目に行くには8時には家を出ていないといけない。2時間目は授業を取っていなくて、3時間目の授業から行くことに決めた。着替えるのも億劫だったので、部屋着のスウェットのまま、上の服だけ着替えて行くことにした。歯を磨こうと洗面所に行くと、鏡に映る自分の姿、特に寝癖のついた頭があまりに情けなかったので、髪だけ丁寧にワックスでセットしてから家を出た。

 

  駅に着いて、電車に乗ると、他の乗客はみんなちゃんと身だしなみを整えた綺麗な格好をしている。パーカーにスウェットという、だらしない格好をしているのは俺だけだ。空いている席のなるべく端っこに小さく肩を丸めて座った。恥ずかしい。知らない人達だけれど、今の自分の姿を見られたくないと思った。トンネルに入って、黒くなった窓に自分が写る。だらしのない格好なのに、髪だけがしっかりとセットされているのが、不自然だ。少しだけ人からよく見られたいという自分の浅ましい気持ちが見透かされそうな気がして、慌てて手ぐしで髪を崩す。

  終点の駅について、外へ出ると沢山人がいた。サラリーマンが多い。もう正月なんてとっくに終わっていることにやっと気が付いた。そう言えば、昨日、弟も仕事中だったから迎えを断られたことを思い出す。すれ違ったサラリーマンは、歳がかなり近そうだった。本当なら、俺だって今頃あんな風になっていたはずなのに。24歳にもなって、未だに卒業出来ずに学生のままの自分はどれほど時間を無駄にしているのだろう。

 

  最近、今まで頑張って手にしてきたものが、どんどんと零れ落ちていってるような感じが拭えない。同い年の友人は既に社会に出ているどころか、弟ですら働いているというのに。今の自分はなんだ。未だに学生のままで、楽しい事だけを求めて毎日遊んでばかりで、挙句の果てに親に金まで借りて。このままだと、俺はどうなるのだろう。毎日毎日何かを失って、終いには何も無くなってしまう。既に俺はどれほどの物を失っていて、この手に残るものはあとどれほどあるのかさえわからない。全てを失ってしまう日が、いつ訪れるのかさえわからない。少しでも気を紛らわそうと、すぐ側の人気のない道に入って、タバコに火をつける。ゆっくりと吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 

  口から出た白い煙は、空に登って薄くなって消えていく。煙を掴むことは出来ないと知っているのに、何故か俺は消えゆく煙に手を伸ばした。掴もうと握ったその手を避けるように、煙は形を変えて空へと登っていった。そして、薄くなって消えた。

 

    年々、もうこれ以上生きたくないなと思う頻度が増えてきているような気がする。数日前も、そうだ。

 

    生きる意味を失うと、死にたくなる、というよりかは生きることをやめたくなってしてしまう。どちらも同じようではあるが、死を望むことと、生きることをやめたくなることでは大きく違う。結末は同じでも、結末自体を求めるか、その結末の前提を求めるかという話だこれは。

 

    今までも、幾度となく生きることをやめたくなったことがある。それは、他者からの自己に対する敵意や嫌悪感に気付いた時だ。

 

    生きるということは、それに伴う何か大きな目的が必要だと思う。富を築きたいでもいいし、名声が欲しいでもいいし、なんだっていい。ただ漠然と生きてるだけなんてのは、生きてるに値しないとすら個人的には思っている。

 

    俺は、俺という存在をなるべく遺したいから生きている。それは、歴史の偉人のように教科書に名前が載っていて、多くの人間がただ名前を知っているというような、ぼんやりとした認識ではない。

    俺という存在を、人間性を、思考を、その全てを知って欲しい。そして全てを知ったうえで、それに好意を抱きながら認識して欲しい。

    ただ、それを多くの人達に対して遂行することは難しく、ならせめて、周囲にいる大好きな人達くらいにはそうであってほしい。

    だから、俺はその人たちに好きになってもらうために生きている。その為になら、なんだってする。

 

    数日前、その大好きな人達の内の1人に、どうやら俺は嫌われてしまった。その瞬間、生きる意味を喪失した気がして、もう生きる意味なくなったな、生きるのやめたいなと思った。

    やりたかったこととか成せなかったことをリストアップして、それ全部出来たら死のうと本気で考えていた。

    見てみたい景色とか行きたい国とかそういう具体的なことはいろいろと浮かんできて、遂行するにも簡単なように思えた。しかし、やはり最後に俺は、愛する誰かに俺の全てを知ったうえでその俺を愛してくれて、その人の心に刻みたいと思ってしまった。

 

    下唇を噛み締めて、声を押し殺して泣いていると、まだチャンスは残されてるじゃないか、と心の中で誰かがそう言った。

    そうだ、その通りだ。たしかに好きだった人に嫌われてしまったということは、身を削がれるように辛いことだが、まだ1人じゃないか。俺にはあと何人愛する人がいる?まだまだたくさんいるじゃないか!

    その中の1人に俺の全てを知って俺を愛してくれる人が現れるまで、俺にはまだ生きる意味が残されている。まだまだ生きていける。

 

    大丈夫、俺はまだ歩ける。立ち止まることはあったって、この先何度だって歩いていける。

 

欲張り人間

 

    子供の頃、家族とどこか遠くへ向かっている道中に寄った高速道路のSAのお土産コーナーにカッコイイキーホルダーが売られていた。長い鞘に刀身が収まりその周りを龍がとぐろを巻いているキラキラのもの。男の子なら一度は誰もが欲しがったもの。

    それを見た当時の俺は買ってくれ買ってくれと駄々をこねた。長く続いた親との我慢比べに競り勝った俺は、遂にそれを手にすることが出来た。

 

    そんなことをふと思い出す。思えば俺は小さい頃から諦めるという選択肢はなかった。欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れてきた。だからか、随分欲張りな人格になってしまったと時々思う時がある。そんなことを思い出したのも、まさに今自分が欲張りな人間だなあと思っていたからだ。

 

    誰もが常に何かしら1つくらいは欲しいものがあるのではないだろうか。お金で買えるものから買えないものまで。その中でも特に、お金で買えないものほど人は喉から手が欲しくなる気がする。

    お金で買えるものでも途方もない値段がすると、これは自分が一生の稼ぎを費やしても手に入れられないと知ると簡単に諦めはつく。しかしお金で買えないもの。例えば人の心だとか。そういうものは、自分の振る舞い次第では手に入るかもしれないという淡い期待が残ってしまって簡単に諦められなくなる。

 

    欲しいものを全て手に入れるということは大人になるにつれて不可能なことなんだとわかっていく。欲しいものが手に入らなかったという経験を幾度となく繰り返して。欲しいものを諦めるというのは、大人になることのひとつだ。

    俺も来年にはアラサーの仲間入りで、小学生の子達から見れば教壇に立つ先生と変わらぬ大人だ。大人だから欲しいもののいくつかは諦めてきた。

 

    嘘だ。やはり幼少期から欲しいものはなんでも諦めてこなかったから、諦めたフリをしているだけでしかない。大人なのは事実だから、大人になって尚欲しいもの全てを諦めないのは格好が悪いから諦めたフリをしているだけで、実の所何一つ諦めていない。

 

    欲しいということを諦めていないだけで、まだ手に入ってはないし、手に入る未来も見えないので、その所為で多少苦しんではいるが。

    欲しい服、欲しい漫画、欲しい人の心、欲しい暮らし、欲しい幸せ。何一つ諦めてなんかいない。俺は諦めるということを諦めない。そんな欲張り人間だ。反省する気すらない。俺はこのままで生きていく。

空模様に左右されている

 

    夜勤明けの帰り道が好きだ。アルバイトの勤務先を出た頃にはまだ空は少し薄暗いが、地下にある駅へと入り、電車に乗り、数駅ほど過ぎて線路が地上を走る頃には太陽は先程よりもさらに高くに来ている。空も青みを増している。日の光が住宅の屋根やコンビニエンスストアの看板などといったあらゆる物に反射して目に突き刺さる。しかし、それほどまでに眩しくとも、どこか暖かみが感じられる光だ。

    まだ少し暗さを含んだ青い空に、街だけがぼんやりとその優しい光の黄色い輪郭を帯びていて、そのコントラストがとても美しく、見慣れたいつもの風景が嘘のように綺麗に見えて、晴れやかな気持ちになる。そこに、仕事をやり終えたという予め持っていた晴れやかさがマッチして、この時間に帰路につくときのどんな時よりも夜勤明けは格別に晴れやかな気持ちになれる。そういう理由で、夜勤明けの帰り道が好きだ。

 

    ただ、こんなにも晴れやかな気持ちでいると、なんだかもう全てやり残したことがないような気がしてきて、ふと死にたくなってしまう。死にたくなってしまうと言うよりかは、今が死ぬのに相応しい瞬間だと錯覚してしまう。

    普段の俺はいつも些細なことで気に病んだりして、時々死にたいなどと思ったりしてしまうが、結局のところまだ死ぬにはやり残したことが多すぎるとそこにまで至ることはない。

 

    昔、テレビで幼少期からその道1本に掛けてきたスポーツ選手が、世界一に輝いた時の一言が「明日死んでもいい」と紹介されていたことを、ふと思い出した。

    人間は誰しもが常に何かしら一抹の不安や悩みの種を抱えていて、それを解消出来ない内は死ぬに死ねないんじゃないだろうか。

    母親がわりに育ててくれた祖母が末期癌で亡くなった時も、親族全員が祖母に対して、もうこれ以上祖母が頑張る姿を見るのが心苦しくなって、もう楽になって欲しいと決意を固めた翌日に祖母は笑って逝ってしまったのは、きっとそういうことだったんじゃないだろうか。残された俺達が悲しみを乗り越える心構えが出来てない内には祖母も逝くに逝けなかったんだろう。

 

    悩みとか不安はない方がいいようであって、実の所あったほうがいいものなのかもしれない。たった20~30分だけの間、晴れやかな気持ちを抱えるだけで、死ぬに相応しいなんて瞬間だと思ってしまうのだから、これが1時間も2時間も続くほどに長いものなら本当にそこにまで至り兼ねない。

 

    空模様ひとつでこんなにも気持ちが左右されることにある種の恐ろしさを感じていると、いつの間にか電車は降りる駅へと到着していた。改札を抜けて帰路を辿る。程なくして我が家へと着き、扉を開けて中に入る。まだ家の中は薄暗く、陽の光も差し込んでこないので、晴れやかだった気持ちが一瞬にして憂鬱になる。昨日の出来事の嫌だったこととかしんどかったことだとかが一気にフラッシュバックしてそれに思いを巡らせる。死ぬなら今しかないと思っていた気持ちが、まだ死ねないに即座に切り替わる。

 

    空を遮断するだけでこんなにも気持ちが変わるとは。本当に空は凄い。

物臭

 

    改札を抜けて、地上へと続く階段を上がっていくと徐々に空気が湿度を含んでいく。階段を登りきる少し前に手に持っていた傘を開けようとしたが、どうやら雨は止んだらしい。一度傘を開こうと傘のボタンを外してしまったため、もう一度傘を止めようとしたら、まだ傘は濡れていて手が濡れてしまって凄く不愉快になった。

 

    あらゆる物が恐ろしいスピードで発達していくこの時代に傘はどうして形を変えず昔からこのままなんだろう、なんてどうでもいいことを考えながら歩いていく。

 

    駅を出るとすぐに大きな橋があって、いつもそこを通るとき上から川を泳ぐ魚を見るのが些細な楽しみだったのだが、川は茶色く濁って勢いを増しており見るに値しなかった。

 

   低気圧のせいかは分からないが今日は一日中何をするにもイライラしてしまう。傘を止めるのに水がつくのもそうだし川を見れなかったのもそうだし。これからバイトだということにもそうだし。

 

    橋を渡って少しすると右手に繁華街が続いている。その繁華街の入口に喫煙所が用意されていて、バイトの前は必ずそこに寄っている。喫煙所は仕事終わりでこれから飲みに行くであろうサラリーマンや、大学生の集団、客引きの人間やらで多少混雑していた。

    各銘柄のタバコの煙が混じり合って空気に乗って流れてくるため煙たく、気が悪くなる。しかし、その思いとは反面に紫煙の中をくぐり抜けて灰皿の前に立ち、ひとつ火をつけて、同様に紫煙を燻らせる。ストレスが募る環境で、ストレスを和らげる為の行為をするのはなんだか滑稽だなと思う。

 

    向かいの道に目をやると、雨が止んだからか飲みに出ようとする人達が徐々に増えてきている。俺の勤務先もこの繁華街の一角に位置するので、なんだか今日は忙しくなりそうだなあと嫌になる。目の前の人の流れが益々勢いを増していく度に嫌な気持ちが募るので、いっそ目を背けるとその先にはどこからか数匹の鼠が現れた。

    この繁華街はタバコの吸殻や飲食物のポイ捨てで綺麗とは程遠く不愉快ではあるが、鼠達からすればとてもいい環境なのだろう。台風で増水した川の水が鼠達が普段過ごす下水管の中へと流れて、それで彼らは下水管の外へと一時的に避難してきたんだろう。

 

    幼少期のとある一件から齧歯類が苦手な俺は姿を見るだけで気分が悪くなったし、挙句の果てになんと目の前で交尾を始められた。本当に気が滅入る。どこを見てもそこになにかしらの不愉快がつきまとってくる。仮病でも使って休んでやろうかという思いが脳裏を過ぎる。しかし少数で回している店の為、自分が休んだときのことを想像すると、とてもじゃないが他の店の人間に悪い気がしてそれは出来ないなと思い留まった。

 

    煙草を持つ2本の指に若干の熱気を感じたので、目を見やるとすぐそこまで灰になっていた。慌てて灰皿に灰を落とそうと手を動かすと、突然少し強い風が吹いて灰は散り散りになって舞い上がり、目に入ってしまった。

 

    その瞬間にもう全てが嫌になった。なんでこんなにも嫌なことが重なるんだろうか。いっそこの過ぎ去って行く台風がここからもう一度勢いを増して全て吹き飛ばしてくれないだろうか。その時は台風が過ぎ去った後の空のように、少しは晴れやかな気持ちになれるだろうに。そんなことを考えながら見上げた空はまだどんよりと重く澱んでいた。

 

 

自分勝手に生きてくれ

 

    解決することはないだろうけど、言うだけ言ってみよう。聞いてもらうだけで気が楽になるかもしれない。そう思いながら、俺は自分の悩みを打ち明けてみた。

 

    「自分のことがわからない。自分が今、何がしたくて何がしたくないとか、そういうことがわからない。多分人のために生きてきたからだと思う。人がしたいことに合わせる生き方をし続けてきた内に、自分の気持ちを抑圧するのが癖づいて、今じゃもう、自分が何したいとかそういう気持ちを最初から持たないようになってしまっているのかもしれない。」

 

    そう言うと、相手はこう言う。

 

    「人のために生きてきたなんて言うと大層聞こえがいいけど、俺が思うにお前のその生き方は別に人のために生きてるわけじゃないと思うよ。人に合わせるのって結局、自分で選択するということを放棄しているということだと思うんだ。後から何か不都合が起きた時には、あの人に合わせただけって逃げれるからだよ。」

    

    そう言われてハッとした。確かにそうかもしれない。これまで俺は、責任を放棄して逃げ道だけを確保した生き方を、「人のために」なんて言う聞こえのいい言葉で誤魔化していたのかもしれない。

 

    そもそも、人は人のためだけに生きれたりしないんじゃないかと思う。人間はやっぱり自分が1番可愛いし、あなたの周りのどんなに優しい人の行いだって、一見相手を思ってのことのように見えてそこには何かしら自分の利があるのかもしれない。人からいい人だと思われたいみたいな、そういう利が。

 

    別に他人に同情したりとかすら出来ないなんて話をしているわけではない。親しい人の不幸に自分も同様に胸を痛めたりすることがあるし、親しい人が悩んでたり困ってたりしてたなら力になりたいと思うことだってあるだろう。

    ただ、そういう時に相手と同じ気持ちにまで至るということが無理なのではないかということだ。例えば、あなたの最愛の人が飼ってる犬が亡くなってしまい、その人はきっと悲しみに包まれるだろう。その姿を見て、あなたも胸を痛めるが、その人と同じくらいに悲しむことは可能だろうか?あなたからすれば、自分が飼ってるわけでもない人が飼ってるだけの犬の死に、飼ってた人と同じくらい悲しめるだろうか?

 

    つまりそういう事なんだ。俺にも今まで特に気の許せる友人や、好きな人が何かに悩んでたり傷ついていたりする姿を見て心を痛めた経験はある。しかしその時の俺はどこかそれを客観的に見て悲しむような、ちょうどドラマや映画などを見て心動いているような、そんな状態だった。

    その時の俺はなんとか悲しみを和らげてあげられやしないだろうかと持てる力の全てを尽力したが、今思えばあれはきっとその人の為にと言うよりは誰かの役に立ちたいという承認欲求を満たすという自分の利に従っていたのだろう。それでもその人は、後になってその時のことを振り返ってあの時はありがとうと言ってくれる。

 

    今までの俺は、悲しんでる親しい友人達を見る時、こんなにも親しいのに同じ気持ちで悲しみを持てない自分はきっと淡白で冷徹な人間なんだと自己否定してきた。俺以外にもそういう人は結構多いのではないかと思う。

    しかしだ。確証は持てないが、相手と同じ気持ちにまで至らなくとも、誰かの役に立ったり誰かを救うことは可能なんだと思う。話なら聞くよ、って言ってあげたり、いつでも力になるからねと声をかけるだけで人はきっとその言葉に救われるだろう。俺も自分が落ち込んでいたり悲しんでいる時にそういう言葉に救われた経験がある。それはポーズでいい。そこにあるのが相手を思う気持ちだけでなく、自分の利が混ざっていようと。それを相手が見抜くことは出来ないし、相手はそれでもきっと喜んでくれる。

 

    どうか、みんな、人を思いやりすぎて自分まで潰れてしまわないでくれ。人よりもっと自分のことを大事にしてくれ。誰かの力になったり、誰かを救うことは案外簡単だから。だからどうか、もっと自分本位に、自分勝手に生きてくれ。