空模様に左右されている
夜勤明けの帰り道が好きだ。アルバイトの勤務先を出た頃にはまだ空は少し薄暗いが、地下にある駅へと入り、電車に乗り、数駅ほど過ぎて線路が地上を走る頃には太陽は先程よりもさらに高くに来ている。空も青みを増している。日の光が住宅の屋根やコンビニエンスストアの看板などといったあらゆる物に反射して目に突き刺さる。しかし、それほどまでに眩しくとも、どこか暖かみが感じられる光だ。
まだ少し暗さを含んだ青い空に、街だけがぼんやりとその優しい光の黄色い輪郭を帯びていて、そのコントラストがとても美しく、見慣れたいつもの風景が嘘のように綺麗に見えて、晴れやかな気持ちになる。そこに、仕事をやり終えたという予め持っていた晴れやかさがマッチして、この時間に帰路につくときのどんな時よりも夜勤明けは格別に晴れやかな気持ちになれる。そういう理由で、夜勤明けの帰り道が好きだ。
ただ、こんなにも晴れやかな気持ちでいると、なんだかもう全てやり残したことがないような気がしてきて、ふと死にたくなってしまう。死にたくなってしまうと言うよりかは、今が死ぬのに相応しい瞬間だと錯覚してしまう。
普段の俺はいつも些細なことで気に病んだりして、時々死にたいなどと思ったりしてしまうが、結局のところまだ死ぬにはやり残したことが多すぎるとそこにまで至ることはない。
昔、テレビで幼少期からその道1本に掛けてきたスポーツ選手が、世界一に輝いた時の一言が「明日死んでもいい」と紹介されていたことを、ふと思い出した。
人間は誰しもが常に何かしら一抹の不安や悩みの種を抱えていて、それを解消出来ない内は死ぬに死ねないんじゃないだろうか。
母親がわりに育ててくれた祖母が末期癌で亡くなった時も、親族全員が祖母に対して、もうこれ以上祖母が頑張る姿を見るのが心苦しくなって、もう楽になって欲しいと決意を固めた翌日に祖母は笑って逝ってしまったのは、きっとそういうことだったんじゃないだろうか。残された俺達が悲しみを乗り越える心構えが出来てない内には祖母も逝くに逝けなかったんだろう。
悩みとか不安はない方がいいようであって、実の所あったほうがいいものなのかもしれない。たった20~30分だけの間、晴れやかな気持ちを抱えるだけで、死ぬに相応しいなんて瞬間だと思ってしまうのだから、これが1時間も2時間も続くほどに長いものなら本当にそこにまで至り兼ねない。
空模様ひとつでこんなにも気持ちが左右されることにある種の恐ろしさを感じていると、いつの間にか電車は降りる駅へと到着していた。改札を抜けて帰路を辿る。程なくして我が家へと着き、扉を開けて中に入る。まだ家の中は薄暗く、陽の光も差し込んでこないので、晴れやかだった気持ちが一瞬にして憂鬱になる。昨日の出来事の嫌だったこととかしんどかったことだとかが一気にフラッシュバックしてそれに思いを巡らせる。死ぬなら今しかないと思っていた気持ちが、まだ死ねないに即座に切り替わる。
空を遮断するだけでこんなにも気持ちが変わるとは。本当に空は凄い。