忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

No more 逆張り

 

    人の書いたブログ、それも本当に文章が上手なブログ、つまるところ書いた人に会ったこともなければ見たこともないのに、その人の人となりとか感性が伝わってくるようなそんな文章を読むと、自分もそんな文章が書きたいと思ってしまって気がつけば文章を書き出してしまっている。こんな風に。

    しかし書きたいこともなければ、特に書くほどのこともない。そういう時にこのサイトは便利で(恐らくこのサイトに関わらず他のブログサイトにも同じような機能があることは容易に想定できるが)、今週のお題なんて風にテーマをくれる。たまにとは言え数年ほど文章を書くことを続けていれば、お題さえ貰えばそこから誰かがカップラーメンにお湯を入れてから出来上がるまでの3分ほどの暇を潰すくらいの文章を書くくらいは可能なわけで。書き手というものは、どんな形であれ自分が書いたものを読んでもらうのが嬉しい。だから、それくらいの気持ちでも読んでもらえればいいやという構えで今週のお題を見た。

 

今週のお題「最近見た映画」

 

    非常に困った。困ったと言うのは、このお題が書きにくいテーマだからと言うわけではなくて、むしろ書きやすいテーマなくらいなんだけれど、困ったのは俺がこれに関して書きたくないからだ。まあ、書かなければどうしようもないので書くのだけれど。だから俺がこのお題について書きたくない理由でも書こうと思う。

 

    1番最後に見た映画は鬼滅の刃だった。「劇場版鬼滅の刃無限列車編」。  恐らくほとんどの人が知っている映画だろう。とんでもない売れ行きだっていうことでニュースでよく取り上げられてるし。これまで最短で興行収入100億を突破した「千と千尋の神隠し」でさえ公開から25日かかったらしい。それを鬼滅の刃は僅か10日。なんなら公開から24日目には200億を突破するのではなんていう見通しまであるそう。それってつまり、それほどまでに鬼滅の刃が人気のコンテンツということじゃないですか。

 

    俺は自分でも意識してない内にいつからか「人と同じは嫌だ!」みたいな人間性に育ってしまった。多分、高校の頃にハマった音楽を周りの友人に勧めても「これの何がいいのかわからん」みたいなことを言われてしまい、ただ変に自分のセンスだけには自信を持っていたので、「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」みたいな錯覚を起こしてしまったからだと思う。あの時、みんなが俺に変に気を遣って「ああ、よくわからないけどいい感じだね」くらい言ってくれてればこうなってない未来もあったのだろうか。

 

    ただこういう俺みたいな一定数存在する「みんなと逆張り!」みたいな人間って、みんなが支持してる人気のコンテンツも少し気になっているわけで。自分の好みを優先した結果ではあるが、普段から人と逆に動いてしまうせいで、今更みんなが支持してるものに手を出すのもダサいみたいに思ってしまっている。だから言い訳じゃないけど、俺は自分から鬼滅の刃に手を出してないことだけ弁明さしてほしい。

 

    人とは違うを突き詰めた結果髪の毛がピンク色になってしまっていた俺の前にある日全く同じ髪色の女の子が現れた。仲間かもしれない。直感的にそう思った。専門家が言ってたけれど、動物は仲間を見た目とか臭いで認識するらしい。見た目は同じ髪色という点でもちろんのこと、臭いという意味でも、同じような性格とか見た目とかの人間2人を指して「あの二人からは同じ臭いがする」って表現するこの国では、俺が仲間だと思ってしまったのにも頷ける。どうやら専門家ってちゃんと信用していいらしい。

    そこからその子と俺が仲良くなるまでに長い時間は要さなかったわけで。そしてその子がある日、鬼滅の刃見に行こうと誘ってくれた。気にはなりつつも自分から見に行くのはダサいと思っていた俺が1番待ち望んでいた言葉だった。でもあえてクールに「まあ、じゃあ行くか。」くらいの態度をとって、そしてそういうことで俺は鬼滅の刃を見に行くまでに至ったのです。

 

    書いてて思ったけどめちゃくちゃダサいな俺。何が「みんなが理解できないくらいまでに俺のセンスは良くなりすぎてしまったんだ」だ。気になるなら素直に気になるって言えばいいのに。こんなのはあれだ、小学校高学年の男子だ。気になってる女の子に素直になれないから悪口とか言って関わりを持とうとするやつ。ああいうのって大体その子から嫌われちゃうんだよな。まあ、何もしてないのに悪口とか言ってくるやつのこと好きにならないよな。全国の小学校高学年男子、素直になった方がいいぞ。逆の態度は当然ながら裏目に出るぞ。待って。じゃあ俺も多分嫌われてるかもしれないな、みんなに。

 

    この国の言葉では、俺みたいな人間のことを天邪鬼と言うらしい。天邪鬼。あれ、俺も鬼?鬼殺隊とか来るのかな。怖。帰ろ。

招待状

※この記事に関してはこのブログを読むほとんどが俺の友人知人が大多数を占めるということを前提で書いています。ご了承ください。

 

    依存体質が年々強くなっていて、最近ではもう1人でいる時間が苦痛で仕方ない。今にも倒れそうなほど山積みになってしまっているやらなきゃいけないことや、考えたくもない憂鬱なこと、その全てから目を逸らしたい。

    好きな人といる時だけはそういうことから目を逸らせる。楽しいとか幸せとかそういう暖かい気持ちに溺れていられるから。それは実際ただの現実逃避なんだけれど。思うんだ俺は。逃げちゃダメなのか?逃げていれば勝手に時間が解決してくれることもあるかもしれないじゃないか。逃げてても時間が解決してくれないときにだけ立ち向かったらいいじゃないか。「逃げてても何も無い、立ち向かえ。」みたいな、そういう考え方が本当に嫌いだ俺は。やりたい人だけやってろよ。強制するな。

    なんだか愚痴っぽくなったが、要は好きな人とずっと過ごしたいという話だこれは。暖かい気持ちに溺れ続けていたいんだ俺は。そうなると結局のところ、結婚するしかないのかもしれない。好きな人だけを集めて建国するという手もあるけれど、あまりに現実的じゃないしやはり結婚という一手しかない。歳も歳だし。

 

    そういう訳で結婚の予定もないのに常に結婚のことを考えている。果たして俺は結婚できるのだろうかとか、結婚してもいいような人間なんだろうかとか、そういうことを。

 

    仮に結婚出来るとして話を進めよう。俺が結婚する時が来たとして、俺はその事で常々頭を抱えていることが一つある。披露宴のことだ。披露宴に何人か友人を招待することもあるらしいが、予算とかの関係上呼んでも30人いかないくらいらしい。新郎新婦合わせて。てことは一人頭十五人。は?十五人?あまりに少なくないか?

    俺は幸も不幸も他人で共有したいという考えが強い。誰かの幸せをみんなで分け合ってみんなで幸せになって、誰かが不幸ならばそれをみんなで背負ってその人の不幸を軽減してあげて。そんな風に生きれたらとても幸せで満足のいく人生だと思う。

 

    だからこそ、自分の人生で最も幸せのピークである(と考えられる)そんな機会にはたくさん友人を呼びたい。好きな人全員呼びたい。しかし十五。自分の好きな人達に一位から十五位までのランク付けをしろと?なんて残酷な話だ。聞いた話だが、人によっては披露宴に異性の友人を招待するのは非常識だなんてこともあるらしい。好きな人達を性別で管理するなんてことは俺には出来ない。好きな人達は好きな人達だ。そこに性別なんてものは関係のない話だ。

 

    だから俺はなんの予定もないが、結婚する時がくれば披露宴に好きな人達全員呼ぼうと思う。相手親族の意見とか、金銭的な理由とかそういったものも気にせず有言実行しようという強い意思だこれは。みんなで超楽しい披露宴作ろう。その為には君の協力が必要だ。今これを読んでいる君だ。君も勿論俺の好きな人達の内の一人だ。

 

    これは招待状です。いつ行われるか、果たして行われるかもどうかもわからない俺の披露宴の。行われる時がくれば受付でこのブログのこの記事を見せて下さい。これを招待状にするということで話をつけておきますので。

 

    どうか俺の幸せをあなたとも共有できて、あなたも暖かい気持ちになってくれますように。

 

    さあ披露宴はもう間もなく始まります。奥へどうぞ。

何が良くて何が悪いか本当にわからなくなってきた

 

    「嫌われることよりも、無関心であられるほうが嫌だ。」

 

    他人からの評価について談議する時、しばしばこのようなことを言う人が見られる。

    そのような人達が言うには、嫌いであられるということは何かしら意識がこちら側に向いている訳で、意識がある以上何かをきっかけに好きになってもらうことは可能であるが、無関心という何も意識されていない状態であると一切好意を抱いてくれることがないからだということらしい。

    なるほど、それはたしかにそうだ。それを聞くとたしかに嫌われることよりも無関心であられる方が嫌だという意見にも頷ける。

 

    ただ、俺はそれを聞いた上でもやはり嫌われることのほうが嫌だと思ってしまう。それは恐らく、俺が人から好かれたい気持ちが強すぎるからだ。

    誰だろうと、好き好んで嫌われたがる人はきっといない。誰しもが好かれることを望むはずだ。今テーマにしているのは、好かれることが最も望ましいのは前提で嫌われるか無関心でいられるかのどちらが嫌かという話だ。

 

    俺がどれほどに人から好かれたい気持ちが強いかの話をしよう。前述通り、俺は本当に人に好かれたい気持ちが強すぎて、故に嫌われることを無関心であられることより怖いと思ってしまう。嫌いな人でも自分のことは好きでいてほしいと本気で考えている。

    誰かが俺が不幸に陥る様を見て幸せになれるとするなら、俺は望んで自ら不幸へと身を落とすだろう。それほどに人に好かれたい気持ちが強いと言うか、献身的と言うか、他人優先主義なんだ。自分のことに興味が微塵も無いし。

    自己肯定感が低いのもあるが、俺ごときのやることなすこと、或いは存在自体で誰かが喜んだり幸せになれるならば、それが何よりも俺の幸せになる。自分が誰かに幸福を与えれることがそれ即ち俺の幸福にも直結する。

   

    だから、俺は普段人から好まれるようにだけにフォーカスを絞って生きている。人に好まれるためには、利害関係のような話にはなるが、相手にとって利益のある人間にならなければならない。そして他者に利益のある人間と認識してもらうには、相手を観察することが最も重要だと俺は考える。相手がどういう人で、何がその人にとって利益に成り得るか把握することで、その基準で自らの身の振り方に決定を下せる。するとその人にとって利益的な人間を演じれるわけだ。

    そんな風に生きているからか、一人一人に対して微妙に自分の身の振り方を変えている。もっと言えば、複数人で同じ時間を過ごすときにはその集団を構成するメンツの組み合わせによっても多少身の振り方を変えている。

 

    あまり自分自身に対する評価を自ら下すことはこの国では古くからタブーというか暗黙の了解みたいになっているところがあるけれど、それでもあえて言うなら俺は割と他人から好かれている方だと思う。

    まあ、人に好かれることだけを考えて生きているくらいなんだから多少はそうであってくれなければ困るのだけれども。   

 

   ただ、最近ずっと引っかかっていることがある。人に好かれたくて、相手にとって利益的な人間を演じることで得る好感に果たして意味はあるのだろうか。もし相手が俺がわざと好かれたいがためにその人にとっていい人間を演じていると知った時、それまで俺に向けてくれていた好感は変わらず残るのだろうか。そうではない気がする。

 

    それに、俺は自分のことよりも周りにいるみんなのことが心底大好きだし愛している。その人たちに自分が好かれたいが為だけに本来の自分と違う人格を演じるのは、それがいくら相手にとって利益的な人格で幸福を与えているとしても結局は自分のエゴに人を付き合わせているだけではないのか。相手の目線だけで見れば自分に合わせてくれるし利益のあるいい人と見られて良いように聞こえるが、俺の目線で見れば相手のことを第一に動くという点ではそれもまた聞こえがいいが、結局のところ自らのエゴだけを追求してるという点で悪に近いように思う。

 

    一体何がいいことでで何が悪いことなんだろうか。俺のこの生き方は他人優先主義で他人に幸福を与えているから良いもの?でもその生き方には究極的な自らのエゴの追求が内在しているから悪いもの?もうわからない。定義をハッキリしてくれ。その方がきっと楽になれる。悪いものと言われれば改善すればいいだけなのだから。一生答えが出ないままが最も苦しい。頼む、誰でもいいからその辺の定義を確立してくれ。俺には答えが出せそうにない。何卒。

 

    それでは。

不快な朝、死にかけのセミ

 

    プシューと気の抜けたような音の次にはガタタンと音がして目の前の扉が開く。涼しくて快適な車内とは反対に、駅のホームへと降り立つと、肌に纒わり付くような湿気を含んだ生温い外気が、全身を覆った。

    ジージーセミの鳴き声がする。余計に暑苦しくて堪らない。一刻も早く家に帰ろうと改札目掛けて歩を進める。

 

    駅のホームから改札にはバリアフリーの緩やかな下り道が続いてる。余りの不快な蒸し暑さに項垂れながら歩いていると、セミが落ちていた。

    いや、「落ちていた」というのは些かセミに対して失礼かもしれない。セミだってれっきとした生き物だ。生命だ。そんなモノに言うようにぞんざいに扱うべきではない。生命の価値に差なんてないのだから。なんて風に、誰にも知られない心の内を、自分自身で律しながらそのセミを足でコツンと転がす。

 

    人間は矛盾する生き物なんです。そんな風に思いながらも正反対の行動をとってしまう。俺は悪くない。だって、生きてるか死んでるかわからないセミに刺激与えて鳴くか鳴かないかでドキドキするの、面白いんだもん。

 

    結果から言うとセミは生きてた。足でコツンとやると、ジージーと鳴き声を上げて、そのまま地面にへばりついて泣き始めた。さも自分は木に引っ付いてますよと言わんばかりに。

 

    それがなんだか滑稽に思えると同時に、数時間前の記憶がフラッシュバックする。

 

ーーーーー

 

    「今日この後飲む予定なんだけど、よかったらくる?」

 

    帰り支度をしようと、着替えていると、そう声をかけられた。数ヶ月前から始めたバイト先で、そんなお声がかかったのは初めてで嬉しかった。行きます、と二つ返事をして、他にやらなきゃいけなかったことを一旦脳内から消し去った。

 

    飲み会はそれなりの盛り上がりを見せた。俺を除いて。と言うのも、今まで俺に誘いの声がかからなかったのは、他のバイトと交流をあまりとれていなかったからだ。その自覚はあった。

 

    普段あまり喋らない人との飲み会はどれほど辛いかわかりますか。まるで腫れ物に触るように、時々話降ったりするそういう気遣いって、意外とされる側の人間は気付くもんなんです。

    しかも、話を振られてもみんなの期待に応えるような芸当は到底できない。そんなん出来たらそもそも普段からコミュニュケーションとれてるし。

    最終的に、俺に出来ることと言えば、みんなが笑ってるタイミングに合わせてハハハと乾いた笑いをしてたり、たまに勇気出してツッコミみたいなことをして少しだけ空気を冷やしたりしてるくらいだった。

 

ーーーーー

 

    その記憶が走馬灯のように蘇る。忘れたいはずの出来事を、俺は何故セミをきっかけに思い出すんだろう。少し考えて、その理由は明らかになった。

 

    俺はこのセミなのかもしれない。本来いるはずでない場所で、さもここが自分の居場所ですと言わんばかりに振舞っているこのセミと。一緒なのかもしれない。

    俺はきっとあの飲み会にいるべきはずでなかった人間なんだ。俺がいるところでみんなで飲みに行く話をしていて誘わないのもバツが悪いから、彼らはとりあえず誘ってみただけなのかもしれない。誘うフリだったのかもしれない。なのに行きますなんて言われて、ほんとに来るのかよ、とか思われてたのかもしれない。

    なのに俺ときたら、もうこれで仲間ですよねみたいな雰囲気を出して無理していた訳だ。滑稽にも程がある。セミを見て、滑稽だなんて思っていた自分の方がよっぽど滑稽だった。

 

    なんだか無性に腹が立って、もう一度セミを足でコツンとやる。否、「コツンとする」ではなくて「蹴った」と言う方が正確だ。腹いせだ。八つ当たりだ。俺はセミにまで八つ当たりするような小さい人間だ。

 

    蹴られたセミはジジッと大きく鳴いて、飛び立つと、近くの窓から外へと出て、木に張り付いた。

 

    あのセミでさえ、最後にはいるべきはずの場所へと帰って行った。なのに俺ときたら。俺にも帰るべき場所、いるべきはずの場所はあるんだろうか。

 

    わからないけれど、とりあえず今帰るべき場所は家だろう。それだけはハッキリしている。

 

    いつのまにか太陽はさらに高い所へと来ていて、それに比例するようにセミの合唱が益々けたたましくなっている。

 

    それが何より不快で、俺はさらに項垂れて帰路を辿った。

目に写る"それ"は嘘か真か

 

    新しく始めたバイト先がこれまで使ってた銀行口座が使用できないとのことなので、別の銀行口座を開設しに近所の銀行へと足を運んだ。

    しばらく待ってると、待ち番号を呼ばれて席へと。きっとハチャメチャに優しいんだろうなって印象を受ける笑顔が素敵な女性が対応してくれる。

   ザッと説明を受けて早速口座開設の手続きへと移る。こちらの用紙の記入をお願いします、と紙を渡される。受け取ると、女性は少々お待ち下さいと奥へと引っ込む。

    口座を解説するだけで、微塵も綺麗な女性と接すると思ってなかった俺は携帯を取り出しインカメで軽く身だしなみを整える。

    うん、顔はいつも通りだ。少し寝癖が気になるので、そこを手ぐしで溶かしながら用紙を記入していく。

    少しすると女性が戻ってきたので、俺は書いた用紙を渡す。では、身分証明書のご提示をお願い致します、と女性。

    情けないことに俺はまだこの歳で運転免許を持っていない。学生証はダメなことは事前に承知していたので、俺は持ってきていたパスポートを渡す。

    が、しかし。確認を怠っていたがどうやらパスポートの期限が切れていた。保険証はダメですよねと聞くと、保険証だとまた別に顔写真のある身分証明書が必要らしい。

    後々、顔写真付きの身分証を提示してくれれば大丈夫とのことで、キャッシュカードなしで開設してもらうことで、俺は銀行を後にすることができた。

 

    最近では身分証明の基準が法的に高まってきて、以前より厳しくなっているらしい。この日、俺は現状身分証明が出来ないという事実を突きつけられた。

    身分証明が出来ないということはつまり俺が俺であることを証明出来ないと言うことだ。

   その事実に気付くことで、俺はひとつの不安を覚える。もしかして俺は俺ではないのかもしれないのだろうか。

    昨日友人と話してた俺、先週の俺、先月の俺、去年の俺、それよりもっと以前の俺、その全ての俺は本当に俺だった?

    これまでに積み重ねてきたアイデンティティがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。精神面的な意味での自覚を失うと、次にはいよいよ視覚的な自分にまで疑いの眼差しが生じた。

    さっき身だしなみを整える際に見た携帯に映る俺は本当に俺だったのだろうか。鏡や写真に写る自分を見て、俺は自分を、背が高くて、少し色白で、鼻が低くて、まつ毛は少し長く、歯並びは整っていなくてそれでいて前歯がやや大きく、髪は太くて硬くややくせっ毛なルックスの人間だという認識で生きてきた。

    本来ならこんなことを疑問に思うことはないだろうが、自分が自分であることを証明出来ないというきっかけによって、生まれるはずのない疑問が生まれた。

 

    あなたはこれまでに、あなたが見たり感じることで積み重ねてきた認識や見解を疑ったことがありますか。

    恐らくないでしょう。俺だって今の今までなかったんだから。あなたの目に写るものや感じたことの全ては、それがあなたにとって真実であり、答えなのだから。

 

    でも、もしかすると。それはあなたにとって正解に見えるだけで、傍から見れば全然違うものかもしれない。あなたが赤色に見えたものも、他の人からすれば青色だったり、白だったり黒だったりするかもしれない。ガラスとか鏡に写るあなたがこれまでに自分と認識してきた人の姿もあなたじゃないかもしれない。

 

    早い話、客観的視点を持つことは大事だよって話です。目に写るもの全てをそのまま信じるんじゃなくて、1度疑いの目を向けてみたらもっと世界は広がるんじゃないでしょうか。そんな話です。オチはないです。

 

    それじゃあ。

フフフ…待っていたぞ勇者よ…。

 

    「お前好きそう。」

 

    そう言って俺が好きそうなルックスの女の子を見つけてきては、不定期に画像を送ってきてくれる数奇な友人が一人いる。

    そいつは、あまり他の友人から理解の得られない俺の趣味嗜好を何故か結構わかっている。でもわかっているもんだから、大体俺が既に知っている子を送ってくる。だから俺は大抵「この子可愛いよな。前からフォローしてる。」とレスしている。

    するとそいつはこう言った。

 

    「なんかもうこの世の可愛い女の子全部フォローしてる説あるな」

 

    あるわけないだろと。世界人口ナメるなと。

 

    たしかに俺は可愛かったり綺麗な女の子を見ているのが何よりも好きだし、それが俺の幸せでもあるので、常日頃からその辺りのサーチを怠ってはいない。アイドル、モデル、女優、一般人、YouTuberと垣根を問わず容姿の優れた女の子を見つける為に、SNSという大海原を航海している。Like a コロンブス

 

    話は大きく変わるが、幼少期、両親の離婚後父親側に引き取られた俺は、父と弟と父の実家で過ごしていた。手狭な一戸建てにニ世帯だったので、三人は一つの寝室を共にしていた。

   その寝室は三人が寝るにはやや小さいのにも関わらず、不釣り合いにデカいテレビが置かれていた。そして寝る前によく父親がテレビゲームをしているのを後ろから見ていた。その時間が好きだった。自分でゲームをプレイするよりも人のプレイを後ろから見ている方が好きだった。

    父はドラゴンクエストシリーズのゲームが好きで、俺も好きだったので、「眠いならもう寝ろ」とかける父の言葉に従わず、やがて眠気に抗えなくなるまでずっと見ていた。

 

    そのドラゴンクエストシリーズで特に印象的だったのが世界を制服しようとする魔王。当時不思議でならなかった。この魔王にも自分の世界(言うなれば魔界か?)があるはずなのに、どうしてわざわざ人間の世界に出張ってきてそれすらも己のものにしようとするのだろうと。

    でもこういう構図はドラゴンクエストのようなRPGものとか、少年漫画には結構定番で、ラスボスの目的は大抵、分け合える何かを分け合うのではなくて征服しようとしている。

 

    で、また話は戻るんだけど。俺は容姿の優れた女の子を見るのが好きで。常にアンテナを張って毎日毎日そんな女の子を探している。それこそ「この世の可愛い女の子全部フォローしてる説あるな」って言われるくらいに。

    そんなに言われてしまうくらいなのに、未だに月に何人も今まで知らなかった容姿の優れた女の子が出てくる出てくる。それが悔しくて堪らない。こんなに可愛い(綺麗な)女の子を知らずに今まで過ごしていたなんて、俺はどれほどの幸せを掴み損ねてきたのだろうと感じてしまう。

 

    だから俺は思った。

 

    「この世の容姿の優れた女の子全員知りたい」

 

    ここで一つ訂正なんだけど、さっき俺は容姿の優れた女の子を見るのが幸せと言ったが、それは俺がそういう人たち(女優かアイドルか何かはわからないけど)を見てることしかできないわけで。だから見てるだけで幸せと言ったのは、ただの強がりで本当なら付き合ったり結婚したりしたいよ。したいですよ。ええ。

 

    そこまで来たなら次に思うことは当然こうなる。

 

    「この世の可愛いor綺麗な女の子全員みんな俺だけのものにしたい」

 

    そう思って気づいたよ。あれ、これ昔不思議に思ってた魔王とか少年誌のラスボスと同じような発想じゃん。

 

    もしかしたら俺は。俺はもう魔王なのかもしれない。参ったな。助けてくれ俺を。倒してくれ俺を。勇者様。待っています。じゃないと俺は人の道を踏み外したままでいるかもしれない。本当に。早く来てくれ。待っている。

 

    それまで俺は相対した時のセリフの練習でもしている。せめて少しでもかっこがつくように。

あまりにも品が低い内容なので、読んでくださる時は食事中ではない時が幸いです

 

    子供の頃は大人という存在がとても羨ましかった。子供の目から見る大人はまさに自由の象徴だった。門限はない。宿題はない。お金を自由に使える。寝る時間も決められてない。嫌いな野菜を残そうが口うるさく言ってくる人もいない。そんな大人を見ていると、早く大人になりたいと切に願っていたものだ。

 

    しかし歳を経て子供扱いされるどころか、むしろ「もう子供じゃないんだから」と言われることのほうが多くなってきたあたりから、もしかして大人とはそれほどいいものではないのだろうかと感じ始める。

 

    子供の頃は大人が自由の象徴に見えたかもしれないが、それはまだ本当に大人を理解していなかったからだ。今になるとわかる。大人は宿題はないかもしれないが仕事がある。お金を自由に使える?稼いで得たお金から税金とか生活費やらいろいろ差し引かれてその中でやり繰りせねばならない。それに子供は一緒にいて楽しい友達だけを選んで人間関係を築くことができるが、大人はそういう訳にもいかず、社会的理由から苦手な人とでも関係を築かなければならないこともある。

 

    それに大人になるということは歳を重ねること、つまり老いることだ。日が暮れるまで外を駆け回る体力は維持できないし、出来たとしても次の日かその次の日に筋肉痛が訪れるし、そいつが一日で去ってくれる保証もない。体育の授業で最初に必ず行う準備体操。当時は果たしてこれに意味はあるのかと疑問に思っていたが、今になるとわかる。急に体を動かすと単純に体を痛める。あの頃は準備体操などしなくともある程度体がついていけていただけだ。そうなると体を動かすことがだんだん億劫になり、体の至る所に肉がつく。そんな風にして体はどんどんと衰退を辿っていく。

 

    大人になるということは一体どういうことなのだろう。20歳の誕生日を迎えること?成人式を済ますこと?それだけが全てでは無い気がする。体は大人でも中身が子供のままではないか。仮に20歳になったからといって、その瞬間に「じゃあ今日からお前は大人!大人の考えをしろよ!」って言われていきなりそうすることが出来ますか?俺は無理です。

 

    ではどうして精神的にも大人へとなれるのか。ここからは俺の個人的な意見なんだけど、20歳の誕生日とか成人式とか、そういうのはあくまで大人への最低条件なんだと思う。そこから自らの老いを実感して、「俺ももう子供じゃないな」と感じる度に、一つ、また一つと大人へと近づいていくのではないか。そんな気がしている。

 

    言うなれば、老いの実感は大人への階段だ。そしてこれは、子供から大人への過渡期にいる俺がまた一つ大人への階段を登った、そんな話だ。

 

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    昔から寝付きが悪い俺は、今も相変わらず寝付きが悪いままで、半日ぶりに見る太陽に挨拶して眠りに落ちる、そんな毎日だ。そんな生活から脱却するため、毎晩俺を眠りに誘ってくれる素敵な友達、酒、もといアルコールに力添えしていただいている。一足はやく社会へと旅立った同級生の奮闘を肴に飲む酒は、あまりにも自分が情けなくなって、深酒してしまう。

    そして酒は飲みすぎると、何故か次の日に腹が下ってしまう。毎晩飲んでいる俺は、1年の八割くらいは平気な顔をしてはいるが腹はユルユルだ。

    俺の父親なんかは1年の九割九分は腹を下しているらしい。父親はよく友人に、この間仕事中にうんこを漏らしたけどそのまま現場回ったなんていうクソみたいな話をして、笑っている。聞けば週に一回はうんこを漏らしてしまっているらしい。父親に限らず大人になるとそういうことは割とあるらしい。歳を重ねるとそうなってしまうのか、と自分の将来を憂いだ。

 

    先日の話だ。友達と寄ったコンビニで尿意を催し、俺はそこでトイレを借りた。便器の前へと立ち、チャックを下ろし、用を済ます。その時、俺の尻が俺に語りかける。

 

    「俺も息抜きさせてくださいよ。」

 

    俺はそれを許可し、軽く力を抜くと、尻は息抜きをする。が、しかし。「息」抜きと言うからには俺の尻から出ていくものは気体のものであらなければならいはずなのに、それは気体ではなかった。明らかに尻に違和感がある。

 

    あえて一言で描写するならば。俺はうんこを漏らした。ただそれだけの話だ。

 

    その夜、俺は酷い喪失感に襲われた。これが歳をとるということ、大人になるということなのか。子供の頃なりたくて仕方なかった大人とはこんなにも酷く悲しいものだったのか。こんなことなら大人になんてならなくてよかった。

    子供の頃に大人を夢見るのはそれが今の自分から遠く離れたとこにあったからなのだろう。いつの時も「今」はそんなに充実していなくて楽しくないもののはずなのに、後になって思えば楽しかったと思えるのは、きっと遠くにあるものは綺麗に見えるのだろう。山岳から見れる綺麗な夜景も、近づいていてしまえば最寄り駅から数十分で行けてしまうあの繁華街と何ら変わりはないように。綺麗なものは遠くなあるから綺麗なんだ。

    綺麗なものだからこそ、もっと近くで見たくなるのは当然なのに、近づいてしまえば綺麗に見えないなんて、あまりにも残酷で皮肉じゃないか。遠くに見える綺麗なものは、遠くから綺麗だなと思いながら眺めるべきなんだろう。こんなことを思えるのは、俺がまた一つ大人の階段を登ったからなのだろうか。

 

    そんなことを考えていると、気がつけば枕は濡れていた。

 

    目からも何か漏れてしまったのかもしれない。それが何かは知らないけれど。

 

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    あまりにも品がない話なので、部分的にいつもより少し詩的に書いてみたつもりなんですけど、それで誤魔化せたでしょうか。いやきっと誤魔化せてないですよね。失礼しました。

 

    それでは。