忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

不快な朝、死にかけのセミ

 

    プシューと気の抜けたような音の次にはガタタンと音がして目の前の扉が開く。涼しくて快適な車内とは反対に、駅のホームへと降り立つと、肌に纒わり付くような湿気を含んだ生温い外気が、全身を覆った。

    ジージーセミの鳴き声がする。余計に暑苦しくて堪らない。一刻も早く家に帰ろうと改札目掛けて歩を進める。

 

    駅のホームから改札にはバリアフリーの緩やかな下り道が続いてる。余りの不快な蒸し暑さに項垂れながら歩いていると、セミが落ちていた。

    いや、「落ちていた」というのは些かセミに対して失礼かもしれない。セミだってれっきとした生き物だ。生命だ。そんなモノに言うようにぞんざいに扱うべきではない。生命の価値に差なんてないのだから。なんて風に、誰にも知られない心の内を、自分自身で律しながらそのセミを足でコツンと転がす。

 

    人間は矛盾する生き物なんです。そんな風に思いながらも正反対の行動をとってしまう。俺は悪くない。だって、生きてるか死んでるかわからないセミに刺激与えて鳴くか鳴かないかでドキドキするの、面白いんだもん。

 

    結果から言うとセミは生きてた。足でコツンとやると、ジージーと鳴き声を上げて、そのまま地面にへばりついて泣き始めた。さも自分は木に引っ付いてますよと言わんばかりに。

 

    それがなんだか滑稽に思えると同時に、数時間前の記憶がフラッシュバックする。

 

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    「今日この後飲む予定なんだけど、よかったらくる?」

 

    帰り支度をしようと、着替えていると、そう声をかけられた。数ヶ月前から始めたバイト先で、そんなお声がかかったのは初めてで嬉しかった。行きます、と二つ返事をして、他にやらなきゃいけなかったことを一旦脳内から消し去った。

 

    飲み会はそれなりの盛り上がりを見せた。俺を除いて。と言うのも、今まで俺に誘いの声がかからなかったのは、他のバイトと交流をあまりとれていなかったからだ。その自覚はあった。

 

    普段あまり喋らない人との飲み会はどれほど辛いかわかりますか。まるで腫れ物に触るように、時々話降ったりするそういう気遣いって、意外とされる側の人間は気付くもんなんです。

    しかも、話を振られてもみんなの期待に応えるような芸当は到底できない。そんなん出来たらそもそも普段からコミュニュケーションとれてるし。

    最終的に、俺に出来ることと言えば、みんなが笑ってるタイミングに合わせてハハハと乾いた笑いをしてたり、たまに勇気出してツッコミみたいなことをして少しだけ空気を冷やしたりしてるくらいだった。

 

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    その記憶が走馬灯のように蘇る。忘れたいはずの出来事を、俺は何故セミをきっかけに思い出すんだろう。少し考えて、その理由は明らかになった。

 

    俺はこのセミなのかもしれない。本来いるはずでない場所で、さもここが自分の居場所ですと言わんばかりに振舞っているこのセミと。一緒なのかもしれない。

    俺はきっとあの飲み会にいるべきはずでなかった人間なんだ。俺がいるところでみんなで飲みに行く話をしていて誘わないのもバツが悪いから、彼らはとりあえず誘ってみただけなのかもしれない。誘うフリだったのかもしれない。なのに行きますなんて言われて、ほんとに来るのかよ、とか思われてたのかもしれない。

    なのに俺ときたら、もうこれで仲間ですよねみたいな雰囲気を出して無理していた訳だ。滑稽にも程がある。セミを見て、滑稽だなんて思っていた自分の方がよっぽど滑稽だった。

 

    なんだか無性に腹が立って、もう一度セミを足でコツンとやる。否、「コツンとする」ではなくて「蹴った」と言う方が正確だ。腹いせだ。八つ当たりだ。俺はセミにまで八つ当たりするような小さい人間だ。

 

    蹴られたセミはジジッと大きく鳴いて、飛び立つと、近くの窓から外へと出て、木に張り付いた。

 

    あのセミでさえ、最後にはいるべきはずの場所へと帰って行った。なのに俺ときたら。俺にも帰るべき場所、いるべきはずの場所はあるんだろうか。

 

    わからないけれど、とりあえず今帰るべき場所は家だろう。それだけはハッキリしている。

 

    いつのまにか太陽はさらに高い所へと来ていて、それに比例するようにセミの合唱が益々けたたましくなっている。

 

    それが何より不快で、俺はさらに項垂れて帰路を辿った。