忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

あまりにも品が低い内容なので、読んでくださる時は食事中ではない時が幸いです

 

    子供の頃は大人という存在がとても羨ましかった。子供の目から見る大人はまさに自由の象徴だった。門限はない。宿題はない。お金を自由に使える。寝る時間も決められてない。嫌いな野菜を残そうが口うるさく言ってくる人もいない。そんな大人を見ていると、早く大人になりたいと切に願っていたものだ。

 

    しかし歳を経て子供扱いされるどころか、むしろ「もう子供じゃないんだから」と言われることのほうが多くなってきたあたりから、もしかして大人とはそれほどいいものではないのだろうかと感じ始める。

 

    子供の頃は大人が自由の象徴に見えたかもしれないが、それはまだ本当に大人を理解していなかったからだ。今になるとわかる。大人は宿題はないかもしれないが仕事がある。お金を自由に使える?稼いで得たお金から税金とか生活費やらいろいろ差し引かれてその中でやり繰りせねばならない。それに子供は一緒にいて楽しい友達だけを選んで人間関係を築くことができるが、大人はそういう訳にもいかず、社会的理由から苦手な人とでも関係を築かなければならないこともある。

 

    それに大人になるということは歳を重ねること、つまり老いることだ。日が暮れるまで外を駆け回る体力は維持できないし、出来たとしても次の日かその次の日に筋肉痛が訪れるし、そいつが一日で去ってくれる保証もない。体育の授業で最初に必ず行う準備体操。当時は果たしてこれに意味はあるのかと疑問に思っていたが、今になるとわかる。急に体を動かすと単純に体を痛める。あの頃は準備体操などしなくともある程度体がついていけていただけだ。そうなると体を動かすことがだんだん億劫になり、体の至る所に肉がつく。そんな風にして体はどんどんと衰退を辿っていく。

 

    大人になるということは一体どういうことなのだろう。20歳の誕生日を迎えること?成人式を済ますこと?それだけが全てでは無い気がする。体は大人でも中身が子供のままではないか。仮に20歳になったからといって、その瞬間に「じゃあ今日からお前は大人!大人の考えをしろよ!」って言われていきなりそうすることが出来ますか?俺は無理です。

 

    ではどうして精神的にも大人へとなれるのか。ここからは俺の個人的な意見なんだけど、20歳の誕生日とか成人式とか、そういうのはあくまで大人への最低条件なんだと思う。そこから自らの老いを実感して、「俺ももう子供じゃないな」と感じる度に、一つ、また一つと大人へと近づいていくのではないか。そんな気がしている。

 

    言うなれば、老いの実感は大人への階段だ。そしてこれは、子供から大人への過渡期にいる俺がまた一つ大人への階段を登った、そんな話だ。

 

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    昔から寝付きが悪い俺は、今も相変わらず寝付きが悪いままで、半日ぶりに見る太陽に挨拶して眠りに落ちる、そんな毎日だ。そんな生活から脱却するため、毎晩俺を眠りに誘ってくれる素敵な友達、酒、もといアルコールに力添えしていただいている。一足はやく社会へと旅立った同級生の奮闘を肴に飲む酒は、あまりにも自分が情けなくなって、深酒してしまう。

    そして酒は飲みすぎると、何故か次の日に腹が下ってしまう。毎晩飲んでいる俺は、1年の八割くらいは平気な顔をしてはいるが腹はユルユルだ。

    俺の父親なんかは1年の九割九分は腹を下しているらしい。父親はよく友人に、この間仕事中にうんこを漏らしたけどそのまま現場回ったなんていうクソみたいな話をして、笑っている。聞けば週に一回はうんこを漏らしてしまっているらしい。父親に限らず大人になるとそういうことは割とあるらしい。歳を重ねるとそうなってしまうのか、と自分の将来を憂いだ。

 

    先日の話だ。友達と寄ったコンビニで尿意を催し、俺はそこでトイレを借りた。便器の前へと立ち、チャックを下ろし、用を済ます。その時、俺の尻が俺に語りかける。

 

    「俺も息抜きさせてくださいよ。」

 

    俺はそれを許可し、軽く力を抜くと、尻は息抜きをする。が、しかし。「息」抜きと言うからには俺の尻から出ていくものは気体のものであらなければならいはずなのに、それは気体ではなかった。明らかに尻に違和感がある。

 

    あえて一言で描写するならば。俺はうんこを漏らした。ただそれだけの話だ。

 

    その夜、俺は酷い喪失感に襲われた。これが歳をとるということ、大人になるということなのか。子供の頃なりたくて仕方なかった大人とはこんなにも酷く悲しいものだったのか。こんなことなら大人になんてならなくてよかった。

    子供の頃に大人を夢見るのはそれが今の自分から遠く離れたとこにあったからなのだろう。いつの時も「今」はそんなに充実していなくて楽しくないもののはずなのに、後になって思えば楽しかったと思えるのは、きっと遠くにあるものは綺麗に見えるのだろう。山岳から見れる綺麗な夜景も、近づいていてしまえば最寄り駅から数十分で行けてしまうあの繁華街と何ら変わりはないように。綺麗なものは遠くなあるから綺麗なんだ。

    綺麗なものだからこそ、もっと近くで見たくなるのは当然なのに、近づいてしまえば綺麗に見えないなんて、あまりにも残酷で皮肉じゃないか。遠くに見える綺麗なものは、遠くから綺麗だなと思いながら眺めるべきなんだろう。こんなことを思えるのは、俺がまた一つ大人の階段を登ったからなのだろうか。

 

    そんなことを考えていると、気がつけば枕は濡れていた。

 

    目からも何か漏れてしまったのかもしれない。それが何かは知らないけれど。

 

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    あまりにも品がない話なので、部分的にいつもより少し詩的に書いてみたつもりなんですけど、それで誤魔化せたでしょうか。いやきっと誤魔化せてないですよね。失礼しました。

 

    それでは。