忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

斜め向かいの芝は青い

 

    4ヶ月を越えた。病院にいる日数がだ。現時点では今年病院で過ごす時間が長いのか、と気付いて少し怖くなった。まだ退院の目処すら経ってない。年越しだけはせめて自宅でさせてくれ。

    4ヶ月なんて大した節目でもないのに、なんとなくこれまでを振り返った。

 

    3月の末に事故に遭ったが、気がつけば4月。しばらく意識なかったらしい。それを聞いても他人事のように、へえ、としか思わなかった。

 

    そして脳内出血して頭がおかしくなった(おじゃる丸とか見て楽しんでたらしい。御歳20です、こんちには。)関係でベッドの上で拘束された4月。

    初めて車椅子に乗った5月。手術だらけの6月7月。 今まで手術すらしたことない人生だったのに、この4ヶ月でした手術の回数は9回。

    厄年でもないのにこれ。厄年の到来が今から不安でしかない。生きてられるかな。そして今に至る。

 

    4ヶ月入院しててわかったんだけど、大体のやつは1ヶ月ちょっとで退院してる。早いやつは1週間もかからず退院してく。

 

    もう一度言う。俺は入院して4ヶ月を越えた。上には上がいるが、4ヶ月も入院していればこの階の中堅クラスにまでなったらしい。BY看護師さん。

    そんなこと言われると、新しい患者に「お、見ない顔だな。新入りか?」とか思うようになった。

 

    そんな折に、こないだ斜め向かいに新入りが来た。かなり若い。

    毎回病院食にはほぼ手をつけず、院内のコンビニで購入したと思われるご飯ばっか食べてて、「わかるぜ、俺も最初は病院食が嫌でいつも残してた」なんて思ったりしてしまう。

 

    病室の区切りなんてのは薄いカーテンで仕切られてるだけで、 斜め向かいのそいつが看護師さんと話す声はもう筒抜け。

    入院は退屈で仕方がない、外に出たい、退院したい、とか聞こえてくる度に、俺もそうだったなぁとノスタルジックな気持ちにさせられてしまう。

 

    中堅クラスの俺としては新入りのその初々しさが可愛い。病室で電話したり、多少うるさいのも先輩としての自覚が心を寛大にする。

 

    「シャワー入りたいです」

 

    このセリフを立て続けに3日は聞いた。

    いくらこのフロアの中堅を担う俺としてもこれには怒りを隠せない。病院では毎日シャワーなんて浴びれない。せいぜい3日に1度くらい。

 

    俺なんて傷の関係もありシャワーは時々入れるくらいで、基本は頭洗ってもらうだけ。

    いや、わかるよ。常人なら毎日お風呂には入りたいよな。たださ、看護師さんのメインの仕事は「看護」なんだよ。

 

    お前が毎日シャワー浴びてたら、「あいつが毎日なら俺も」なんて具合に毎日入りたがるやつが続出して、看護師さんが激務の毎日になるだろうし、そういう想像力を働かせられない無神経さに俺は憤慨している。

 

    俺だって出来れば毎日シャワー浴びたい。毎日リハビリで汗を流してるんだし尚更。

    でも俺はただでさえ忙しそうな看護師さんを見てると、毎日シャワーに入れてくれなんてワガママはとても言えない。洗髪お願いするときも「もし余裕があればでいいので…」なんて前置きからお願いするくらい低姿勢になってしまう。

    小さい頃、両親は不仲で喧嘩が絶えなかったので子供ながらに空気を読んで生活していたこともあり、とても消極的に育ってしまった。

 

    毎日シャワーに入りたいと言う彼を無神経なやつだと決めつけてはいたが、彼だって大人だし、なんなら俺なんかより歳上だ。

    きっと自分が毎日シャワーに入ると、じゃあ俺も入りたいっていうやつが出てくるだろうし、そうなったら看護師さんが忙しくなるのはわかってるんじゃないだろうか。

    ただそれでもシャワーに入りたいことを通す気持ちの強さ。

 

    俺は怒っているんじゃないんだ。きっと彼に嫉妬している。自分にないものを持つ彼が羨ましい。

 

    ここまで書いている内に、彼は退院していなくなりました。

    本当なら明日退院って言われてたのに無理を言って今日にしてもらってた。

 

音楽は(中略)魔法だ!

 

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数ヶ月前の話になんだけど、大森靖子(以下靖子ちゃん)のライブに行ってきた。

その日、いや開演前の物販に並んでる時だ。ちょっと気が滅入るようなことが起きた。でもまあ初めての靖子ちゃんのライブだしそんなことすら忘れるくらい楽しめるだろう、なんて思ってたけど実際は違った。気が滅入るような出来事すらも最高の思い出にしてくれた。言葉の限界だった。

 

それくらい俺が好きな靖子ちゃんの曲に「音楽を捨てよ、そして音楽へ」という曲がある。特に印象的な「音楽は魔法ではない」のフレーズと、最後はリスナーに「音楽は魔法ではない でも音楽は」と問いかけるような形で終わる歌詞からファン界隈で「では音楽とはなんなのか」といった議論が行われている。

 

「音楽を捨てよ、そして音楽へ」で検索すると、たくさんのブロガーが個人的解釈を書いてて、人それぞれ受け取り方があってこれがなかなか面白い。

「音楽は魔法ではない でも音楽は」ってことはつまり「音楽は魔法ではないけど○○である」という捉え方が出来る。じゃあ○○ってなんなのか。その○○をたくさんのブロガー達が自分なりの○○を書いてくれている。

 

でも俺は音楽は(中略)魔法だと思う。

ただ靖子ちゃんのメッセージを否定しているわけではない。そこのところ少し弁明させていただこうと思う。

 

高校二年の頃、半年ほどイギリスにいた。語学留学が目的の滞在だった。とにかくやる気に溢れていて、日本語を排除した半年間を過ごそうと携帯も日本に置いて行き、好きな邦楽も半年間だけは聴かずに過ごそうとした。しかし無理は禁物ですぐにホームシックになった。それに日本語を排除してるにも関わらず特に成果が現れなかった。もういいやって気になって、それからは勉強もほったらかしてYoutubeを見まくった。それまでは親の影響でコブクロばっかりを聴いていた俺だったが、これをきっかけに様々な音楽と出会った。

 

最初にハマったのは、水曜日のカンパネラマリー・アントワネットという曲。Youtubeが「Recommended for you」なんて言ってくるしサムネの女の子(コムアイ)が可愛かったもんだからとりあえず聴いてみた。変わった曲だなぐらいにしか思わなかった。

しかし次の日、学校へ向かう途中ふと頭の中であのメロディを再生していた。家に帰るとすぐさま閲覧履歴からもう一度再生し、そこからは関連から他の曲にも手をだしハマっていった。

そして今度は水曜日のカンパネラが好きなことから、サオリさんという大学生の方に相対性理論を勧められハマる。すると次はサオリさんの友人にチャットモンチー好きな人がいて、それで興味を持ちチャットモンチーにハマる。イギリスの地で今まで知らなかった日本の音楽にたくさん出会い、さらに音楽が好きになった。

 

そんな具合にろくに勉強もせず、音楽ばかりを聴いて過ごしていた。しかしある時から突然英語力がグンと伸びて、これを機に勉強に熱が入り音楽は聴かなくなった。

日本に帰国してきた時には高校三年生。既に受験を意識し始める頃。英語と国語は出来たが、それ以外はからっきしの俺は何度も落ちて、なんとか合格して受験を終えたのは卒業の数日前だった。一気に緊張の糸が解けて、当分勉強したくないと心から思った。とりあえず、疲れに疲れた自分を休めたくて、そんな時はやはり音楽を聴くことに尽きる。一年ぶりほどの音楽を、今、聴く。

 

シャッフル機能を使い、最初に再生されたのが水曜日のカンパネラの「マリー・アントワネット」。イギリスで一番最初に出会った曲で恐らく一番聴き込んだ曲。

 

イントロが再生された瞬間だった。

 

日本の、自分の部屋で再生したはずなのに、一瞬イギリスのホームステイ先のあの部屋に戻った。あの部屋の匂い、窓から入ってくる冷たい空気。

びっくりして、じゃあ学校に行く途中よく聴いてたあの曲を再生したら、と再生すると一瞬ではあるがあの川沿いのレンガ路に行けた。

 

魔法だ、と思った。

 

少なくとも俺は音楽が世界を平和にするほどの力を持ってるとは思ってないし、戦争を止めることもできないと思う。ただ誰か一人のそれまで忘れていた思い出を蘇らせたり、生活を彩ったりすることはあると思う。

 

それって十分魔法なんじゃないだろうか?

 

長々と書いてきてしまったので最後に記事のタイトルの中略部分を明らかにして終わろう。

 

音楽はみんなが使える魔法ではないが誰か一人にとっては確かに魔法だ!

 

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バイト バイト バイト

 

    二時間半後には今日もまたバイトが待ってる。行きたくない。お金は欲しいけど行きたくない。おそらくこの世の学生のほとんどはバイトが嫌いだろう。

    稀にバイトが楽しいなんて言う人もいるけれど、それは一緒に働く仲間がとても気のいい奴らでバイト終わりにみんなで飲みに行ったりするのが楽しいだけで、それは正確には(仕事は楽しくないけど)バイトは楽しいということだろう。仕事も楽しいよ!なんて言う人はじゃあもう一生働いててください。日本経済のいい奴隷として。

 

    今俺がやってる三つのバイト先の話なんだけど、この前サボってるのがバレてしまいかなり怒られて、それからというもの露骨にシフトを削られるようになった。 何をして怒られたかって休憩を二人でとってたから。

    でもこれってそんなに怒られることなのか?

そりゃあ二人休憩が原因でお客さんの対応に遅れてクレームに繋がったりしたら怒られても当然だろうけど。少なくとも対応に遅れたり、クレームが入ったなんてことはなかった。

    店長の言い分もわかる。賃金を支払ってる以上、言われたことをやるだけじゃなくてお客さんによりいいイメージを持ってもらって会社の利益になるように勤めろってことでしょう。でもそれってバイトの仕事か?こんなこと言うと責任感がないとか、社会性に欠けているとか言われそうだけど、言わせていただこう。

 

    個人的にはバイトなんてものは、正社員の補助をする存在だと思っている。例えば飲食店なら、シェフやオーナーといった調理を仕事とする人材が、同時にホールに出て注文とったり料理を提供する余裕が無いから、それを補うのがアルバイト、みたいな。

    だから、今回俺が怒られたケースで言えば、深夜帯の、正社員が働かないような時間に出勤して、特に何の問題もなく営業できたんだからそれだけでアルバイトとしての役割を全うしたと思うんだが。

 

    それでもあなた達はまだお金を貰っていることに対して責任感がない、なんて言うんでしょう。責任感?ねえよ。アルバイトって副業って意味だからな。正社員はそれが本業になるから、就職するのも難しいし、だからクビにならないよう、また給料の上昇を目指して必死に働くよ。でも俺アルバイトだから。クビになってもいくらでも次で働けるし。

それに正社員と俺が同じ仕事を同じ時間こなしても貰えるお金は違うから。貰える分だけの働きしかしねぇよ。

 

    思うんだけど、アルバイトを雇う側としてもそう考えてて欲しいんだ。アルバイトとしての賃金しか払わないのに正社員と同じくらいの意識を持てって怒られても、ねえ?そうやって考えると理不尽に思うわ。そんなことされたら余計こっちもやる気なくして仕事のパフォーマンス下がるし。

    でもさ、まあお前アルバイトだから貰ってるお金の分だけこっちがやって欲しいことやってくれたらそれだけでいいから、っていう風に言ってくれたら、肩の力も抜けてリラックスした状態で働けるからパフォーマンスも上がるだろうし、暇な時にしても、暇だしこの仕事でもやっとくかって具合にプラスアルファで仕事したりするかもしれないし。

 

    こんな屁理屈みたいなことウダウダと述べてきたけど、責任感を持つのが嫌なんじゃないし、社会性に欠けてるわけでもない。いつか自分も大人になれば、家庭を持つかもしれないし、何か起きても自分だけの問題じゃないという責任感も自ずと生まれてくるだろう。

    ただ今は何か起きても自分の問題だけで済むし。責任感は大きなプレッシャーや不安、緊張に変わって、視界を狭めたり積極性を失わせたりするだろうから。だから今は自由に気楽にしてたいだけ。

    よく、若いうちは失敗しろ、みたいな使い古された綺麗事を酔ったおっさんに言われることがあるけど、おそらくそれもそういうことなんだろう。なにも背負ってない、軽い身体でいれる今のうちの方が色々と挑戦できそうだし。

    だから学生のうちに起業する人達多いんだろうな。ねえ、学生起業家さん達。フォローやめてくれますか?

 

    使い古された綺麗事だけど、割と的を得てると思うよ。別に誰かに説くわけじゃないけど、俺は少なくとも軽い身体でいれるうちは気ままに自由にしてようと思うよ。

 

 

 

    あー。バイト行きたくねぇなあ。

 

幸せを金で買いたい

 

常日頃からどこか満たされてないなあというような、モヤモヤした気持ちを抱えて生きている。

 

携帯を開けて友人達の私生活を覗き見れば、皆キラキラとしており、閉じた携帯の黒くなった画面に映る自分は全くキラキラしていない。

埋まるべきところが埋まっていない。どうにかして埋めたいものだが、何で埋めればいいのかもさっぱりわからない。

 

新しい服を買っても、最初は気持ちが弾むものだが着慣れてくるとそんな気持ちは失せていく。

友人とカラオケに行ったりご飯を食べたりしても、楽しいのはその時だけで家に帰ると楽しかった気持ちは蒸発して煙になって消えている。

 

毎日服を買ったり、常に友人と遊び続けるほどの財力は僕には到底ない。

 

結果毎日コンビニに通い細々と金を消費するのに落ち着いた。

 

金を使う、つまり身を削ることで少なくとも俺は何かをした、今日は生きた意味がある日だ、と思えるのだ。

 

バイトとして働いて稼ぐというのも、時間と労力を消費して金を生産しているという点では、充足感が得られるはずなのだが実際に稼いだ金が手元に来るのは毎月一度の給料日のみですぐに結果として得られないのがどうも煩わしい。

 

そういうわけで、ほぼ毎日コンビニで買い物をしている。

 

しかし俺が毎日コンビニで買い物してるのはあくまでも充足感を得たつもりになりたいだけで、本望ではない。

もっと低コストで充足感を得られる方法があるならば迷わずそちらに移行するし、正直コンビニの商品のほとんどを一度は消費済みなので飽き飽きしている。

 

レッドブル191円、アイスの実129円をカゴに入れていってはいるが、本心は「あるから買っているだけだし…」なんて具合だ。

 

毎日通っているから、何が陳列されているか知っているはずの棚を何故か全て見て周り、何かいい商品を探しているつもりではいるが、俺の目は無いはずのものを探している。

 

幸せである。

 

「何故か全て見て周り…」と言ったが、自分でも分かっている。幸せを探している。「期間限定!幸せ119円」とか「新商品!幸せ123円」とかないかなあ。

お金で買えたらいいのになあ幸せ。

 

それじゃあ。

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惰性とアイデンティティVSハートマーク

 

Apple Musicを知っているだろうか。

 

Apple Musicというのは月々定額支払うことでApple Music内に存在する曲なら聴き放題ダウンロードし放題といったサービスである。

 

かくいう俺もApple Musicユーザーの1人だ。

以前は親の影響でコブクロしか聴いていなかった俺も、インターネットを介して様々な音楽に触れるようになった。

 

それからは所謂サブカルという領域に属されるアーティストを好むようになり、TSUTAYAに行っても目当てのCDが得られない俺はApple Musicに大変お世話になっている。

  

Apple Musicにはお気に入り機能のようなものがあって、曲にハートマークをつけることが出来る。

このハートマークをつけると、情報が送信され、それに似た曲がユーザーに推奨される。

 

「この曲いいな。よし、ハートマークつけとこう。」

 

「お、ハートマークつけてるってことはその曲好きなんですね?でしたらこの曲もお気に召されると思いますよ。」

 

といった感じを思い描いてくれればいい。大変便利で素晴らしい機能だ。

 

俺は音楽は好きになった曲だけを聴くことははない。

俺は様々なアーティストの好きな1曲1曲をまばらにプレイリストに登録するのではなく、好きになったアーティストの楽曲全てをプレイリストに登録する。

たとえあるアーティストの1曲が非常に好みでも他の曲があまり趣味に合わないとプレイリストには入れない。

 

つまり俺のプレイリストに入ってる楽曲は、その全てが好きな曲である。

 

このプレイリストに入れる曲の選び方は、俺にハートマークを用いた優劣を付けれなくする。

 

それには俺が考える音楽シーンにおけるファンの理想像が関係している。

 

俺が考えるファンとしての理想像は、曲をしっかりと受け止めた上で、時に厳しい評価もするが、結局のところ根本的にはそのアーティストの曲は全て好きでいれる人間だと思っている。

 

しかしあくまでこれは理想なのである。実際のところアーティスト1つ挙げても、そのアーティストの楽曲全てが平等に好きな訳ではなく、そこには確かに嗜好に基づいた優劣がある。

 

相対性理論なら、「LOVEずっきゅん」は2番目に好きな曲で、一番に好きな曲は「ミス・パラレルワールド」だ。

チャットモンチーなら「バスロマンス」が2番目に好きな曲で、「恋の煙」が一番に好き、といった具合だ。

 

好きの優劣だけで済めばいいのだが、本音を言うと、そこまで好きじゃない曲が数少なくではあるが俺のプレイリストに数曲存在する。

 

例えばPerfumeの「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」。

あれとかまじで耳が痛くて正直聴くのしんどい。

 

それでも聴くのが正直キツい曲をプレイリストに登録しているのは完全に惰性が1つと、もう1つがアイデンティティを保つためである。

 

俺はPerfumeがとても好きだし、実際彼女達の楽曲のほとんどが好きな曲であるからたった数曲の聴くのがキツい曲のために全曲プレイリストに入れないくらいならば、聴くのがキツい数曲を入れてしまおうというのが惰性。

プレイリストにとりあえず入れておくことで、プレイリストにある=好きな曲→つまり俺にPerfumeで好きじゃない曲なんてない!てことはやっぱり俺はPerfumeのファンなんだと考えることでアイデンティティを保っている。

 

しかしどうしても脳は騙せても体は騙せない。

シャッフル機能で「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」が流れてくるとスキップしてしまう。

だから俺は「不自然なガール」や「ナチュラルに恋して」(どちらも俺の好きなPerfumeの曲)にハートマークをつけたとき、惰性と、アイデンティティの保護のために「ビタミンドロップ」や「スウィートドーナッツ」にハートマークをつけて、似たような曲が推奨されると思うとハートマークが押せない。そういう話。

 

そういえばこの前Apple Musicの期限が切れて、Apple Musicからダウンロードしていたミュージックが全てプレイリストから消えた。

「MUSICVIDEO」や「FRIENDS」が好きなばかりに半分ほどはまだあんま聴いたことのない岡崎体育がプレイリストから一時的に消えてくれたことには少しホッとしてる。

 

それじゃあ。

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言葉の限界

 

    突然ではあるが1つ宣言をしようと思う。

 

    女性が好きだ。俺は女性が好きだ。

 

    街を歩いているときには自然と通り過ぎる女性の顔を見てしまうくらい好きだ。タイプの人が前から来て横を通り過ぎて行ったならば進行方向を180度変えてしまいそうなくらい女性が好きだ。とにかくそれほど女性が好きなんです。

 

    おっと身構えないでくれ。もう少し話を聞いてほしい。

 

    突然の告白の対象にされた女性読者が嫌悪感のあまり通報しそうになる気持ちも分かる。しかしまだ続きがある。もう少し聞いてほしい。

 

    俺は女性を見るとき、女性を性的対象として見ているわけではないということだ。ただ女性の中に芸術性を探しているだけなんだ。だから俺は「可愛い」よりも「綺麗」を好むし、「綺麗」よりも「美しい」を好む。

 

    流行りのメイク、流行りのファッションでデコレイトされた女性よりも、化粧っ気はなくありのままで、さらにどこか独特の雰囲気を併せ持った女性がいいんだ。

 

    そして極めつけは俺は女性とどうこうなろうとは考えてないということだ。

 

    もし俺がすごくタイプの人と出会えて一緒に食事に行ける関係になり、食事に行くことになってお洒落なレストランでディナーを楽しんで、それでそのあともう1件どうなんて誘われて先程のお洒落なレストランから一転大衆居酒屋に連れていかれて酒を酌み交わし気付けば時刻は午前1時、終電もないからどこかに泊まることになって、着いたホテルのベッドで彼女が俺を誘惑してきたとしても…いや、その場合はどうこうなるわ。

 

    しかし自分からどうこうなりにいこうとすることはまずない。それだけは断言する。俺は女性を眺めていれるだけでいいんだから。だから俺は君たち女性読者をただ見ることはあっても指一本触れはしないことを約束しよう。気持ち悪いのは認めるが危険性はない、信じてくれ。

 

    前置きが長くなった。

 

    とにかく俺は女性が、それも「美しい」女性が「芸術的観点から好き」だということだ。

そんな俺は普段SNSでフォローしている美しいモデルの方々を見て「はぁ美しい」とぼやいている。

    しかし時たまに美しすぎて「っ!??!!」なんて具合になることがある。これを俺は言葉の限界と呼んでいる。

 

    言葉というのは人間がコミュニケーションをとる上で、感情を伝える暗号のような働きをしている。

    親しい人と別れる運命になり、胸が締め付けられるような思いを人は「悲しい」と表現する。愛し合う男女が子供を孕んだとき、人は「嬉しい」と表現する。これが言葉の役割。

    しかしあくまで感情を表現しているだけに過ぎず、どれほど悲しいか、もしくはどれほど嬉しいかをそのまま伝えることができないのである。つまりどういう感情か伝えられてもその深さまでは伝えられない。

 

    飼ってたハムスターが死んでしまって「悲しい」。外出中に家が全焼して家族全員と全ての財を失ったかと思えば、同時に日本経済が破綻してその影響でリストラされて「悲しい」。どっちも「悲しい」で表すしかない。

    後者の「悲しい」はおそらく声も出なくなると思うがこれもつまり言葉の限界である。

 

    先程お気に入りのアイドルをYouTubeで見ていたら、コメント欄に「カワイイ。カワイイよりカワイイ言葉があったらいいのに。」というコメントを見つけた。ひどく同感だ。

 

    美しいより美しい言葉があればいいのに。副詞を用いて「悲しい」と「とても悲しい」に使い分けてもせいぜい二段階。人間の感情の深さをありのまま表現するためには言葉は何段階にならなければならないんだろう。

 

アイコンに恋をする

 

    スマホの所持率増加と共に普及しているLINEやTwitter。特に前者は無料で通話ができるしメールよりも早く手軽にメッセージ交換が出来るので、今や現代人にとってのネットコミュニケーションはイコールLINEと言っても過言ではない。

 

    しかしTwitterも、LINEまでとはいかないものの大多数の人間が使用するSNSである。俺なんかはスマホを見てる時間のほとんどがTwitterだ。

 

    Twitterというものをやっていない人のために軽く説明すると、個人個人が各々アカウントを作り(このへんはLINEと一緒である)、それを知人同士や検索を用いて趣味が合う人達と互いをフォローする。

    そうすると、自分が今思っていることを呟くことで自分をフォローしている人たちがそれを見たり、自分がフォローしている人たちの呟きを見れる。そして自分が誰かの呟きを見るとき、呟きの横ににその人のアイコンが表示される。

 

    例えば飼ってる猫をアイコンにしている人の呟きならば、ちょうど猫が「ユニバなう」などと喋っているように見えて少しのファンタジーを見いだせる。

    同じように松岡修造をアイコンにしている人が「寒すぎてテンションめっちゃ下がる...」なんて呟いていようもんなら、暑苦しくない松岡修造が見れたりする。

 

     もちろんアイコンがそのアカウントのユーザーの本当の顔ではない。特に個人情報の流出などで詐欺被害が増加する昨今、SNSは詐欺者が個人情報を狩る恰好の場所なので、余計易々と顔写真をアップロードすることはできない。

     おそらくギャルがよくやる下を向きながら顔の真ん中にピースを持ってくるあのポーズもそのへんを懸念してのことだろう。

 

    だから俺もアイコンの写真が即ちそのアカウントのユーザーの顔ではないことは理解している。

    俺は情より理を重んじる人間だ。いくら喋るファンタジーな猫や暑苦しくない松岡修造を見たいと思っていても、これはアイコンだからそんなはずはないと思うことができる。

 

    しかし俺はどうやらある時にのみおいて理より情を重んじてしまう。それはアイコンの画像がとびきりドストライクの美人のときだ。

 

    夜誰も呟いてないような時間に、とびきり美人のアイコンで「モヤモヤして眠れない…」なんて呟かれていたりしたときには理論がすぐにログアウトして感情に支配される。

 

    モヤモヤしてるということは悩み事があるのだろうか。恋の悩みだろうか。きっとこんなに美しい人ならやることなすこと全て美しい筈なのできっとその恋もドラマのような恋なんだろう。

    すると相手もとびきりのイケメンだろう。そんなイケメンを思って美しいため息をついているのだろう。

 

    すでに俺の頭の中では、そのアイコンに設定された美人イコールそのアカウントの中の人だという思い違いを起こしている。

    その美人がイケメンな彼を思ってモヤモヤしているいじらしい姿を浮かべて俺は悶々としてしまい、気づけば恋に落ちているのである。

 

    そしてもっとその人のことが知りたくなりその人のページへと飛ぶと過去にあげているそのアカウントの本人の顔写真を発見し、恋が終わる。