忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

令和はどんな音楽が流行るんですかね

 

    俺には音楽くらいしか趣味がないからまた今回も音楽の話なんだけど。音楽ってなにも文字通り音を楽しむものではないんだ。いや正確には音だけを楽しむものではないということで、そこにはちゃんと詩というメッセージがあってそれらを吟味する楽しみもある。たしかにDJとかクラシックは音だけではあるんだけど、今回に関しては大衆的な音楽、ポップスをイメージしてほしい。

 

    俺は最近父親の知り合いがやってるスナックで週末だけたまに手伝いをしてるんだけど、そのスナックってのは所謂場末で。来るお客さんはだいたいマスターの知り合いだったり地元のおじちゃんおばちゃん。スナックってのはお酒飲みながら話したりカラオケする所なんだけど、夜も深くなってきて次第に話すことも尽きてくるとカラオケが始まる。

   

    この間マスターの先輩にあたるおじさんが来てたんだけど、曲をカラオケに転送して歌い始めるまでのイントロの間ずっと俺に曲の説明して最後にいい曲だから聴いててなって言って歌い始める。

    それで何曲か聴いたけど俺にはあんまり良さが伝わらなかったから聞いてみたんだ。いい曲の基準ってなんですかって。そしたらおじさんはちょうど今歌い終わった曲を例に挙げてこの曲の歌詞にはこういう心情でメッセージが込められててそれが良いんだって言った。

    たしかに俺は音楽は音だけを楽しむだけのものではなくて歌詞という形で表されるその曲に込められたメッセージも楽しみもあるなんてことを言ったが、それでもやっぱり俺はボーカルの声やらメロディを最も音楽に於いて重視してる面があるし、早い話歌詞を重視して音楽を聴く経験値が浅かった。

 

    なので俺は家に帰ってこれまで聴いた音楽これまで聴かなかった音楽問わず歌詞に重きを置いて聴いてみたんだ。そうするとこれまで聴いていた音楽をさらに好きになれたり、これまで聴かなかった(好まなかった)音楽に好きな一面を見れたりと大きな発見ができた。でもそのおじちゃんが歌ってた曲は家に帰って再度歌詞に注目して聴いてみてもあんまり好きにはなれなかった。

 

    音楽も1つの芸術なわけで、絵画とかの他の芸術のように時代の色を強く受ける。絵画に近代絵画とか印象派とかそういう言葉があるように。もちろん演奏法とかにも社会の色は強くあるんだけど、俺は歌謡曲やポップスの歌詞にも強く社会の影響が出ていると感じた。その証拠にそのおじさんがいい曲と言っていた演歌や歌謡曲の歌詞の世界観には昭和がみっちりと詰め込まれていて、平成生まれの俺にはそれがあまり共感したり理解できるものではなかった。俗に言うジェネレーションギャップ。

    平成の曲って、俺のイメージだけど歌詞に心の弱さが出てたり自らを鼓舞したりするようなものが多い。時代的に今はみんなが病んでるから、煌びやかなステージの上で歌ってる私も本当はこんな風に情けない心だよって安心させてくれたり、寄り添ってくれるようなそんな感じ。対して昭和の曲は、男が外で稼いでくるから女は家のことしてろ!男のやることに女が口を出すな!男なら男らしくあれ!みたいな男尊女卑じゃないけど、鼓舞と言うよりは説教されてるようなそんな曲が多くて。それがどうしても平成生まれの軟派な俺には受けつけなくて。理解しようと歩み寄ってはみたんだけど。無理なもんは無理だ。こんな時、昭和の曲なら、男なら無理なんて言うな!不可能なんてことはない!とか言うんだろうな。死ねクソが。ジェネレーションギャップなんてお前らが押しつけがましいから生まれてることにいい加減気付け。

 

    翌週もそのおじさんは来た。そして先週歌った曲を全く同じセットリストで歌って帰りやがった。デカデカと昭和と書かれた木材でタコ殴りにされている気分だった。客と店の人間という立場から、俺は抵抗も出来ず殴られ続けるしかなかった。あーあ、もう来ないで欲しいな。

 

    平成は心の弱さを吐露して、安心をくれたり寄り添ってくれる歌詞の曲が多い時代だったけど、令和はどんな時代になってどんな曲が生まれるんだろうか。時代は繰り返すなんて言うけど、昭和の再来みたいな曲が流行ったら嫌だな。そうなった時は俺の唯一と言っていい趣味がなくなってしまう。希望を言えば今よりずっと情けなくてもいいんだよそのままの君が好きだよって安らぎをくれるメッセージが強くなった曲が流行って欲しいです。NO MORE 昭和。みんなは新しい時代に適応できる柔軟な思考と心を持とうね。それでは。

「彼女欲しい」って言うけどさあ

 

    言葉が好きだからか、どうしても自分の中に譲れないこだわりみたいなものがかねてからあって。例えば、音楽は「聞く」じゃなくて「聴く」と表記しなければならない、みたいな。まあ、実際は「聞く」は自然に音が耳に入ってくることで、「聴く」は意識的に耳を傾けることを指すから、これは俺のこだわりと言うよりは正しい日本語の使い方になるんだけど。でも、別に「音楽聞くの好きです」で伝わるじゃん?特に略語とか造語で溢れるこの時代なんだし。でもそれを踏まえて正しい日本語に執着するということで「こだわり」なんだ。みんなも気になる言葉ありませんか?

 

    正直、「音楽を聞くのが好きです」って間違った表記で文字を書かれることは、気にはなるけどそんなに気にするほどのことでもないと言うか、無性に食べたいものがあってそれを食べた時に「あ、そうでもなかったな」って食べてから気付くような、そんな些細な違和感なんだ。だから別に俺は音楽を「聞く」って表記する人に、正しいのは「聴く」だぞなんて訂正もしない。

 

    でもどうしても気になってしまう言葉の使い方が1つあって。それは、

 

    「彼女(彼氏)欲しい」

 

    この一言。は???欲しいってなんだ???彼女(彼氏)はものなんか???

【欲しい】

《形》1.自分のものにしたい。得たい。

    いや、本当は彼女(彼氏)っていう「存在」が欲しいって意味での言い回しだってことは重々理解してるよ俺は。でもどうしても「欲しい」って言葉の対象はものっていうところから、 彼女(彼氏)もよっぽどのことがない限り人であるはずだし、それをもの的なニュアンスで扱われると違和感大膨張。虫酸が全力疾走。大会記録樹立。

    でも他に良い言い回しがないし、あまりにも言われすぎてる言葉だから、無意識にそういう言葉を真似て使ってしまう自分が一番嫌い。そういう経験はよくあって、嫌いな言葉なのに他に良い言い回しがなかったり、みんなに言われすぎてるとどうしても嫌いなはずの言葉を無意識だろうが意識的だろうが使ってしまう。悔しい。

 

    そういうわけで、常々嫌いな言葉とかフレーズの他に良い言い回しがないかなって考えてたりする。今日ブログを書いたのは、嫌いな言葉のうちの1つに他に良い言い回しを思いついたからです。その嫌いな言葉ってのは、それこそ「彼女(彼氏)欲しい」の一言なんですけど。これからは「彼女(彼氏)欲しい」じゃなくて、

 

    「彼女(彼氏)になりたい」

 

    って言うことにしませんか??ほんと、お願いします。「彼女(彼氏)欲しい」って言い回し聞く度に俺の虫酸が走るので。もう俺の虫酸走りすぎて足も上がらないのに、それでも走ろうとするんですよ。地面に這いつくばりながら、それでも立ち上がろうとするの、少年漫画ばりに。俺の虫酸を休ませてあげてください。そういうわけでこの代替フレーズの使用を前向きに検討していただけると助かります。

    あと「普通に可愛いw」って言うのもやめてくださいね。普通じゃないから可愛いんで。矛盾してるんで。ほんと。辞書買え。読め。

思い出のタンス

 

    好きなモデルとかアイドルが巻頭グラビアに掲載されてる号の雑誌だったり、写真集とかが収まるべき所に収まらず、衣類、主に靴下とかをまとめてる棚の空いたスペースにとりあえず避難させている。しかし、あるべきところにないというのはやっぱり違和感だし、前々から片付けねばなあとは思いながらも面倒くさくて見て見ぬふりをしていたが、そろそろそんなこともしていられないので、重い腰を上げて棚の整理をすることにした。

    今現在疎開している雑誌類が要するスペース、そしてこれから増えていくだろう分の余分なスペースを確保しなければならない。そうするためにとにかく物を一度全部出す。いるものいらないものに仕分けして、いるものでも関係ないものは棚じゃなくて他の収納スペースにぶち込む。棚は趣味に関するもの(漫画、雑誌、写真集、CDとか)だけを置く場所だから。するとまあいらないものとか記憶にないものが出てくること。

    

    まず最初に出てきたのは昔誕生日にもらったメッセージが書かれたお菓子の箱。貰ったことはもちろん覚えてたけど、箱に書かれたメッセージとかを見てるとその時の会話とか状況とかそういうのまで鮮明に思い出す。「仕方ないからあげるわ」なんて笑いながら冗談交じりに言う割に、ちゃんと俺の誕生日を覚えてくれてたことに嬉しく思った時の心温まるあの感じとかまで蘇る。

    その他にも子供の頃サービスエリアで親に死ぬほどねだって買ってもらった金の龍が巻きついた剣のキーホルダーとか、ノリで買ったカードゲームのパックのレアカードとかも出てくる。そしてそれら全てに付随する思い出とか記憶が溢れかえってくる。

 

    昔の出来事が思い出せないとき、よく「忘れた」なんて言葉で表現するけれど、きっかけさえあれば事細かに全て思い出すことができるみたいだ。もしかすると、人間は遠い昔のことを忘れたわけじゃなくて今俺がタンスの中に片付けたことをどこに片付けたかわからなくなったようにに、人間の記憶の構造がちょうどタンスのようになっているとするならば、閉まってしまった思い出とか記憶をどこに閉まったかわからなくなっただけで別に忘れてたしまったわけではないのかもしれない。

 

    なんてことを金の龍が巻きついた剣のキーホルダーを見ながら考えていると、知らぬ間に時間が結構経っていて、片付けは結局明日に引き伸ばしにしなければならなそうだ。

 

    明日には片付け終わるかなあ。そもそも明日にまたやろうと思えるかなあ。

 

    頑張れよ、明日の俺。

 

人生なんて一発ギャグ

 

    子供の頃なんて、きっと誰でもイタズラしてしまうもので、俺も例に漏れずにイタズラしてはよく怒られて泣いていた。自分が怒らせるようなことをしているだけなのに、勝手に拗ねて親と距離をとりテレビの前に一人座っていた。

   でも子供なんて単純で、次第に興味はテレビへと移り、泣きながらも目はテレビへと向いていて。それで、少しでもおもしろいことがあると、涙は止まり、自然に笑みが零れる。

 

    それから少し年月は経って、中学生になった。中学生と言えば、気遣いとか遠慮が少しくらいはできて、少なくとも泣くほど悲しいときにテレビを見て面白かったら涙が止まって笑えるほど子供ではない。

    そんな中学生の頃に、当時付き合っていた彼女とやむを得ない事情で別れることになった。俺は泣きながら電話の向こうでごめんって言う彼女に、少しでも自分を責めて欲しくないから明るいトーンで仕方ないよなんて言って笑って電話を切って、そしてめちゃくちゃ泣いた。

    思春期だったから恋愛の話も家族としたくなかったし、自分の部屋に閉じこもってずっと落ち込んでた。切り替えねばと思って、テレビをつけてたけど涙は止まらなかった。でも、しばらく無心で見ていると、お笑い芸人が一発ギャグかなんかしたのが、それがあまりにもくだらなくて、気がつけば少し笑ってしまった。その時、お笑いってすげぇ、そう思った。

 

    そういうことがあって、それ以来お笑いが好きになった。本当ならこういう過去があると人はお笑い芸人になりたいとか思ったりするんだろうけど、別にそんなことはなくてただお笑いが好きになっただけ。でもお笑いが好きになったのは事実で、テレビでお笑いの番組とか賞レースは結構欠かさずに見ていた。

    すると今度はお笑い芸人になりたいとまでは思わなくても、なにかおもしろいことをしたい人を楽しませたいと思うようになってきて、気付けば俺はいつも冗談ばかり口走っていた。ただ俺が笑ってもらおうと思って言うことの大体はつまらないし、周囲の人はめんどくさかっただろう。そして、俺はそれに気付けないでいたし、なんなら自分の笑いのセンスは良いと勘違いしていた。それが一番笑えるな。

 

    俺が好む「笑い」というものは、なにかマイナスな或いは負の感情めいたものを陽気で明るいものに変えれる物だった。例えば、ブサイクをウリにして笑いを誘う芸人。ブサイクは美醜の醜にあたる。美醜という字は、反対の意味を持つ漢字の組み合わせで形成されるタイプの熟語で、美が良いものとするならば醜は悪いもの。しかしそれをあえて笑いに変える。所謂自虐ネタって言うやつだ。

    自分では好きになれない、もしくは世間一般的にコンプレックスだとされるものであえて笑いをとるということは、そこに人を楽しませるものという意味が追随されるということ。それってまさしく俺が好む笑いだ。そういうわけで俺はよく、DVを受けた過去とか、わりとめちゃくちゃな家庭環境(世間的にはってだけで俺にとっては普通なのだが)とかを自虐気味に語ることで人に笑ってもらおうとした。笑ってもらうことで、それを辛い過去ということにせずいっそ愉快な物にしてやろうと思っていた。

     俺が辛そうなとき、不幸の中にいるときにそれを笑えって言うのはそういうことなんです。

 

    そうそう、何度か事故にあった話を他の記事でもしましたね。去年の春に死にかけて、それから一年入院して。泣きながら飯を食って、痛い思いも何度もして。ずっとベッドの上で動くことも出来ずに天井を見ながら過ごす病院の個室は広すぎて、流れる時間も遅くて。右の人差し指は曲がったまま固まってしまって。元から下手だった字が、さらに下手になって。麻酔から目を覚ますと、ふくらはぎの当たりがぽっかりなくって。アキレス腱を摘出したんだって。それによってもう走ったりすることは一生出来ないらしく。でもそれ以来よくスポーツしてる夢を見るんだ。あんなにスポーツ嫌いだったのに。夢の中で走ってたらそのまま目が覚めて、その感覚がリアルに体に残ってるから汗をかいていて。シャワーを浴びようと起こした俺の体は、残っている夢の中で動き回ってた体の感覚とは全然違くて。ちょっとした段差を恐る恐る降りなきゃならないくらいで。そういえば今度、身体障害の適性試験を受けることになった。偏見とか持ってるわけじゃないけど、健常者として生きてきた俺には、その試験を受けることで訪れる大きな変化が少し怖い。とかなんとか言ってるけど、悪いのは全部俺なんだ。そもそも生きてるのが奇跡ってくらいの傷を負って、診断書もらったら症状が5回も改行されてやんの。なのに今生きてて普通に麻雀とか打ってんの。曲がった指で。ウケる。

 

    笑え。笑ってくれ。

 

    もちろん良いことも幸せなこともたくさんある俺の人生だけど、今のところもう1つの方との対比はまだまだ負けていて。これからどんどん変わってくだろうけど、今までがこれじゃこれから良いこと幸せなことがどんどん訪れて対比が覆る!なんてことは少し想像しにくい。となると、俺の人生は二つに一つで言えば不幸なものなのかもしれない。

 

    俺が死んだときはみんなたくさん笑ってくれ。俺の人生という、この自虐気味の一発ギャグを。どうか笑ってくれ。

How to 洗脳~洗脳の手引き~

 

    例えば、あなたの友人が気まぐれにいい部分を見せました。2人でコンビニに寄ってあなたはジュースを、友人はピノを買いました。コンビニから出るなり、ピノを開ける友人。1つを口に運ぶと、続け様にもう1つとってそれをあなたの方に向けて言います。

 

    「1個いる?」

 

    あなたは少し面食らいながら「ありがとう」、そう言ってピノを食べる。面食らったのは、その友人がそんな優しさを見せたのが初めてだったから。その友人に会うのは久しぶりで、しばらく会わないうちに変わったのだろうか?だとしたら、いい変化だ。これからもそういう優しさを持ち続けて欲しい。でもこれがもし気まぐれだったら。それは少し残念だ。

 

    じゃあ洗脳しよう。

 

    もしかしたら気まぐれっていう線もまだあるから、いっそその友人をいつもピノ1個くれる人間に書き換えてしまおう。方法は至って簡単。こう言うだけ。

 

    「6個しかないのに1つくれるなんて優しいね。」

 

    するとそいつは、ピノくれたことが気まぐれだったとしたら、それを褒めてもらえて嬉しく思うだろう。ピノ1個あげるだけでこんなに褒められるのか、と感じた友人はそれ以降あなたの前でピノを食べるとき、「1個いる?」と聞くようになります。その度にあなたは彼のその優しさを讃えましょう。そしてしばらくそれが続くと留めの一言。

 

    「お前はいつもピノを1つくれるよな。ありがとう。」

 

    はい、これで洗脳完了。それからはそいつ、褒めなくても必ずピノを1個くれます。もうその友人は勝手に自分のことをあなたに必ずピノを1つあげるやつと認識した。言葉のパワーって怖いよな。簡単に人を変えてしまうんだ。みんなも言葉の持つパワーに自分を変えられた経験はありませんか?俺はあります。

    大体いつも、「あの子気になるんだよな」って誰かに言ったら、実際は別に気になってなかったのにそれ以来気になってしまうし、まだ好きじゃないのに「好きかもしんない」って言うと、知らぬ間に好きになってる。それで付き合った人とは、別れてから俺は本当にあの子が好きだったのだろうか、と首を傾げる。これ、完全に自分が言った言葉に洗脳されてる。

 

    洗脳なんて言っても、たかがこれくらいのことかよ。そう思う人もいるでしょう。好きなあの子を思うように操りたかったですか?嫌いなあいつをめちゃくちゃにしてやりたかったですか?でも、ごめんなさい。洗脳なんて実際はこんなものなんです。そもそも、こんなこと書いてる俺が言うのもなんですけど、洗脳なんてしたらダメなんですよ。だから絶対、「困ってるときにお前はいつも俺を助けてくれるよな。」なんて言って、そいつを助けてくれるやつに洗脳して、困ったふりして金を借りるなんてしたらダメですからね。念押しもしたので、今回はこの辺りにしておきます。次回、How to 消息の絶ち方です。サヨナラ。

なんでもかんでもアンチって言うのやめろ。マジで。

 

    友達からさっきLINEがきた。なんかやけになんでもかんでも悪態つくから、お手本みたいにやさぐれてるなって思ってたんだ。最近起きた良くなかったことのあれこれに関しての愚痴はまあわかるんだけど、しまいには全然関係ないことにまで悪態つき始めて。

    俺とその子は同じアーティストが好きで知り合った。でも今はお互いそのアーティストからは少し離れてて、正直なところファンと言うほどの熱量は既になく冷めてしまっていた。で、その子がそのアーティストのことをめちゃくちゃに悪態突き出した。だから俺は言ったんだ。仮にも昔ファンだったとは思えんくらいの言い草だな、もはやアンチだろって。そして言ってから思った。

 

   いや、それってアンチか?

 

    よーく考えてから思ったんだけど、それってむしろひとつの意見なんじゃないだろうか。否定的な意見だから傍からはアンチに見えるだけで。もしかして昔好きだったからこそ、今こうして言ってるんじゃないだろうか。思い返せば、俺も好きだから、好きなアーティストとかバンドに対して否定的な意見を言った憶えがある。

 

    俺が好きなサブカルっていうジャンルの音楽は、名前に「サブ」がつくくらいだから、狭い領域だ。そんな狭い領域で好きになったバンドも、どこかで人気に火がつけばメジャーへと行ってしまう。俺はあのバンドの昼ドラみてえな汚いラブソング歌ったりするリアルさが好きだったのに、メジャーに行ったら大衆にウケるように少女漫画みてえな綺麗なラブソング歌ったりされる。あんないいバンドが人気じゃないなんておかしいってずっと思ってたけど、こんな形でみんなに知って欲しいなんて思わなかった。むしろ、みんなが今見てるそのバンドはもう今まで俺が好きだった姿と全然別物で、こんな形で知られるくらいなら売れないで欲しかった。だから俺は言う。メジャーに行って大衆ウケ意識するようになってから良さが消えた、って。

 

    最近はなんでもかんでも、バンドのやることなすことに全部脳死で肯定するような盲目なファンが多いせいで、ちゃんとした意見でも否定的だったらすぐにそれはアンチということにされる。むしろなんでもかんでも肯定してる方がバンドを殺してることにまだ気付かないのか。

    バンドが理想の音楽やってそれで食ってけるならいいよ。ただ、そうじゃないときは、どうしたらもっとたくさんの人に聞いてもらえるかってバンドがいろいろ試行錯誤して、それをきちんと評価するのがファンの役目だ。自論だけど、音楽はバンドとファンが協力し合って生み出してくもんだ。

    それをなんでもかんでも肯定してたら、バンドが方向性見失ったり、道間違えてることに気づかなかったりする。ただでさえ食ってくのが難しい音楽業界で、いい歳まで音楽の夢追ってそれで叶わなかったやつはもう実家継ぐかフリーターしか残されてねえぞ。バンドのことほんとに思うならきちんと評価しろ。バンドを殺すな。マジで。

    否定的な意見も肯定的な意見もちゃんとバンドに伝わるようにわかりやすくリアクションをとれ。ちゃんとバンドのこと思って伝えた否定的な意見なら、バンド側も傷ついたりせずに真摯に受け止めるから。だから、盲目にならないでくれ。バンドのこと思ってありのままのリアクションを伝えろ。曲があんまりだったらどこがどうあんまりかちゃんと言え。否定的な意見をなんでもかんでもアンチの一言で済ますな。

 

  今後の音楽業界がいいリスナーで溢れますように。

句読点をつけるのがヘタ

 

    なんかの記事書いてて、書き終わったから一応見直ししとこうと思って見返すと、いつも文章が長いことに気づく。マジで意味わからんくらいひとつの文章が長い。

    それは俺がやたらと読点をつけるからだ。読点って言うのはアレだ。文章を読みやすくするためにつける点でこれ「、」のこと。俺はどうやら読点をつけるのが好きなのかやたらと読点をつけてしまう。

 

    読点は文章を読みやすくするため以外にも、強調したりすることにも活用できたりする。読点は文字の世界にしかないものであって、現実の話し言葉では読点の代わりに間を作ったりする。

    そもそも話し言葉に於いていちいち間を作って話さなくても普通に相手には伝わるんだけど、それでも間を作るとそれは強調しているように感じる。少しの間が「今から大事なこと言うぞ」みたいな意思表示のように思える。だから書き言葉では「実は」の後に大体読点がついてる(って勝手に思ってる)。「マジでだるい」と「マジで、だるい」だと後者の方がダルそうに思えませんか?読点にはそういう働きもある。

 

    ただ文章を読みやすくする以外にもこういう使い方で読点をつけてると、マジで文章が長くなる。あと、俺は句点を付けるのは文章だけでなく内容にも一段落ついたときにしかしないので、そうなってくるともういよいよ文章の長さがバカ。それを踏まえて意識せずに前あった少しの出来事を文章にしてみる。

 

    「昔駅のホームで電車を待ってたら、小さい男の子が俺の方にやってきて『今外すごい雨降ってるよ』って言ってきたので、どちらかと言えば小さい子でも人見知りする俺なんだけど、さすがに小さい子を無視するわけにも行かないと思って、『マジで?教えてくれてありがとう!優しいね!』って精一杯の笑顔で話してたら、その子のお母さんらしき人がやってきて、俺はてっきり『すいませんウチの子が』なんて言われるんだろうなと思って、『いえいえ、可愛いじゃないですか』くらい言ってやろうと思ってたら、『やめてもらえませんか』って一言ピシャリと言われたんですけど、いくらその時の俺の見た目が赤髪だからって、さすがに酷いと思いません?」

 

    これがひとつの文章。ノー句点。意識して書かないとこうなるって言うのがヤバい。文才がないとかもうそういうレベルじゃない。文章書かないほうがいいってレベル。いや、マジで。

    別に話にオチがつかないと句点つけたらいけないなんてルールはないんだし、もっと句点付ければいいと思う。駅のホームで電車待ってたら小さい子に話かけられた、っていうところまでで1回切ったらいいのに。いや自分のことなんだけど。なんで出来ないんだろうな。

    綺麗に終わるところまでじゃないと句点をつけないし、代わりに読点をつけるなんてしてもいくら文章を読みやすくする読点でも限界はあるし、かえって見にくくなってしまう恐れもある。そんな文章は誰も読みたくならないし、実際のところ読まない。句点と読点のことを合わせて句読点なんていう言葉があるくらいだし、句点と読点の数もほとんど同じくらいになるべきだ。ひとつの文章に句点と読点が共にひとつみたいな。今の俺は句読点じゃなくて句読読読読読読読読読読読読読読読読点なんて感じだ。

 

    人生を語るにはまだまだ浅い歳だけれど、これは生き方にもそうなんじゃないかと思う。これまでの出来事も全部地続きで、これまで起きたあれこれに句点ではなくて読点をつけてる気がする。だから昔起きた嫌なこと全てにまだ気持ちは晴れていない。逆に今まで経験したいいことと今を比べたりして「あの時の方が楽しかったな」なんて思ったりしてうまく楽しめないこともある。句読点をつけるのが下手はすなわち生きるのが下手なのかもしれないな。

    まずない話だけれど、俺の今までの人生を誰かが本にしたとしたら、最後の死ぬっていうオチでようやく句点がついて、それまではずっと読点しかない読みにくい本になるんだろうな。

 

    句点、つけなきゃなあ。