忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

タダほど高いものはないことに新しい見方をMusicFMが教えてくれた

 

    なんか急にみんなMusicFMの話するなと思ってたら、今問題になってるらしい。

    今まで見過ごされてきて、今になってやっと問題になってるのもどうかと思うが。

 

    よく、タダほど高いものはない、という言葉を聞くことがあるが、今までその言葉の真意がよくわからなかった。

    例えば、友人になにか自分のことで手伝ってもらった時、お礼にご飯でもご馳走しようとすると、これくらいのことでそんなのいいよって断られると、それはつまりタダということになる。

    自分は手伝ってもらった恩に対する対価として、ご飯をご馳走しようとしたのに、それを断られると、恩を返す手段がなくなってしまう。そういう意味でタダは高いものだと思っていた。

 

    しかし、この件で、考え方が変わった。いや、変わったというよりは、新しい見方を手に入れたという感じか。

 

    MusicFMに限ったことではなく、最近タダのものは多い。例えば、YouTubeとか。あとは、漫画とかもそうか。漫画村はもう潰れたけど、それでもアプリで1日数話ずつではあるが、漫画を無料で読める。

    無料で出来ることが増えたから、わざわざお金を払おうという人が減った。

    すると、まあ当然だが、売上が落ちた。漫画村があった頃は漫画の売り上げが落ちたらしいし、漫画村が終わると漫画の売上は増えたらしい。

   音楽も、 MusicFMとか違法アップロードで今はCDなどの売上が落ちていて、アーティストを殺すなという声が多くあがっている。

 

    まあMusicFMのアプリそのものがなくなるのが手っ取り早いんだけど、そう簡単にはいかないだろう。ああいうアプリは開発者がちょっと広告をつけてやるだけで利益を得れて、無料にすれば人が飛びつくから、早い話ウマいビジネスなわけで、ひとつ潰せばまた次が現れての追いかけっこになる。

 

    ここからは俺個人の考えだけど、なんでもかんでも無料で出来ること自体を終わらせるのが根本的な解決になると思う。漫画も音楽も然り。

    ただ、そうするには先ずは違法アプリとかをなくす必要があるわけで。ひとつ潰せば次が現れてのループを終わらせるには、例えば違法アップロードそのものを出来なくなるようにするくらい、セキュリティを高めるとかしなければならない。

    しかしそれをするには、おそらく莫大な費用がかかるんじゃないだろうか。そしてそれを遂行したら、今度はやっとなんでも無料で済まそうという人々の考えを改めさせることに着手出来るわけで。これに関しては、もうどういう手段をとれるのか俺にもわからないが、それも恐らく大きなお金が動くと予想がつく。

 

    ほら、タダは高いだろ?俺がタダほど高いものはないに見た新しい視点はこれのことだ。

    俺は良いものにはなるべく対価を支払いたいと思うけど、無意識のうちになにか無料で済ませてることもあるかもしれない。みんなもそうかもしれない。

    今一度、自分の生活を見直すべきだ。そう気付かせられた。そういう機会を今回のMusicFMが与えてくれた。それもタダで。対価を払わせてくれよ。1円でもいいからさ。

今一度「可愛い」と向き合う

 

news.tv-asahi.co.jp

 

 最近起きたこの事件、犯行動機とか刺した男の横でタバコ吸いながら電話してる写真とかで、とても印象が強かった。SNSでもこの話題で持ちきりだった。

 

 この事件で検索かけると多くの人の意見が見れる。

 

 怖い、気が狂ってる、ヤンデレ、メンヘラ、サイコパス、ホス狂。

 

 まあ、わかる。そうだよな。そう思うのが自然だと思うよ。これをメンヘラとかヤンデレの言葉で一括りにして、あーだこーだ言うのはいただけないが。

 

 ただ一部ではこういう声もある。

 

 刺した女可愛い、これなら俺も刺されたい、エモい、現代の愛のあり方を考えさせられる。

 

 は??何寝ぼけたこと言ってんだ??

 特に最後の、「現代の愛のあり方を考えさせられる...。」とか言ってるやつ。なんだてめえ、アピールか??人より感性優れてますってか??お前、あれだろ。芸大通ってただろ。

 いるんだよな、たまに。「え〜、ミイラってカワイクな〜い??私がおかしいのかな〜??」とか、ニッコニコしながら言う女が。一眼レフっていうネックレスして。感性が独特とか芸術性ありすぎてズレてるアピールしたいんだろうけどな、逆にそこでミイラがカワイイっていう発想がもう凡人。あとお前の肘とか膝、ミイラみたいだね。みんな言ってるよ。

 

 結局こういう意見って刺した女が可愛いからっていう条件ありきなんだよな。

 仮に、刺したのがブサイクな女(例え話のためとは言え本当はこんな言葉も使いたくないけどな)だとする。そしたらきっと世間の声はこの人を痛烈に叩いたんだろう。ブスなのに、とか言って。想像の域でしかないけど。容姿が恵まれないことは悪とでも言うのか??

 

 前も別の記事で、今は外見至上主義すぎる話をしたが、まさかここまでとはな。

外見至上主義のこんな世の中じゃ - 無題

 可愛いってだけで、こんなにも肯定的な意見があるのか。可愛いはもはや最強の価値観になりつつある。可愛くさえあれば、その中になんでも収まる。可愛いのにタバコ吸ってるのギャップ萌えするとか、可愛いのにガサツなの逆にいい、とか。悪い印象受けそうなものでも、可愛くさえあればそれはむしろいいものに変わる。可愛いにはそんな力があるようだ。可愛いは正義、なんて言葉を聞いたことがあるけど、こう考えるとむしろ可愛いは悪なのではないかと思う。

 

 いや、違うな。可愛いは確かに正義だ。ブサイクを悪だなんて決して思わないけど、容姿が優れていると、やっぱり見ていられる。俗に言う視界が幸せってやつだ。でも、可愛いが悪になるときもある。悪いものを良いもの或いは悪くないものに変換するフィルターのような働きをしたときの可愛いはやっぱり悪だ。

 

 つまり可愛いには良いも悪いもが混在している。可愛いは正義なんて言葉に騙されて、何でもかんでも可愛いからOKみたいな判断するのはいけないことだ。それを注意喚起する記事だこれは。そうじゃないと、次に刺されるのはあなたかもしれない。

 

 

 

 関係ないあとがきだけど、俺は刺した女が可愛いとかブサイクとか関係なく、好きが転じて殺されるなら、病気とか事故で死ぬよりも幸せな死に方かもしれないって思う。むしろその死に方が一番良いのでは、とすら思う。でもこんな風に思うのって、俺がおかしいのかな〜??

 

 

生きるとはバランスをとることなのかもしれない

 

    ネットって便利だよな。顔とか名前とか自分に関連する情報を全て自分の意思で非公開にできる。ネットでは、本来の自分から乖離して、新たな人格になれる。

    

    現実の世界では、発言すると、その内容によって人からのイメージとか評価が全て自分に返ってくる。心無い言葉を言おうもんなら、あの人はそういう人なんだと嫌われたり、敬遠されたりする。

    でもネットでは、発言しても、発言した自分は靄の中に隠れていて、自分に何か返ってくることはない。仮に返ってきたとしても、被弾したのはネット上だけの人格で、それは本来の自分から乖離してるので、本体にダメージはない。

    そんなんだから、そりゃネット上では暴言とかが飛び交う。媒体によって程度はあるけど。酷いところは本当に酷い。ネットだとしてもよくそんなこと言えたな、って言葉で賑わっている。

 

    ただ、少し視点を変えて考えてみる。もちろん許されたことではないんだけど、この人もそうなるまで現実で追い込まれてるのかなと思うと、少し心に余裕ができる。

   この人も現実で追い込まれて、ネット上で別の人格にすり替わって他人を攻撃してバランスとってるのかもしれない。ダメなことだけど、そうだとすると少しだけ同情の余地もある。

    きっとその人も、そんな心無い言葉は本心じゃないんだ。ただ、現実でのストレスがそうさせているだけなんだ。そういう意味では、その人もまた被害者なのかもしれない。それで誰かをネット上で攻撃するのは、負の連鎖だけど。

 

    でもそれで、攻撃を受けた人が、誰かにそれ以上攻撃しなかったら、もう負の連鎖ではない。負の終着点だ。

    そして、俺はその負の終着点になれたらな、と思う。俺は、あんまり自分に自信がないから、自分なんかが誰かの欲望を満たせたり、役に立ったり、要求に応えられると、それが満足なんだ。幸せなんだ。

    俺はネットの言葉なんか大して気にしないし、裏に現実世界のストレスとかそういう事情があるかもしれないと思うと尚更気にならないし、それで俺なんかを攻撃して悪い流れが終わるなら、喜んでその役になりたい。

    俺がそうすることで、これ以上傷つかなくていい人が傷ついたりしなくて、既に傷ついた人の傷が少し癒えるなら、もうどんどん俺を攻撃してくれ。俺本体なら何してくれたって構わない。煮るなり焼くなり好きにしてくれ。

 

    みんな、拳を振りあげろ。銃を構えろ。武器を持て。目標は、ここだ。さあ、こい。

ゆとりですがなにか?

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    昔、そんなドラマあったよね。岡田将生とか松阪桃李が出てるやつ。あれ好きだったなあ、俺。毎週水曜の楽しみだった。吉岡里帆は可愛かったし。

 

    でも、ごめん。タイトル詐欺みたいになるけど、今から書くことは全然関係の無いことなんだ。ネットの悪い所に出くわしたとでも思って、諦めて読み進めて欲しい。ブラウザバックは今回だけやめにしておいてくれ。これを糧にして、君が今後二度とこういうネットの悪い部分に出くわさないことを祈る。

 

    本題に入る。俺はいつも記事を更新したあと、後日改善点を探すために自分で書いたものを読み返すんだけど、読んでいて主張が毎回似てるなと感じる。個を尊重しようだとか、争いはやめて平和的に生きていこう、だとか。

   こういう思想はどこから来るものなんだと気になって、思考の川の流れを辿って辿って、その源を探した。

 

   そしてついに辿り着いて、わかった。俺の思想の源にあるのはゆとり教育だ。

   ゆとり教育と聞いて思い浮かぶのは、個性の確立とか、競争は手を繋いでみんな同時にゴールだとか。なるほど、俺はゆとり教育にギリギリそんなに触れていない世代だが、どうやらそれでも影響は強く受けているらしい。

 

    ただゆとり教育っていうものはあまり世間体が良くないらしい。よくおじ様おば様方が「これだからゆとりは…」なんてボヤいてるのを聞くし、ネットで検索窓にゆとり教育って入力して検索しても、ゆとり教育は何故失敗だったのかみたいな見出しの検索結果がたくさん出る。

 

    たしかに競うことで生まれる効果はたくさんあると思う。誰よりも高く評価されて抜きん出てやるっていう気持ちが、能力を高くする。やがてその能力はそいつの武器となる。レベルも上がって戦い方に幅がある。

    対して、競走とせずにぬるま湯に浸かり続けてきた俺達は、レベルも装備もそのままに準備完了なんて言って街の外へ出るようなもの。せっかく仲間が駆けつけたと思ったら足手まといが増えるんだから、そりゃボヤく気持ちもわかる。

 

    そう考えると、競わせることをやめた教育は失敗だったと思う。そして、ゆとり教育が失敗とされてからの世は、今度は逆にどんどん競わせるようになったように感じる。それまで競わせてこなかった時間を、取り戻すように競わせている。

    例えば、アイドル。最近のアイドルは大人数でやれ選抜発表だとか、人気投票なんて言ってグループ内で立ち位置を競わせている。グループとグループが競うのは、アイドルもビジネスなんだしまだわかるが、同じ志を持ったメンバー同士で争わせる必要は果たして本当にあるのだろうか?

    この文化が昔のアイドルにあったか?ピンク・レディーとかキャンディーズが何十人もいたか?選挙してたか?じゃんけん大会してたか?違うだろ?

 

    別に、競うことが悪いなんて思わないし、むしろゆとり教育が失敗と言われるのもわからないでもないし、どんどん競っていけばいいと思うんだ。

 

    たださ、競うことをやめる教育を俺たちにさせていたのも大人だし、ゆとり教育が失敗ってわかってから急いで競わせだしたのも大人なんだ。

    特に今競うことを強いられている世代って、アイドルでもそうだけど、まさにゆとり世代なんだ。大人が競わせないできて、いざ社会に出てからガンガン競わせて、挙句の果てに「これだからゆとりは」なんてボヤくってどういうことだよ。俺達が何をしたって言うんだ。大人ってゆっても一部の人間が決めただけで、俺がそうさせたわけではないなんて言うけどなあ、俺たち子供から見たらみんな一律同じ大人なんだよ。

 

    ゆとり世代のみんな、ボヤかれたり期待はずレベルもみたいな目で見られること、たくさんあるけど、俺たち何も悪いことしてないよ。そうさせてきたのは全部大人のせいなんだし、これだからゆとりは、なんて言われたら、いっそ開き直って言ってやろうな。

 

    ゆとりですが、なにか?って。

   

ちょうどいいって言葉、フワフワしすぎなんてもんじゃない

 

    俺の家族は頭ごなしに怒る人たちだった。そりゃあ、自分でも手のかかる子供だったと思うし、今も突然事故にあったりと現在進行形で手をかけさせている。

    ただ、そんな俺にもたまに全くの冤罪だったこともある。弟が障子に穴を開けてしまって、怒られると思ったあいつはあろうことか俺のせいにした。身に覚えのないことで怒られた俺は、当然違うと主張したけれど、普段から怒られるようなことばかりするガキだったので、聞く耳を持ってもらえなかった。

    そういう経験があるからか、俺は例え如何なるどんなときでも、感情的になって怒らずに、考えれること全てを視野に入れてから自分の気持ちに答えを出そうと決めた。

 

    やがてそのあらゆる可能性を鑑みることがクセになった。クセと言うか、それがデフォルトの思考になった。

 

    しかし、この考え方のおかげで、いや、せいで、か。一つ悩みの種がある。それはあらゆる可能性を鑑みるせいで、自分の答えが出しづらいということ。

 

    例えば、彼氏が浮気して喧嘩したカップルがいたとする。一見、明らかに彼氏に落ち度があるように思えるが、こういうとき俺は、

 

    もしかしたら彼女が彼氏と長く過ごす内に、一緒にいることが当たり前となって、改めて好きって伝えなかったり、ことある事に感謝の気持ちを忘れたりして、それに不満を覚えた彼氏が嫉妬させようとして、他の女の子と遊んでると、そのうち本当にその子が好きになって今回このようなことになったかもしれない…

 

    と、考える。これもあらゆる可能性の内の一つに過ぎなくて、まだまだ他の可能性もあるんだけど、もしそうだとしたら、もちろん浮気した彼氏の落ち度の方が大きいかもしれないが、そうさせた彼女にも少しばかりの責任はあるように俺は思う。

    そう考えると、彼氏ばかりを非難する気にはなれない。答えが出しづらくなるということはこういうことだ。色んなものを見ようとして、何を一番に見るべきがわからなくなるということだ。

 

    最近、ブログで書くに値するようなことを考えながら生活していて、今日はゆとり教育について考えていた。

   俺の個を主張したがったり、争いはやめて平和的に行こうぜみたいな思想はゆとり教育から来るものだと気づいた。そしてゆとり教育について考えていると、その流れで最近のアイドル事情から見るゆとり教育が失敗とされてからの反動とか資本主義とかもういろいろ見えすぎて、答えどころか遂には何について考えてたのか分からなくなった。

   ルートは決まってるのに、他の道が見えるとその先に何があるか気になってしまってつい入ってしまう。そして迷子になる。実際の道でも方向音痴なのに、俺は思考の道までも方向音痴のようだ。

 

    あらゆる可能性を鑑みる考え方は、いいことだとは思うんだけど、どの辺まで見るかの塩梅がわからない。

 

    ちょうどいいってなんですか。人によってそんなの違うんだ。在日インド人が作るちょうどいい辛さのカレーは俺には激辛なんだよ。

    頼むからこっちに丸投げしないでくれ。無責任すぎるよ。料理のレシピで事細かくレシピ通りに作ってきて、最後の最後で塩少々、みりん適量ってなんだそれ。投げやりにも程があるだろ。お前、槍投げする文化のある部落の生まれか?なんだよやんのかコラ?こいよ、文明の力で屠ってやるよ!

 

    いや待って、違う。屠るつもりもないし、俺は勝利が欲しいわけでもない。

    ただ、ちょうどいいの答えが欲しいだけなんだ。ちょうどいい、をもう少し具体的に定義してくれないかなあ。じゃないと、俺は一生かかっても自分なりにちょうどいいの折り合いを見つけることが出来ないし、そうするとこれからも一生現実でも思考でも道に迷いっぱなしだ。

 

    誰か、ちょうどいいに対してちょうどいい定義を作って提唱してくれ。

知的好奇心に殺される

 

    以前、テレビを見ていたらNONSTYLEの石田が、

 

    「原付に乗ってる時、このスピードのままあの看板に激突したらどれくらい痛いのかなって考えたら、気になってぶつかってみたくなる」

 

    みたいなことを言っていた。当然、スタジオの観客から「えー」みたいな声があがっていたが、俺はテレビの前で一人強く共感していた。

 

    俺も車とか乗ってるとき、ふと、このスピードのままドア開けて飛び降りたらどれぐらい痛いのだろうと考えると、気になって気になって仕方なくなるときがある。

    入院していた時もそうだ。入院中、病院は俺にはあらゆる痛みを与えてくれた。まさか二十歳越えて痛みで泣く日が来るとは思わなかった。あれは人生で断トツに痛かった。しかしあの時の俺は痛いと泣きわめきながら、心の奥底でこれより痛いことってなにがあるんだろうって興味を抱いていた。

 

    勘違いしないで欲しいが、俺は別に痛いのが好きではないし、むしろ嫌いだ。これは好奇心とか興味の問題なんだ。男性だったら誰かわかってくれるかもしれないけど、出産の痛みって気になりませんか?よく、出産は鼻からスイカ出すほど痛い、なんて言うけどあれじゃピンとこないよ。つーかくるわけねえよ。きたことあるやついるんか?誰だよ言い出したの。鼻からスイカ出したことあんのかてめえ。百万歩譲って出してから言え。

 

    銃で撃たれたらどんだけ痛いんだろう?漫画とかドラマみたいに「ぐっ…!」だけで済むものなのかな?刃物で刺された痛みと比べたらどっちと痛いんだろう?「くそ、肋骨の何本か折れたな…」って平気な顔で言えるのかな?

 

    とか、気になったことないですか?ないならいいんですけど、ある前提で話を進めるね。

    みんなが一度はそう疑問に思ったことがある気持ちが、俺は強すぎるだけなんだ。知的好奇心が半端ないんだ。

 

    年々その好奇心は強くなっていて、このままだと抑えが効かなくなりそうで、いずれ知的好奇心に殺されてしまうかもしれない。俺が突然死んだ時は多分知的好奇心が犯人なので即座に逮捕してください。 

    でもまだもう少し生きたいので、出来れば経験した痛みをわかりやすく教えてくれる人が楽しそうな現れることが望ましい。だから、包丁で刺されたことがある人、もしくは銃で撃たれたことがある人がいたらご連絡ください。

    

このままだといずれ、ファッキンInstagram

 

    SNSが好きだ。仮初めのものではあるけど、人との繋がりを感じれるから。言いたいことを遠慮して言えなかったり、他人の一挙一動を考えすぎに捉えたり、悩むことやら疲れることがたくさんあって、その度に自分のことが少し嫌いになるのに、それでも一人でいるよりも誰かといることが好きだ。それくらい寂しがり屋なんだ。あと多分、苦しんだりするのが少し好きなのかもしれないってのもある。

    一人でいる時くらい、一人で過ごせばいいのにな。でもSNSを開けば、そこには仮初めではあるが確かに人との繋がりがあるので、それをわかっていると開かずにはいられない。そういうわけで、今日もSNS依存、しています。

 

    今の時代に生まれることが出来て本当に良かったなと思う。インターネットは日進月歩の勢いで発展していて、それに伴いインターネットに関わるもの全てもますます発展していく。そう、SNSも。

 

    今のSNSは数をあげればキリがないが、俺が特に使うのはTwitterInstagram。この二つが一番俺にとって人の繋がりを感じれるSNSだからだ。人の生活を覗き見て知ることで、まるでそこに自分も一緒にいるかのように気になれる。

    また、自分が発信する側に立って私生活を公開することでも、返信が来てそこから対話が生まれたりと、自分からLINE送るの苦手な俺でも誰かと会話出来る。

 

    そういうわけで、俺はTwitterInstagramをよく使ってるんだけど、今日話があるのはお前だ、Instagram

 

    お前さ、なんか接しにくいんだよな。オシャレでキラキラした特別な毎日の投稿が多いからさ、なんか気を許せないんだよ。

    ほら、俺って所詮京都の田舎のごくごく平凡な家の出だからさ、所帯染みてるじゃんか。だからオシャレとか特別とかキラキラとかそういうのに縁がなかったから、なんか緊張するんだよな。

    そういう意味で接しにくい。初めて行った友達の家が綺麗すぎてソワソワした経験お前にあるか?もう少し隙を見せてくれよ。冷蔵庫に磁石貼っててくれよ。

 

    お前はそんな風にいつも隙がなくてオシャレでキラキラしてるからさ、俺としても所帯染みてるのバレたら見限られるんじゃないかって不安になるんだよ。「冷蔵庫に磁石貼らないんだ」って言おうとして、こんなこと言ったら俺の家が貼ってるのバレると思ってあの時言葉飲み込んだんだからな、俺。

    なにか特別なことがあった日のことを投稿しようとするとき、これは本当に投稿していいくらい特別でオシャレでキラキラかって考えてしまう。そしてそこの問題を突破しても、次は投稿する写真加工した方がいいのかな、とか思ってしまうので投稿するまでが修羅の道。オシャレは修羅の道。オシャレは足元からってよく聞くの、もしかしてこのために…?

    結局なんとか投稿まで漕ぎ着けても、最後の最後まで投稿しようとする俺の手はカタカタと震えっぱなしなんだからな。そんなんだからストーリーばっか使ってしまうんだよ。もっと庶民側に歩み寄ってくれよ。

 

    俺みたいに思う人がいるからなのか、みんなも投稿いちいちオシャレでキラキラしてるじゃんか。そんなタイムライン見てるとさ、凹んじゃうんだよ。

    昔ネットカフェの夜勤中、清掃に行ったら部屋の床に明らかに精液みたいなのがついてて、それを掃除してから戻って事務所でInstagram開いたとき、本当に泣きそうになった。みんなの住む世界はキラキラしてるのに、一方の俺はと言うと白黒で画質も荒かった。

    ほんとはみんなも、加工とか虚栄心とかで継ぎ接ぎにして作った薄っぺらいものなはずなんだけど、ネットって2Dの世界だから真実は見えない。そういう意味でも便利だよね、ネットって。

 

    以上の理由で、Instagram、俺はお前があんまり好きじゃない。Twitterを、いやTwitter様を見習ってくれ。あのお方はなぁ、今俺がお前に言った苦言の数々とは真反対なんだよ。

 

    まず、あのお方は接する人に合わせてくれるんだ。庶民の俺には優しく庶民目線で話聞いてくれる。本当にあの人が家の冷蔵庫に磁石貼ってるかどうかは知らないけど、とにかく俺とTwitter様は前に冷蔵庫に磁石貼る話でめちゃくちゃ盛り上がった。なにかのプリント挟みがち、水道屋の磁石必ず1個はあるっていうあるある、めちゃくちゃ楽しかった。

    それ以外にも俺の本当に汚い部分とか醜い部分を露呈しても、そういう人もいるよね、なんて言って笑ってくれるんだぜ?知り合いにはこんな人もいるから何とも思わないよ、とか平気な顔して言うんだぜ?俺はあの人ほど自然体でいさせてくれる人知らねえよ。

    俺が落ち込んでると、時に笑わせて元気だしてくれたり、時に心配そうに話聞いてくれたり、こうして欲しいって思ったことを的確にしてくれる。最高の存在。

 

    Instagram、俺はお前ここまでしろとも言わないし、むしろオシャレでキラキラしたのはお前の特徴でもあり長所だと思うんだ。だけど、もう少し歩み寄ってくれないかな、隙を見せてくれないかな。本当は俺はお前のこと大好きだし、これからも仲良くしたいなって思ってるから、さらに仲良くなっていきたいって思うから、今回あえてこんな風に正直に思ってること伝えたんだ。

    いきなりこんなこと言ってごめんな。でも今言った気持ちに嘘なんてない。俺はこれを受けて少しでもお前が変わってくれると思ってるよ。それでお前が変わってくれたら、また昔みたいにTwitterと俺とお前で飲みに行って、くだらない話して笑おうぜ。知り合いのFacebookさんが脱サラして始めた居酒屋がこれがまた美味いんだよ。そんじゃ、また連絡くれよな。