忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

不快な朝、死にかけのセミ

 

    プシューと気の抜けたような音の次にはガタタンと音がして目の前の扉が開く。涼しくて快適な車内とは反対に、駅のホームへと降り立つと、肌に纒わり付くような湿気を含んだ生温い外気が、全身を覆った。

    ジージーセミの鳴き声がする。余計に暑苦しくて堪らない。一刻も早く家に帰ろうと改札目掛けて歩を進める。

 

    駅のホームから改札にはバリアフリーの緩やかな下り道が続いてる。余りの不快な蒸し暑さに項垂れながら歩いていると、セミが落ちていた。

    いや、「落ちていた」というのは些かセミに対して失礼かもしれない。セミだってれっきとした生き物だ。生命だ。そんなモノに言うようにぞんざいに扱うべきではない。生命の価値に差なんてないのだから。なんて風に、誰にも知られない心の内を、自分自身で律しながらそのセミを足でコツンと転がす。

 

    人間は矛盾する生き物なんです。そんな風に思いながらも正反対の行動をとってしまう。俺は悪くない。だって、生きてるか死んでるかわからないセミに刺激与えて鳴くか鳴かないかでドキドキするの、面白いんだもん。

 

    結果から言うとセミは生きてた。足でコツンとやると、ジージーと鳴き声を上げて、そのまま地面にへばりついて泣き始めた。さも自分は木に引っ付いてますよと言わんばかりに。

 

    それがなんだか滑稽に思えると同時に、数時間前の記憶がフラッシュバックする。

 

ーーーーー

 

    「今日この後飲む予定なんだけど、よかったらくる?」

 

    帰り支度をしようと、着替えていると、そう声をかけられた。数ヶ月前から始めたバイト先で、そんなお声がかかったのは初めてで嬉しかった。行きます、と二つ返事をして、他にやらなきゃいけなかったことを一旦脳内から消し去った。

 

    飲み会はそれなりの盛り上がりを見せた。俺を除いて。と言うのも、今まで俺に誘いの声がかからなかったのは、他のバイトと交流をあまりとれていなかったからだ。その自覚はあった。

 

    普段あまり喋らない人との飲み会はどれほど辛いかわかりますか。まるで腫れ物に触るように、時々話降ったりするそういう気遣いって、意外とされる側の人間は気付くもんなんです。

    しかも、話を振られてもみんなの期待に応えるような芸当は到底できない。そんなん出来たらそもそも普段からコミュニュケーションとれてるし。

    最終的に、俺に出来ることと言えば、みんなが笑ってるタイミングに合わせてハハハと乾いた笑いをしてたり、たまに勇気出してツッコミみたいなことをして少しだけ空気を冷やしたりしてるくらいだった。

 

ーーーーー

 

    その記憶が走馬灯のように蘇る。忘れたいはずの出来事を、俺は何故セミをきっかけに思い出すんだろう。少し考えて、その理由は明らかになった。

 

    俺はこのセミなのかもしれない。本来いるはずでない場所で、さもここが自分の居場所ですと言わんばかりに振舞っているこのセミと。一緒なのかもしれない。

    俺はきっとあの飲み会にいるべきはずでなかった人間なんだ。俺がいるところでみんなで飲みに行く話をしていて誘わないのもバツが悪いから、彼らはとりあえず誘ってみただけなのかもしれない。誘うフリだったのかもしれない。なのに行きますなんて言われて、ほんとに来るのかよ、とか思われてたのかもしれない。

    なのに俺ときたら、もうこれで仲間ですよねみたいな雰囲気を出して無理していた訳だ。滑稽にも程がある。セミを見て、滑稽だなんて思っていた自分の方がよっぽど滑稽だった。

 

    なんだか無性に腹が立って、もう一度セミを足でコツンとやる。否、「コツンとする」ではなくて「蹴った」と言う方が正確だ。腹いせだ。八つ当たりだ。俺はセミにまで八つ当たりするような小さい人間だ。

 

    蹴られたセミはジジッと大きく鳴いて、飛び立つと、近くの窓から外へと出て、木に張り付いた。

 

    あのセミでさえ、最後にはいるべきはずの場所へと帰って行った。なのに俺ときたら。俺にも帰るべき場所、いるべきはずの場所はあるんだろうか。

 

    わからないけれど、とりあえず今帰るべき場所は家だろう。それだけはハッキリしている。

 

    いつのまにか太陽はさらに高い所へと来ていて、それに比例するようにセミの合唱が益々けたたましくなっている。

 

    それが何より不快で、俺はさらに項垂れて帰路を辿った。

目に写る"それ"は嘘か真か

 

    新しく始めたバイト先がこれまで使ってた銀行口座が使用できないとのことなので、別の銀行口座を開設しに近所の銀行へと足を運んだ。

    しばらく待ってると、待ち番号を呼ばれて席へと。きっとハチャメチャに優しいんだろうなって印象を受ける笑顔が素敵な女性が対応してくれる。

   ザッと説明を受けて早速口座開設の手続きへと移る。こちらの用紙の記入をお願いします、と紙を渡される。受け取ると、女性は少々お待ち下さいと奥へと引っ込む。

    口座を解説するだけで、微塵も綺麗な女性と接すると思ってなかった俺は携帯を取り出しインカメで軽く身だしなみを整える。

    うん、顔はいつも通りだ。少し寝癖が気になるので、そこを手ぐしで溶かしながら用紙を記入していく。

    少しすると女性が戻ってきたので、俺は書いた用紙を渡す。では、身分証明書のご提示をお願い致します、と女性。

    情けないことに俺はまだこの歳で運転免許を持っていない。学生証はダメなことは事前に承知していたので、俺は持ってきていたパスポートを渡す。

    が、しかし。確認を怠っていたがどうやらパスポートの期限が切れていた。保険証はダメですよねと聞くと、保険証だとまた別に顔写真のある身分証明書が必要らしい。

    後々、顔写真付きの身分証を提示してくれれば大丈夫とのことで、キャッシュカードなしで開設してもらうことで、俺は銀行を後にすることができた。

 

    最近では身分証明の基準が法的に高まってきて、以前より厳しくなっているらしい。この日、俺は現状身分証明が出来ないという事実を突きつけられた。

    身分証明が出来ないということはつまり俺が俺であることを証明出来ないと言うことだ。

   その事実に気付くことで、俺はひとつの不安を覚える。もしかして俺は俺ではないのかもしれないのだろうか。

    昨日友人と話してた俺、先週の俺、先月の俺、去年の俺、それよりもっと以前の俺、その全ての俺は本当に俺だった?

    これまでに積み重ねてきたアイデンティティがガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。精神面的な意味での自覚を失うと、次にはいよいよ視覚的な自分にまで疑いの眼差しが生じた。

    さっき身だしなみを整える際に見た携帯に映る俺は本当に俺だったのだろうか。鏡や写真に写る自分を見て、俺は自分を、背が高くて、少し色白で、鼻が低くて、まつ毛は少し長く、歯並びは整っていなくてそれでいて前歯がやや大きく、髪は太くて硬くややくせっ毛なルックスの人間だという認識で生きてきた。

    本来ならこんなことを疑問に思うことはないだろうが、自分が自分であることを証明出来ないというきっかけによって、生まれるはずのない疑問が生まれた。

 

    あなたはこれまでに、あなたが見たり感じることで積み重ねてきた認識や見解を疑ったことがありますか。

    恐らくないでしょう。俺だって今の今までなかったんだから。あなたの目に写るものや感じたことの全ては、それがあなたにとって真実であり、答えなのだから。

 

    でも、もしかすると。それはあなたにとって正解に見えるだけで、傍から見れば全然違うものかもしれない。あなたが赤色に見えたものも、他の人からすれば青色だったり、白だったり黒だったりするかもしれない。ガラスとか鏡に写るあなたがこれまでに自分と認識してきた人の姿もあなたじゃないかもしれない。

 

    早い話、客観的視点を持つことは大事だよって話です。目に写るもの全てをそのまま信じるんじゃなくて、1度疑いの目を向けてみたらもっと世界は広がるんじゃないでしょうか。そんな話です。オチはないです。

 

    それじゃあ。

フフフ…待っていたぞ勇者よ…。

 

    「お前好きそう。」

 

    そう言って俺が好きそうなルックスの女の子を見つけてきては、不定期に画像を送ってきてくれる数奇な友人が一人いる。

    そいつは、あまり他の友人から理解の得られない俺の趣味嗜好を何故か結構わかっている。でもわかっているもんだから、大体俺が既に知っている子を送ってくる。だから俺は大抵「この子可愛いよな。前からフォローしてる。」とレスしている。

    するとそいつはこう言った。

 

    「なんかもうこの世の可愛い女の子全部フォローしてる説あるな」

 

    あるわけないだろと。世界人口ナメるなと。

 

    たしかに俺は可愛かったり綺麗な女の子を見ているのが何よりも好きだし、それが俺の幸せでもあるので、常日頃からその辺りのサーチを怠ってはいない。アイドル、モデル、女優、一般人、YouTuberと垣根を問わず容姿の優れた女の子を見つける為に、SNSという大海原を航海している。Like a コロンブス

 

    話は大きく変わるが、幼少期、両親の離婚後父親側に引き取られた俺は、父と弟と父の実家で過ごしていた。手狭な一戸建てにニ世帯だったので、三人は一つの寝室を共にしていた。

   その寝室は三人が寝るにはやや小さいのにも関わらず、不釣り合いにデカいテレビが置かれていた。そして寝る前によく父親がテレビゲームをしているのを後ろから見ていた。その時間が好きだった。自分でゲームをプレイするよりも人のプレイを後ろから見ている方が好きだった。

    父はドラゴンクエストシリーズのゲームが好きで、俺も好きだったので、「眠いならもう寝ろ」とかける父の言葉に従わず、やがて眠気に抗えなくなるまでずっと見ていた。

 

    そのドラゴンクエストシリーズで特に印象的だったのが世界を制服しようとする魔王。当時不思議でならなかった。この魔王にも自分の世界(言うなれば魔界か?)があるはずなのに、どうしてわざわざ人間の世界に出張ってきてそれすらも己のものにしようとするのだろうと。

    でもこういう構図はドラゴンクエストのようなRPGものとか、少年漫画には結構定番で、ラスボスの目的は大抵、分け合える何かを分け合うのではなくて征服しようとしている。

 

    で、また話は戻るんだけど。俺は容姿の優れた女の子を見るのが好きで。常にアンテナを張って毎日毎日そんな女の子を探している。それこそ「この世の可愛い女の子全部フォローしてる説あるな」って言われるくらいに。

    そんなに言われてしまうくらいなのに、未だに月に何人も今まで知らなかった容姿の優れた女の子が出てくる出てくる。それが悔しくて堪らない。こんなに可愛い(綺麗な)女の子を知らずに今まで過ごしていたなんて、俺はどれほどの幸せを掴み損ねてきたのだろうと感じてしまう。

 

    だから俺は思った。

 

    「この世の容姿の優れた女の子全員知りたい」

 

    ここで一つ訂正なんだけど、さっき俺は容姿の優れた女の子を見るのが幸せと言ったが、それは俺がそういう人たち(女優かアイドルか何かはわからないけど)を見てることしかできないわけで。だから見てるだけで幸せと言ったのは、ただの強がりで本当なら付き合ったり結婚したりしたいよ。したいですよ。ええ。

 

    そこまで来たなら次に思うことは当然こうなる。

 

    「この世の可愛いor綺麗な女の子全員みんな俺だけのものにしたい」

 

    そう思って気づいたよ。あれ、これ昔不思議に思ってた魔王とか少年誌のラスボスと同じような発想じゃん。

 

    もしかしたら俺は。俺はもう魔王なのかもしれない。参ったな。助けてくれ俺を。倒してくれ俺を。勇者様。待っています。じゃないと俺は人の道を踏み外したままでいるかもしれない。本当に。早く来てくれ。待っている。

 

    それまで俺は相対した時のセリフの練習でもしている。せめて少しでもかっこがつくように。

あまりにも品が低い内容なので、読んでくださる時は食事中ではない時が幸いです

 

    子供の頃は大人という存在がとても羨ましかった。子供の目から見る大人はまさに自由の象徴だった。門限はない。宿題はない。お金を自由に使える。寝る時間も決められてない。嫌いな野菜を残そうが口うるさく言ってくる人もいない。そんな大人を見ていると、早く大人になりたいと切に願っていたものだ。

 

    しかし歳を経て子供扱いされるどころか、むしろ「もう子供じゃないんだから」と言われることのほうが多くなってきたあたりから、もしかして大人とはそれほどいいものではないのだろうかと感じ始める。

 

    子供の頃は大人が自由の象徴に見えたかもしれないが、それはまだ本当に大人を理解していなかったからだ。今になるとわかる。大人は宿題はないかもしれないが仕事がある。お金を自由に使える?稼いで得たお金から税金とか生活費やらいろいろ差し引かれてその中でやり繰りせねばならない。それに子供は一緒にいて楽しい友達だけを選んで人間関係を築くことができるが、大人はそういう訳にもいかず、社会的理由から苦手な人とでも関係を築かなければならないこともある。

 

    それに大人になるということは歳を重ねること、つまり老いることだ。日が暮れるまで外を駆け回る体力は維持できないし、出来たとしても次の日かその次の日に筋肉痛が訪れるし、そいつが一日で去ってくれる保証もない。体育の授業で最初に必ず行う準備体操。当時は果たしてこれに意味はあるのかと疑問に思っていたが、今になるとわかる。急に体を動かすと単純に体を痛める。あの頃は準備体操などしなくともある程度体がついていけていただけだ。そうなると体を動かすことがだんだん億劫になり、体の至る所に肉がつく。そんな風にして体はどんどんと衰退を辿っていく。

 

    大人になるということは一体どういうことなのだろう。20歳の誕生日を迎えること?成人式を済ますこと?それだけが全てでは無い気がする。体は大人でも中身が子供のままではないか。仮に20歳になったからといって、その瞬間に「じゃあ今日からお前は大人!大人の考えをしろよ!」って言われていきなりそうすることが出来ますか?俺は無理です。

 

    ではどうして精神的にも大人へとなれるのか。ここからは俺の個人的な意見なんだけど、20歳の誕生日とか成人式とか、そういうのはあくまで大人への最低条件なんだと思う。そこから自らの老いを実感して、「俺ももう子供じゃないな」と感じる度に、一つ、また一つと大人へと近づいていくのではないか。そんな気がしている。

 

    言うなれば、老いの実感は大人への階段だ。そしてこれは、子供から大人への過渡期にいる俺がまた一つ大人への階段を登った、そんな話だ。

 

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    昔から寝付きが悪い俺は、今も相変わらず寝付きが悪いままで、半日ぶりに見る太陽に挨拶して眠りに落ちる、そんな毎日だ。そんな生活から脱却するため、毎晩俺を眠りに誘ってくれる素敵な友達、酒、もといアルコールに力添えしていただいている。一足はやく社会へと旅立った同級生の奮闘を肴に飲む酒は、あまりにも自分が情けなくなって、深酒してしまう。

    そして酒は飲みすぎると、何故か次の日に腹が下ってしまう。毎晩飲んでいる俺は、1年の八割くらいは平気な顔をしてはいるが腹はユルユルだ。

    俺の父親なんかは1年の九割九分は腹を下しているらしい。父親はよく友人に、この間仕事中にうんこを漏らしたけどそのまま現場回ったなんていうクソみたいな話をして、笑っている。聞けば週に一回はうんこを漏らしてしまっているらしい。父親に限らず大人になるとそういうことは割とあるらしい。歳を重ねるとそうなってしまうのか、と自分の将来を憂いだ。

 

    先日の話だ。友達と寄ったコンビニで尿意を催し、俺はそこでトイレを借りた。便器の前へと立ち、チャックを下ろし、用を済ます。その時、俺の尻が俺に語りかける。

 

    「俺も息抜きさせてくださいよ。」

 

    俺はそれを許可し、軽く力を抜くと、尻は息抜きをする。が、しかし。「息」抜きと言うからには俺の尻から出ていくものは気体のものであらなければならいはずなのに、それは気体ではなかった。明らかに尻に違和感がある。

 

    あえて一言で描写するならば。俺はうんこを漏らした。ただそれだけの話だ。

 

    その夜、俺は酷い喪失感に襲われた。これが歳をとるということ、大人になるということなのか。子供の頃なりたくて仕方なかった大人とはこんなにも酷く悲しいものだったのか。こんなことなら大人になんてならなくてよかった。

    子供の頃に大人を夢見るのはそれが今の自分から遠く離れたとこにあったからなのだろう。いつの時も「今」はそんなに充実していなくて楽しくないもののはずなのに、後になって思えば楽しかったと思えるのは、きっと遠くにあるものは綺麗に見えるのだろう。山岳から見れる綺麗な夜景も、近づいていてしまえば最寄り駅から数十分で行けてしまうあの繁華街と何ら変わりはないように。綺麗なものは遠くなあるから綺麗なんだ。

    綺麗なものだからこそ、もっと近くで見たくなるのは当然なのに、近づいてしまえば綺麗に見えないなんて、あまりにも残酷で皮肉じゃないか。遠くに見える綺麗なものは、遠くから綺麗だなと思いながら眺めるべきなんだろう。こんなことを思えるのは、俺がまた一つ大人の階段を登ったからなのだろうか。

 

    そんなことを考えていると、気がつけば枕は濡れていた。

 

    目からも何か漏れてしまったのかもしれない。それが何かは知らないけれど。

 

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    あまりにも品がない話なので、部分的にいつもより少し詩的に書いてみたつもりなんですけど、それで誤魔化せたでしょうか。いやきっと誤魔化せてないですよね。失礼しました。

 

    それでは。

見せないままでいいじゃないか

 

    人間誰しも見られたくない一面とか見せたくない一面がある訳じゃないですか。あるでしょ?俺にだってある。

 

    俺の友達の大体は明るくて気さくな奴が多いんだけど、そんなんだからきっと結構異性にモテるんですよね。だから友達と飲んでたりすると「この間ヤッた女が〜」だとか「ナンパした女が〜」みたいな具合の話題が多いわけ。俺はそれをお前らほんといつまで経ってもバカだなみたいな顔して、如何にも俺はそういう時期も過ぎて今は丸くなりましたみたいに聞いてるんだけど、本当の所は別に俺は気さくでもないし面白くもないので異性にモテない。

    だから、俺が大学1回の頃の彼女と初めて性行為に及んだ夜にゴムの付け方がわからなくて焦ってた俺、結局勃たなくて彼女と気まずくなった時の俺、その次の日彼女の姉に「昨日勃たなかったんだって?そんな時もあるって!どんまい」って言われて恥ずかしさと気まずさで複雑な顔で苦笑いして「疲れてたんですかね」とか言ってた俺を友達には見られたくない訳です。

 

    そういう見られたくない一面が誰しもにある。例え家族だろうと見られたくない一面はあるし、寧ろ家族だからこそ見られたくない一面もある。

 

    兄弟や姉妹がいる人ならわかってくれると思うんだけど、交際相手の前でいる自分の兄弟姉妹は見たくなくないですか?俺は見たくないです。

    父親が若い女と話してて鼻の下を伸ばすところ、飲食店の若い店員に女の顔をチラつかせる母親、交際相手と性行為に励む自分の兄弟姉妹。想像してみてください。地獄です。

 

    話は少し変わって昨日の夜。我が家のWiFiはまさに「ないよりはマシ」って言葉がピッタリな程ポンコツで、2階の俺の自室だと急に回線が切れたりすることがあるので、我が家に置いて唯一の快適にWiFiが使えるリビングへと俺は下りた。

    イヤホンをして音楽を聴きながらリビングへと入ると、そこには背を向けて俺と同じくイヤホンをしてくつろぐ弟がいた。特にそれに気を留めず俺はYouTubeで好きなアイドルのMVを見たり、アップデートされたゲームなどをして1時間ほど過ごした。

    そろそろ自室に戻るかと思ってイヤホンを外すと、どうやら弟は誰かと電話をしていたようだ。相変わらず俺がいることには気付いていない。今更わざわざおやすみなんて言葉をかけるほどでもないので黙って戻ろうとリビングのドアに手をかけた時、それは聞こえてきた。

 

    「もう寝るのぉ…?…ハッ…。そっかぁ…。…じゃあ早く寝てぇ…ハッ…。おやすみぃ…ハッ…。」

 

    昔ツイキャスが全盛期の頃に聴いたことがあるような、えげつないくらい吐息を織り交ぜて話すキャス主みたいな話し方は、紛れもなく弟の声だった。

 

    そう言えば父親から聞いたことがある。どうやら今あいつは彼女という存在がいるらしく、ということは恐らく通話相手は彼女なんだろう。

 

    その声や話し方がもう本当にすこぶる気持ち悪かった。そんな弟を見たのは初めてだったし、出来ることなら見たくなかった。いっそのこと俺がいることに気付いてくれて「初見さんいらっしゃい」なんて言ってくれたら俺も笑えたしどれだけマシだったろうか。そんな出来事が昨日の夜あった。

 

    家族相手でも、むしろ家族だからこそ見せたくない見られたくない(同様に見たくもない)一面がある訳だから、ましてやそれが友人相手となるともっとあるだろう。

 

    たまに「お前にだからこんな一面を見せられるけど〜」なんて話し始めで自分の新たな一面を出してくる人がいるけれど、別に無理しなくたっていいんです。自分の全てをさらけ出さなくたって人との関係性なんて十分に深まるし、対人関係なんて、ごめんって言って謝る心といいよって言って許せる心があれば何度だってやり直しがきく。そういうやり取りを何度も踏まえて関係性は深くなっていくものなんだろうなって俺は思います。

 

    だから本当に、見せたくない一面や見られたくない一面があるならわざわざ見せてくれなくたっていい。ずっと見せないままでいい。そんな事しなくたって、これを読んでる君が誰かは俺は分からないけれど、俺と君は十分に仲がいいよ。そういう話。それでは。

家族ごっこ

 

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    昔こんなドラマあったよね。櫻井翔が「東大合格率100%」の家庭教師で、ある家庭に雇われる。その家庭はそれぞれが問題を抱えており、その家庭を一度めちゃくちゃにするが、最後には再構築されたその家族は以前より強固な絆を築くってやつ。

    これとは違うけど、うっすらとこれに関連するような、そんな話です、今回は。

 

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    今でこそ自分の家庭環境を不幸とは思わないしそれなりに満足していたりはするんだけれど、「世間一般的に」というフィルターを介して見れば俺が過ごしてきた家庭環境は良いか悪いかで言えば後者に寄っている。

 

    3歳の頃に両親が離婚した。後になって理由を聞いたけれど、双方にそれぞれ問題があるなと思った。母親は俺と弟の親権を拒否し、反対に父親はそれを望んだ。(関係ないけど親権なんて拒否したり譲渡できたりするものなのだろうか。親からすれば子はどこまでいっても子であるのと同様に、子からすれば親もいつまでも親であることに変わりはないのに。)

    そうすれば後は自然に父親側に引き取られたが、当然父親には仕事がある。金銭面での養育は可能ではあるが、それ以外には手が届かないし当時の俺は3歳で弟に至っては生後間もない。自立なんて無理な話だ。結果俺と弟は父親の実家で父方の祖母と叔母に面倒を見てもらうことになる。

 

    中学入学を目前にして父親は再婚する。子供ができたから。俗に言うデキ婚だ。当時、神妙な面持ちをした父親に新しいお母さんを受け入れてくれるか(結婚してもいいか)と聞かれて俺は同意したが、あの時拒否していたらどうなっていたんだろう。そもそも拒否したところでそれが認められたのだろうか。

 

    しかしその再婚も長くは続かなかった。ある日再婚相手の母が父との間にできた子供(俺の腹違いの弟)を連れて出ていった。元々精神的に少し問題を抱えていた人で、当時の俺は反抗期とか遊び盛りだったのが重なってよく再婚相手の母を疲弊させていた。

    言うなれば俺のせいで離婚したようなものではあるが、そもそも先に父親が俺と弟に負担を与えていたんだからこれでおあいこみたいなもんだろと全く罪悪感はなかった。或いは罪悪感を感じたくないためにそう思おうとしていたのかもしれない。なんの関係もない巻き込まれた腹違いの弟には今でも申し訳なく思うが。一生俺と親を恨み続けてくれ。

 

    まあそういう家庭環境だったので、俺には母親という存在がこれまでの人生に殆どなかった。法律上の関係上、実の母と月に一度面会していたが、別にあの人に母親を感じたことはないし。

    そう言えば3年くらい前に、家に飯が用意されてなかったので父親に腹減ったからなんか食わしてくれって連絡したら、知らんスナックに連れてかれて、そこのママ(もちろん知らない)のカレー食わされたことあった。「母親の味」とかよく言うけれど、それって一体なんなんですか。本当に。

 

    父親とは仲が良い。それもかなり。そりゃ時折衝突もするけれど。基本的には仲が良い。だって普通の家庭の人なら親と過ごす時間の全ては母親と父親の「2」で割られるけど、なんせ俺は「1」だから。一般家庭の皆様の父親との親密度が、俺の場合それが倍な訳だ。

 

    父親のことはなんだかんだ好きだ。尊敬できる部分もある。でも1つだけ嫌いなところがある。それはやたらに「仲良い家族」を演出してくるところだ。

    実際俺と弟と父親の3人家庭は仲が良い。でもそれを強調してくるのは正直いただけない。父親とすれば俺と弟に自分のせいで負担を与えたという罪悪感があるのかもしれないが、それを補うかのように「母親がいない家庭でも俺たち家族は幸せ!」みたいな雰囲気を構築するのは、父親のエゴや自己満足、或いは保身に付き合わされているようで吐き気がする。

 

    別にそんなことしなくていいじゃないか。ねえ、お父さん。俺と弟はそれなりに幸せだと思ってるよ。そんなことしなくてもありのままで良い家庭だろ、俺たち。お父さんが頑張ってきたの1番近くで見てたのは間違いなく俺と弟だよ。充分頑張ってたじゃないか。もうやめなよ。やめようよ。こんな家族ごっこはさ。

 

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    みんなにもそれぞれなにか「ごっこめいたもの」あるんじゃないでしょうか。家族ごっこ友達ごっこ、はたまた人間ごっこ?知らないけれど。何かしら1つは誰しもにあるものなんだろうと。そんな気がしているよ俺は。これを読んでそれに気づいたり、そこから逸脱してみようと思うきっかけになれば幸いです。それでは。    

 

    

どうせ悪い終わりを迎えるくらいなら

 

    今日同じバイト先の友達がバイト終わり早く終わったら飲みに行こうぜなんて誘ってくれて、ほんとにお互いバイトが早く終わったもんだから誘える人誘って飲みに行って、今帰り道なんですよ。

    ほろ酔いなんで誤字脱字とかあったら申し訳ない。きっと文章もろくでもないもんなんだろう。

 

    その友達は、俺の数多くいる友人の中でもかなり仲がいい友人で、何が言いたいかってつまるところ楽しかったんですよ。誘いを受けて来てくれた人もかなり心開いてる人だったので、変に頑張って喋りすぎずにいられるというか、自然体のまま飲めて、突然喋り出したり黙ったりできるので本当に楽しかった。

 

    仲が良い人とお酒を飲むって言うのは、未成年の人にはわからないかもしれないけど本当に楽しいことで。まだまだ俺は21歳の若輩者かもしれないけど、そんな若輩者にも仕方なく続けてる人付き合いみたいなものがあって。そういう人たちと飲むお酒は本当に美味しくないし、楽しくない。

 

    楽しくて美味しく飲める酒の席なんてのは俺の年齢でもあまり多くはないし、だからこそ楽しく飲めた酒の席の帰り道は身体中を血流に乗って巡るアルコールのせいもあるけれど、本当に気分がいい。

 

    そしてそういう時に俺は死にたくなってしまう。なんでかってどうせ悪い死に方するくらいなら、今この幸せに満たされたまま死んでしまったほうがそれが一番いい終わり方なんじゃないだろうかって思ってしまうから。

 

    小さい頃から「死」というものに非常に関心が強くて、もしかしたらみんなも一度は誰に言われずとも「死」について深く考えたことはあるんじゃないでしょうか。本を読んだり、映画を見ながらどんなエンディングが待っているんだろうと想像してしまうように。

 

    人間誰しも永遠には生きられないし、いつかは終わりがあるから、だからこそその終わりや終焉について考えてしまうことはあると思うんです。

    どうせならいいエンディングを迎えたくはないですか?病に見舞われて、薬の副作用に苦しみながら死ぬのは嫌じゃないですか?俺は嫌です。

 

    だったら幸せなまま死にたい。ならばそれは今なのではないのだろうか。そういう思考の流れで幸せな時こそ死にたくなってしまうんです。決して、いいこと何も無いしどうせこの先もないなら今死にたいなんて、そういうマイナス的な意味で死にたいなんて言ってるわけじゃない。幸せだからこそ死にたいって話です。

 

    あれ。言いたいこと全部言ってしまった。どうやってこの話を閉めたらいいのかわからない。あれです、あの、みんなもいつかは死んでしまう以上、理想の死に方、いい死に方を考えてみてはいいのではないのでしょうか。それでは。