無題

タイトルとか考えるのが恥ずかしい

普通ってなんだ?

 

    同居している叔母の口癖は「普通」だ。俺が何をしても、「普通こうでしょ」なんて横槍を入れてくる。右を選べば普通は左、左を選べば普通は右、と言う。あーもう。うるせえうるせえ。

    あまりにも普通を連呼するものだから、俺は普通っていうものがわからなくなってきた。そこで、今度また普通を出されたら、聞いてみることにした。

 

    そして昨日のことだ。夕飯を食べながら、丁度放送していたグルメ番組を見ていた。その番組では冷や麦が紹介されていて、俺が美味そうだな、と呟くと、一緒に見ていた叔母がこう言った。

 

    『えー、あんたこんなの好きなの?普通、若い人間こんなの好きじゃないでしょ。』

 

    早速、叔母の言う普通が出てきたたので、すかさず俺は質問する。

 

    「そうなの?でも俺の友達には結構好きな人多いよ?」

 

    『私があんたくらいの頃はこんなの好きじゃなかったし、友達もこんなの好きじゃなかったから。』

 

    ここでやっと普通がわかった。叔母が今まで言っていた「普通」がわかった。 彼女はどうやら、自分が今まで経験したことや見たもの、或いは自分を基準に普通を構成しているみたいだ。

 

    しかし考えてみると、こういう自分本位で普通を作ってしまうことは日常生活でよく見受ける。

 

    例えば、友達とコンビニでお菓子を買うとき、ポテトチップスの味で、普通これ選ぶだろ、なんて話したり、コーヒーは普通ブラックだろとか言ったり言われたりするとき、明らかにその普通は自分本位のものだ。

    こういう自分本位の普通は別に悪くはないし、あってもいいと思うんだけど、それを人に押しつけたり強制したりするのは違うなと感じる。

 

    俺はみんなそれぞれの普通があると思うし、むしろその方が自然体で健康的だけど、何故それを押し付けたり強制したりするのだろうか?君の普通はそんなのなんだね、とか、僕の普通はこんなのだよ、なんて風に尊重し合えばいいじゃないか。

    聞いてるか、叔母。俺はお前に言っているぞ。まあ、あなたは俺がブログやっていることも知らなければ、仮に知っていても携帯触ってるときツムツムしてるところしか俺は見たことがないから、あなたがこれを見ることはないと思うが。

 

    俺も、ポテチは普通関西だし醤油だろ、とか、コーヒーは普通ブラックだろ、とか言った覚えはある。俺も叔母がよく言う普通に疑問を感じて今回こういうことを考えるに至るまではそういう風に振舞っていた。

    つまり、みんな無意識のうちに自分自身の普通で殴り合っている。押し付け合っている。嫌な世の中だ。そんな世の中は終わって欲しい、解放されたい。

 

    なんとなくだが、民主主義が俺たちを、人々をこういう風にさせるのかなと感じる。民主主義で育った俺たちは、みんなが納得する普通を見つけようとするし、でも人間だから利己的に自分の普通でみんなが納得すればいいなと思って、自らの普通を出して、それを押し付けて殴る。

 

    みんながみんなの普通を尊重し合って生きていく世の中を目指すには、民主主義からの脱却しかないのだろうか。となると、俺は政治家にでもなるしかないのだろうか。

 

    もしかしたら、遠い未来なっているかもしれないな、政治家。その時は、どうか清き一票を。