忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

ここは地獄か?

 

    これまでに書いた記事を読み返すとあることに気付いた。口調が全く統一されてなくてバラバラ。

     ある記事では「みんな」って言ってるかと思えば次の記事で「おまえら」とか書いてるし、「〜だよ」が「~だろ」に変わったり。ひどい時は記事書いて公開する前に、誤字脱字とかのチェックしたら、一つの記事の中で口調がコロコロ変わってる。

 

     たしかに未だ人に話すときの態度が俺の中で確立してない。一人称ですら「俺」って言うほど男らしい感じでもないけど、「僕」ってほど大人しい人間でもないし、「私」というには些か若すぎるしなとか考えてずっと迷っていた。

    三十路までは「俺」でいいやってようやく自分の中で答え見つけるまでにしばらくかかったくらいだから口調なんてまだまだ確立しそうにねえよ。

 

    今の時代はいろんな方法でブログなんか見つけれるから、俺が想定してないような人にも読まれるかもしれないから口調の確立が難しい。もしかしたら還暦超えた人が見てるかもしれないのに、「おまえら」なんて言えない。

    俺も他の人のブログよく読むからわかんだけど、ブログ読んでるときって書いてる人と自分の二人で話してるような感じに錯覚するんだ。みーんなまとめて「おまえら」って言うのは簡単だけど、面と向かって目上の方に「おまえ」と言うのは育ちがいいからちょっと出来ないんだ。

 

    ネット上では実際に話すわけじゃないんだけど、これが現実だと実際に話すことになるからまあしんどい。一対一で話すとき相手によって自分は顔を変えるから、その人用の自分を演じてるのが本当にキツい。だって自然体じゃないから。

    人間なんてみんな何個かいろんな顔を持っていて、ひどい人になると自分と関わりのある人の数だけ顔がある。「人間関係に疲れた」ってセリフは、真意は「嘘の自分を演じ続けるのが疲れた」ってこと。

    ほとんど自然体のまま顔を使い分けれると生きやすいと思うんだけど、それが出来る出来ないは努力ではどうにもなんねえんだよな。人によって顔を使い分けるってのは生き方だし、生き方なんて簡単に変わらない。だって変えたらそれじゃあ今までの自分はなんだったんだっていう自分の否定になるから。

    人によって顔を使い分けて生きてきて、その顔は自分の本来の顔とは程遠くて、そのギャップに苦しむこともあるけど、それでもそうして生きてきたのに今それをやめたら今まで無理してた自分は無駄な努力かよって思っちゃうんだよ。

 

    だからみんなたくさんの顔を持って、それをうまく使い分けて生きてる。生きやすさを求めて。人によっては自分と関わりのある人分の顔を持つどころか、自分と関わりのある人の中で生まれたグループ(学生時代よく一緒にいたメンバーとか)用の為の顔まであったりする。

    歳をとればとるほど、自分と関わりのある人間は増えていく。俺もずいぶん関わりのある人間が増えたし、それと比例していろんな顔が増えてく。ケルベロスなんてかわいいもんだ。そろそろ首が増えてく顔の重さに悲鳴を上げている。だからかな。最近首が痛いんだよな。みんなもそうなんじゃない?その証拠に、ほら。今ってみんな首曲がってるじゃん。