会えなくて連絡もとれないとなるとそれはもはや「死」だ
亡くなった祖母の法事が二年くらい前にあって、お経をあげてもらったあとありがたい話をしてもらった。
その話は「死」についてだった。人の「死」は二つあるらしい。一つは肉体的な「死」。もう一つは精神的な「死」。肉体的な「死」は心臓が止まって生命活動が停止するもの。「死」の一般的なイメージ。
じゃあ精神的な「死」とは。端的に言うと、故人を知る人がいなくなったときがそうらしい。故人は誰かが思い続ける限り、それはその人の存在はまだ生きていることになるらしく、もちろん俺も祖母のことは死ぬまで忘れることはないし、そういう意味で祖母はまだ生きている。
みなさん彼女のことを毎日思い続けてあげてください、そう締めくくって住職の話は終わった。
この話を受けて、以後俺はよく「死」について考えるようになった。「死」は肉体的なものだけがそうじゃないという概念を知って様々な角度からの「死」を見つめた。
その結果、俺は「死」には三つの形があると考えた。一つは肉体的な「死」。二つ目は住職の話にあった精神的な「死」。そして俺が考えた三つ目、事実上の「死」。
事実上の「死」とは、限りなく肉体的な「死」との条件が被った場合のことを指す。会えない、喋れない、触れない。昔仲良かった人、例えば小学校の友人とか、大人になって思い出話に花を咲かせたら会いたくなって、でも連絡先も知らないし今どこに住んでいるのかもしれない、誰か連絡先を知ってる人もいない、となるとそれはもはやその人が事実上の「死」を遂げたことになる。
俺はその事実上の「死」がいちばん怖い。だって最も起こりうるから。特に俺は連絡先を交換しても本当に気を許した人間じゃないと用もなく連絡をとるのができないので、連絡先を持ってる人でも事実上の「死」を迎えてしまうことがある。留学してたとき仲良かったしおみさんとさおりさん、入院してた病院の看護師さん、昔のクラスメイト、みーんな死んだ。悲しい。
いきなり向こうから連絡がきて、生き返ってくれる日を待つ。