忘れないように

単に記憶力が著しく悪いのか、それとも他に何か原因があるかわからないけれど、年々忘れてしまうことが増えています。その時を生きていた俺が死んでいるような、もう二度と手に入らないものがこぼれ落ちていってるような、そんな気がしてもうこれ以上失いたくないので、日々を書き留めたい気持ちがこのブログです。

生きてるだけで失礼

 

    もう何度もこのブログで俺が自己肯定感が低いって話を繰り返してて本当に申し訳ないんですけど、また今回もそういう話なんです。いやお前が自己肯定感低いのはわかったからもういいよって声が今これを書いてる画面の向こう側から聞こえてくる気がするんですけど、それでも書きます。なんでこの期に及んでそれでも書くかってね、深刻さをわかってもらいんですよ俺は。

    読んでくれてる人は俺が自己肯定感低いことにもう理解してくれてると思う。ただ重度なんですよ。次は重度さを理解して欲しい。そうしてやっと俺がこのブログで自己肯定感低い話をメインで書くことがなくなる。俺ももうこんなこと書くのに飽き飽きしてるし見てくれているみんなも飽き飽きしてるに違いない。お互いのためにもう同じような内容の記事を繰り返さないでおこう。助け合いだこれは。協力しよう。

 

    俺の自己肯定感の低さがどれほど深刻かって、例えどんなに仲のいい友人でもふとした時に「もしかしたら俺のことほんとは嫌いかもしれない」と思ってしまうくらい。それで突然遠慮がちになったり謙虚になったりして、そんな風にされた相手としては突然どうしたんだよおいと思うわけですよきっと。接し辛くなるに違いない。

 

    仮に俺がもう一人いたとしよう。そのもう一人の俺と俺が二人でいるときに突然そんな風に気遣いしてきたら、俺はきっと「気遣いしてくるってことはやっぱり本当はまだ俺に気を許してないんだな、仲良いと思ってたのは俺だけなんだ」なんて思って凹むに違いない。つまり自己肯定感低すぎて突然気遣ったりするのは相手にそういう気持ちにさせる可能性ってことがあるってこと。

    ハッキリ言ってこんなのはもう失礼だと思うんですよ俺は。相手が親しく思ってくれていて自分も相手のことを親しく思っているならちゃんと意思表示するってのが礼儀でしょ。俺の自己肯定感が低いことを原因に親しく思っている気持ちを表現しないなんて礼儀に反する。そういう意味で失礼。

 

    こういう話をすると、そこまでわかってるならあとは自分がそうするだけじゃんなんて言われたりする。本当にその通りなんだけど、それが出来たら俺は苦労してないわけですよ。相談に乗ってもらってそれに対して正論を返されたとき、いやそれはわかってるんだけどさーそうじゃなくてさーって思ったことないですか?求めてるのは同調。そうだよね、辛いよねって寄り添って欲しいだけ。どうすればいいかなんて本当は自分でもわかってる。ただそれが出来ないから悩みを打ち明けるって形で同情してほしいだけ。なのに現実は正論という右ストレートで一発KO。だから正論は嫌われるのかもしれない。生き方なんて簡単に変えれないんですよ。人は変わらない。それが真理。

 

    ただ俺が自己肯定感低いことを理由に気遣いされたら親しいと思ってるのは自分だけで相手はそうじゃないかもしれないと落ち込ませてしまう可能性があるって話をしたのは、それがもう一人の俺と俺だったらって話。自己肯定感低い俺だからそう感じるだろうって想像の範囲でしかない。もしかしたら普通なら人はそんなこと思わないかもしれない。それを勝手に俺がそう思うだろうって決めつけて話を進めてるだけ。

    さっきの俺の話を整理するとそう思うのは自己肯定感が低いから。みんなもそうだろうって決めつけてるのは言い換えればみんなも自己肯定感が低いと言ってるようなもの。これ、みんなに対しての敬意がないようなもの。礼儀ってのは敬意を表す作法だから、つまりまたしても失礼。何をやっても裏目。生きてるだけで失礼なようなもの。

 

    ほら、また気付けば自己肯定感が低いこと言ってる。そんでまたこれが裏目に出て新しい失礼を犯すんだろうな俺。どうすればいいんだよ。助けてくれ。